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  時代の風景〜郷愁の旅       <<< 双葉山 1/4 >>>
大津寄 雄祐 

  (1)全盛期(六十九連勝)〜昭和11年春から14年春場所〜

  大横綱双葉山は明治45年2月大分県宇佐郡に生まれた。昭和2年3月 十四歳の時初土俵、7年2月新入幕、13年1月、二十五歳で三十五代横綱に昇進、 20年11月引退した。この間優勝十二回、全勝八回、である。最盛期五尺八寸、三十四貫(179cm、128kg)。   昭和14年1月15日(日)は大相撲の歴史に忘れることのできない日となった。その日は14年春場所4日目、五場所全勝で前人未踏六十九連勝中の横綱双葉山が 西前頭3枚目の安芸の海に敗れ、連勝が六十九でストップすることになった日である。

  読売新聞は当日の状況を「布団の雨、蜜柑の雨、押し飛ばされた人の雨も二、三混じって二階三階から降った、もう無茶苦茶だ」と報じたほど、場内は興奮のるつぼと化した。

  まず双葉山の連勝の経過をみよう。
場所 番付 勝敗 連勝 備考
 11年春  前頭3枚目 9勝2敗   5勝   7日目から5連勝
 11年夏  西関脇  11勝全勝   16勝   夏場所は5月開催 
 12年春  東大関  11勝全勝   27勝   春場所は1月開催
 12年夏  東大関  13勝全勝   40勝   
 13年春  西横綱  13勝全勝   53勝   
 13年夏  東横綱  13勝全勝   66勝   
 14年春  東横綱 9勝4敗   69勝   3連勝して破れる

 この歴史的な日を私は幼稚園に入園する前で何も知らない。ラジオ放送で、アナウンサーの興奮した絶叫、そして観客の歓声はおぼろげな記憶があるが、それが相撲放送だったのか、 ましてや、双葉山が破れた放送(当日は日曜日)を家族が聴いていたのかどうかも分からない。しかし私が小学校に入学した頃(昭和15年)から私にも相撲の具体的な姿が分かってくる。

 私は当然のごとく双葉山、立浪部屋のファンであった。五歳年長の兄は玉錦、二所の関部屋のファンである。玉錦は13年12月4日盲腸炎の手術後肺炎を併発して死去、三十六歳であった。 三十二代横綱、優勝九回であり、双葉山連勝ストップの一ヶ月十日前の出来事であった。双葉山と玉錦は13年春、夏場所ともに東西の横綱として千秋楽で顔を合わせている、 この連勝中四回顔があっていて当時最高の好取組であった。人間誰しもファン心理に理屈はない。私の双葉山、兄の玉錦ファンというのはもの心ついた時の英雄崇拝心理だったと思う。
 
 12年夏場所から双葉山人気に支えられ連日正午前に満員札止めの盛況となったこともあり、一場所の興行日数が十三日になった。それまでは十一日であり、 もし十三日であればもう六勝上積みし七十五連勝となる可能性は充分考えられる。
  それに当時は年二場所であった。せめて年四場所制であればさらに勝ちを加算でき、途中で敗れるリスクがあるとしても、双葉山の強さからすれば記録はもっと伸びたのでないかと思う。 連勝記録第二位は千代の富士の五十三連勝(昭和63年)、第三位大鵬の四十五連勝(昭和45年)である。
  現在は年六場所、一場所十五日制で、年間日数は当時の四倍であり、連勝する可能性は増えているが最近は全勝も少ない。 双葉山の六十九連勝が如何に素晴らしい記録であったかと改めて思うのである。
  双葉山の連勝は冒頭に述べたように前頭三枚目、出羽の海部屋の安芸の海が、外掛けで浴びせ倒し破ったのである。相撲フアンにとっては予想外の結果であった。 この大金星は両者の初顔合わせで起こった。安芸の海は18年春には横綱に昇進しているが、初金星後はついに双葉山に勝つことができなかった。(一不戦敗を含め九敗した。)

  打倒双葉山は、出羽海部屋の悲願であり、早大出の知将笠置山を中心に、秘策が練られたといわれている。笠置山は関脇まで昇進したが、上背がなく双葉山とは十七戦して一度も勝てなかった。
  普通の力士ならここであきらめてしまうところだが、笠置山は、八ミリ映写機(相当高価であったであろう)で、双葉山の取り口を徹底的に分析した。その結果双葉山が右足を引くクセがあるので、 その虚を衝けば倒すのは可能だとの結論をだし、素質に恵まれている安芸の海に、双葉山の右足を狙う作戦を授け、その内容を雑誌に発表までした。(以上は、「昭和の名横綱シリーズ1」や、 工藤美代子の著書などを参考にした。)

  その日の取り口の模様を双葉山はつぎのように述べている。
「あとから気がついたことですが、私の相撲にも不用意なところがなかったとはいえません。いわば、投げにゆく体勢ではないところを、強引に投げにいった形です。 相手はかねがね私の弱点を研究していたわけでしょうから、そのネライと私の不用意とが、はからずもあの土俵で合致して、ああいう実を結んだものと思います」と。 (双葉山著「相撲の品格」84ページ)

  双葉山の七十連勝がならなかった相撲そのものを国技館で見ておられる方がいらっしゃった。当時小学校高学年であった先輩の『双葉山散る』観戦記は大変珍しく、 臨場感あふれる貴重な歴史の証言と思い、以下に紹介させていただく。
「これは自慢話と取られるのが不本意なのであまり話さないでいましたが、実は昭和14年春場所4日目に父に連れられ、桟敷席であの歴史的一番を見ていました。 あの日の双葉山と安芸の海の取り組みは結びではなく、男女ノ川と鹿島洋の取り組みが残っていましたが、双葉山が敗れると観客全員総立ちとなり、結びの男女ノ川、 鹿島洋戦など見る者なく国技館全体がそれこそ興奮の坩堝となりました。読売新聞の記事通りで二階席からは座布団はもちろんですが、みかん、すし、その他いろいろなものが落ちてきました。 事実かどうか知りませんが火鉢まで落ちてきたという報道もありました。それでもあの騒ぎの中双葉山が正面席に向かって丁寧にお辞儀をして花道を引き揚げて行く姿が強く印象に残っております。」
平成25年10月23日