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「精銅所」物語・・・(6)
大津寄雄祐  
9.日光と庄野英二

   親しい友人の竹内理さんが会社のOB会のホームページに次のような「昔の話」を投稿された。(平成21年4月)
   「庄野英二は芥川賞作家である庄野潤三の兄である。彼のエッセイ集に「ロッテルダムの灯」という小冊子がある。これが昭和36年第9回日本エッセイストクラブ賞を受賞した。その巻末に年譜がついている。昭和11年21歳の時「関西学院を卒業。日光の、古河電気精銅所、中鉢氏 佐々木氏のお世話になり同所少年団の指導を手伝う。日光の美しい自然の中で子供たちと遊んで暮らした」と記している。彼は翌年兵役に入り戦後復員後は、児童文学の分野で活躍、多くの賞を受賞、昭和50年60歳の時、帝塚山学院大学学長となり、平成5年なくなった。彼がどのような経緯で日光に来たのか今の所不明である。

   私は庄野潤三の小説、エッセイが好きで、2007年文春社発行の「ワシントンのうた」93、4ページに次のような文章があるのを読んでいた。
   「兄は関西学院を卒業して、日光へ行き精銅所に勤めた。精銅所の職員の子供たちに青年部のようなものがある。この青年部の人たちがキヤンプ生活をする。そのキヤンプの指導をする人が要る。世話して下さるかたがいて、兄はこの指導者の仕事をすることになった。身分は精銅所の職員で、月給を貰った。
  どなたがこの仕事の世話をして下さったのだろう。私が帝塚山学院の小学部の頃、「小鳩の群れ」というボーイスカウトの会があって、ときどきキヤンプをした。「小鳩の群れ」の指導をしたのは、小学部の若い宮本先生であった。
   リーダーの宮本先生がニユージーランドで開かれたボーイスカウトの大会に日本代表の一人として参加された。その宮本先生が精銅所の仕事を兄のために世話して下さったのでないだろうか。ボーイスカウト連盟があって、その役員を宮本先生がしておられたから、精銅所が指導者をさがしていることが分かって、兄英二を世話してくださったのかも知れない。
   この事情を兄に訊ねてみたいが、残念なことに兄は先年、大阪の病院で心臓の手術を受けたが、しばらく病院にいて亡くなった。
   日光精銅所の仕事は楽しかったらしい。兄が入営することになって日光から大阪に帰るとき青年部で親しくしていた娘さん二人を連れて来て、帝塚山の家に泊めて、大阪の街を案内したことをおぼえている。

   英二氏は単なる文筆のひとではなく、洋画家としても、旅行家としても有名で、欧州、ソ連その他あちこち歩かれた。古きよき時代の日光がこのようなかたちで語られるのは貴重なことと考え紹介した。潤三氏の文中終始古河はなく「精銅所」と書いている。(文中中鉢氏は戦後十二代所長で後年日本ゼオン社長、佐々木氏は戦後日光市長を長く歴任した。)
   「精銅所の少年団」といえば、全国に名をあげ、その教育上の功績も少なくなかった。精銅所に少年団をはじめたのは大正14年からで従業員の家庭を良くし、清滝(工場所在地)を住みよいところにするため、ある幹部が海外出張の体験からボーイスカウトの教育法を取り入れたのが始まりであった。学校教育と提携し社会教育に貢献したので、県内は勿論、全国にその名をあげた。・教育方法は国際的なものであったので、英、米、満州、中国等の少年団と交歓を行い精銅所少年団もドイツやタイに代表を送ったこともあった。


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10.社宅

   人里離れた清滝に工場が建設されたので、住宅問題は創立当初から大きな課題であった。ただわれわれが入社した時の社宅は、当初建設された社宅は一新され、いわば第二世代ともいえる昭和10年代に建設が進んだものである。そしてそれら社宅も昭和50年頃から統廃合が続き、かつての社宅群はその面影は残らないぐらい変化した。以下簡単に素描しておこうと思う。

   日光から足尾に通じるいわば日光の出口に細尾社宅があった。昭和14年建設(485戸)に着手した。昭和から平成に変わる頃、この社宅地域は関係会社や、精銅所の工場敷地に変わって行った。
   精銅所の道路ひとつ隔てた所に中安戸社宅がある。昭和9年下期に職長級社宅一棟一戸建て19棟建設と記録されている。この地区は工場に最も近いところにあり、社宅建設が進み、昭和50年ころ鉄筋アパートが建設され新婚の若い従業員の社宅として現在では唯一健在である。

   精銅所のいわば後背地に丹勢山があり、そこに社宅地区があった。この丹勢社宅は所長以下幹部が居住した社宅地区であり、大学卒業の若い社員が入寮した紫明寮もここにあり、我々も居住した。この時代の木造の寮は鉄筋の個室の独身寮に建て替えられ、今も健在である。また部長、課長など工場の幹部クラスは単身赴任が多くなったので単身者用のアパートが建設された。戦前に建設された百戸を越える戸建て住宅は徐々に減らし利用を終了した。かつてそこに居住した方たちもご案内して平成21年「閉村式」を行った。昭和12年5月地鎮祭がおこなわれ、社宅の建設がはじまり、約70年間での閉村であった。なお、大学卒社員の独身寮は、13年に清滝から新設移転され紫明寮と呼ばれたが、これは大正5年頃当所経理課長から早大教授となった林発未夫が命名した。

   東照宮から清滝に向かうと右側に安良沢社宅があった。この社宅は昭和15年から終戦までに建設され、精銅所では最大の社宅地区で6百戸強あった。この地区の土地を昭和50年を第一期として従業員に売却した。現在は協力会社があった跡地に会社所有地があるが、広い、立派な住宅地に変わった。
   高校時代の友人金子五郎君はお嬢さんが当時古河本社に勤務であったので一区画購入し、現在は別荘として活用している。
   また和の代社宅は昭和11年建築に着手したが、この敷地は古河機械金属(古河鉱業)からの借地であったので、社宅の整備計画の第一歩はこの地区の返却から始まった。機械金属は返却を受けて土地の一部をボウリングしたところ、温泉が吹き出たので、現在、運営を市に委託、市営とし日光和の代温泉「やしおの湯」として市民はもちろん一般の人達の温泉として開放されている。
   各社宅自治会が主催し、大運動会、ハイキングや年中行事が盛り沢山行われ従業員相互の連帯と仕事への意欲向上につながった。
   丹勢社宅には各戸毎に給湯設備が完備していて何時でも自由に湯が利用できた。社宅の電気、水道代は、当初無料であったが昭和40年初めに有料になった。しかし、各社宅地区の共同浴場は社宅が廃止になるまで続けられた。

   社宅ではないが来客の接待、宿泊施設として「晃楽荘(入町クラブ)」があった。昭和15年買収したもので、戦時中は軍部関係者の宿泊、休憩等に使用し、また本社の一部が疎開し事務をとったこともあった。戦後は社内の出張者や外来者の宿泊休憩所として利用した。平成5年頃、来客に泊っていただくには老朽化が進んだので利用を停止し、廃却した。ここは日光奉行屋敷跡で明治になってからは日光県、日光ホテル、観光閣など変遷したが由緒ある建物であり、日光の従業員はもちろん、日光への出張者に活用頂き日光の思い出の施設であったと思う。
   また、戦時中、徴用工、学徒動員、などで従業員が一万人を越えることになったので、昭和18年、旧称「大名ホテル」を買収した。これは23年日光市(当時は町)に寄付した。ずっと長く日光市役所の庁舎として活用されていたが平成の大合併で日光市役所(在今市)の支所として活用されている。

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10.1 「社宅」で思い出すこと

   日光に配属され、丹勢の社宅を訪ねたところ、私が学生時代、ある友人のお宅に何回か訪問した家と間取りが酷似していることに気付いた。
   友人の父親は戦死され、住宅不足の戦後、彼は母親とともに兄さんの家族が住んでいた武蔵新城駅(南武線)から徒歩数分のところにあった兄さんの社宅に同居していた。彼の兄さんは富士通にお勤めであった。
   昭和30年代頃までは、古河系各社の人事労務担当者間で給与、教育、社宅など労務管理にまつわる情報交換が随時、必要により行われていた。当社はその中心的役割を果たしていたように思う。社宅が類似していたのも図面が各社の自主性を活かすことは勿論であるが、相互に堤供されたのでないかと思う。

   当時は戦後の混乱期は落ち着いてきたが、住宅不足はまだまだ解決されていなかった。それだけに、社宅の入居基準は重要であった。ある先輩のお話しでは、係員時代に結婚し入居した社宅を皮切りに係長、課長と昇進するにつれ、10回も社宅を変わったとのことである。つまり係長社宅、課長社宅というように役職と社宅が対応していたからである。
   社宅での生活は会社生活に直結する。従業員の家族は会社は精銅所だけであり、かあちゃん(奥さん)はもちろん、小学生までも、工場の職場名である分銅、丸線、製条・・・等が日常の会話の共通語であった。
   また、各社宅地域を地盤として数名の社員が市会議員に当選し活躍した。時期は別として、昭和30年代から40年代にかけて、市長は精銅所OBの佐々木耕郎氏、県会議員に労組の委員長を歴任した松本春市氏が選出され活躍した。
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平成23年12月12日