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「精銅所」物語・・・(5)
大津寄雄祐  
7.生活協同組合

   精銅所が日光の清滝に進出し工場を建設した明治時代末期、清滝には駄菓子屋程度の店が二三軒あるのみで、生活必需品を商う店は一軒もなかった。
   山間僻地に数百人が生活するようになり、工場内に日用品の販売店を設け従業員の便利をどのようにするか常に検討されていた。紆余曲折があったが購買組合の制度を採用することになり、明治40年、250円の資本金で任意制度による小規模の購買組合を設立した。
   当初小規模であったが共同購買の利益が現れ、扱い商品が次第に多くなり、その上配当金までもらえるというので「共存共栄」「組合員の組合」という趣旨も理解され、加入者も増加し商売は順調に推移してきたので、明治41年「有限責任日光精銅所購買組合」が新発足し、各社宅地に支店の整備も進んだ。
   戦後、消費生活協同組合法が制定されたので、昭和25年11月会社から切り離し独立採算制を採用し経営の合理化をはかり、名実ともに戦後の再出発することになり、配給制も徐々にとかれ自由経済にもどり、協同組合本来の目的にそった活動ができるようになり、着々と好成績をあげるようになった。

   昭和26年、わが国の生活協同組合は、地域、職域のもの計1,300あるが、そのうち月額1,200万円以上の供給高のものが10組合あり、当組合は第5位、従業員一人当たりの売上高は第一位の成績であり、26年10月優良組合として厚生大臣から表彰された。

   私が入社した頃生活用品は社宅地にあった「生協」の分店で整えた。支払いは給与天引きで便利であった。昭和40年代流通革命の浸透と、マイカー時代の到来は従業員家族の購買範囲は広がり、より安価な物品が自由に広く調達が可能となり「生協」の存在意義は変わってしまった。古い体質の旧来からの経営では生協の存在を許さなかった。徐々に縮小をはかり、遅きに失したかもしれないが、昭和59年明治以来の歴史を閉じた。

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7.1「生活協同組合」で思い出すこと

   生協の盛衰は生活水準と比例する。昭和20年代の生協の輝かしい成果は本文中に述べた。30年代は小間物の商品供給機能として役割は果たしていたが、多様化した商品の供給面で徐々に相対的位置を低下させていた。40年代になるとマイカー時代の到来で生協経営に決定的な影響が生じてくるが、それえの対処は充分でなかった。東武今市駅の前に「伊勢屋」という小さいデパートがあって、生協は競争に負けて行く。

  私が52年に生協の理事長(兼務)になった時、経営は成長はないが黒字で安定しているということであった。これは長期の滞留品が資産に計上され、実際は不良資産化していたのである。見せかけの黒字であった。
   そして、その頃、流通革命の到来が語られ、マーケッチングの必要性が常識であったが、過去の栄光のみを夢見ている間に、生協は社宅に住む従業員家族からも見放されていった
   マイカーの普及の促進は日光市民の購買範囲は当然広い広がりを持つことになり旧態依然の商売スタイルでは甚だしく時代おくれであった。撤収の意思決定をして損失を最小限にして終息するのに時間が必要であった。昭和59年生協は店を閉じた。

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8.各種教育〜従業員養成所を中心に

   「精銅所」発足以来従業員のレベル向上は重要な課題であった。それぞれの時代に各種教育が行われたが、現場要員のレベル向上は歴代事業所幹部の関心事であった。名称は色々変化があったが、その時代のニーズにあわせ継続し場合により断続的に実施された。
   本稿では「従業員養成所」をとりあげよう。昭和9年、工員養成所と清滝塾を一本化し、両者の特徴をとりいれ、中堅工員ならびに工長の養成を目的として「従業員養成所」と改め、高等小学校卒業生の中から素質の優秀なものを募集して開所した。この制度は昭和16年まで続いた。終戦により国情は一変し、新日本建設の工場として立ち上がり、昭和9年設立の従業員養成所の制度にならって、その名称を復活し昭和21年4月から再出発した。

   「養成所」は精銅所工場運営上の中堅エリート社員の養成機関である。
戦後は新制中学卒業生の中から毎年15〜20名の採用であった。日光から宇都宮に至る新制中学から志願者の応募があり選抜されたが、競争率は10倍以上の年も珍しくなかった。試験は国語、数学の外、体力テストがあり、3〜40キログラムの砂袋の入った俵を担いで7〜80メーター走るという検査もあった。
   合格者は全寮制で「健児寮」に入寮した。寮の管理人であり、日常生活の指導員として養成所を卒業した彼らの先輩が専従として配置されていた。
   午前中は「座学」で大学を卒業した若い社員が指導し、高校の教科書を使い一般教科のほか、冶金、機械、電気、算盤などの教科もあった。午後は職場で実地教育を受けた。期間は2年間で、卒業後は各職場に配属された。
   このような教育を経て成長した社員は多く作業長、職場長となり、また営業担当者となり、会社発展の基礎を担った。その他、労働組合の役員や、市会議員、県会議員などで活躍したものもいるし、弁理士となったものもいる。
   昭和30年代も後半には高校進学率が高くなり養成所の維持に問題が生じてきたこともあり44年3月最後の卒業生を出し、この制度は終了した。

   工場が都会から遠く離れた地方にあったので、創業の当初から従業員たちの自発的な研究会が組織されていた。その内容は実際に即して価値のあるものばかりであった。昭和9年12月発表会は2百回に達した。また知名の学者を呼んで特別講演会なども行った。また別途事務、技術に拘わらず相互に研究発表会を行い知識の交換をして、今でいう業務改善につとめた。
   鈴木所長は従業員優遇の施策として、大正2年5月精銅所附属幼稚園を開設し、3年間の教育を実施した。栃木県では足利町、佐野町、女子師範、栃木町についで、当所の幼稚園設立は第五番目であった。各社宅地に分園を開設した。昭和52年精銅所内の組織から、学校法人とし2箇所に集約した。現在安良沢地区に1箇所開設されている。
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   注)以下の項はホームページ編集者の手違いにより、第3回目の「附属病院」の項に一旦掲載をし取消したものですが、改めて本来のこの項に掲載いたします。


8.1 小平清三郎「私の道程」を読む

   小平清三郎さんは大正9年6月生まれで現在91歳、昭和10年古河電工日光精銅所従業員養成所入所、試験課長補佐を経て昭和52年6月定年退職したOBの長老である。
   同氏は「私の道程」(平成16年6月発行)を出版発行された。以下、同著を参考に当時の状況を抜粋、再構成した。

(当時の清滝の状況)

   清滝の家の前は大きな杉の木が連なり、後ろは雑木林になっていた。小学校の左側は梅の木が二十本植えられ、右側は広い桑畑があった。清滝、細尾地区でも幼蚕が営まれていて、桑畑が広い遊び場になっていた。この桑畑には、うさぎ、きじ、やまどりなどが桑畑の小さい木陰や草むらの中に巣を作っており、野鳥も桑の木を訪れては、泣き声を聞かせてくれた。子供たちは桑の木にハンモックを張って交替でねそべったり、柔らかい草の上に筵を敷いて楽しんだ。子供たちの遊んでいる周りに、野兎やきじが仲間のようにやって来た。
   上級生から桑畑の幼児の遊びから、山へ川へ野原へ一緒に過ごし、色々な遊びを教えてもらった。
   雪に埋もれる山の子の最大の楽しみはアイススケートであった。細尾地区に周囲四百メートルの東洋一と言われたアイススケート場ができて、リンクへ行かない日はなかった。その頃の古河電工のアイスホッケーぶは超一流の選手ばかりで細尾リンク内に合宿所があり、練習試合の時は厳寒の夜間も厭わず友達と見に行った。
   昭和8年3月、日光第二尋常高等小学校卒業した。そして4月高等科一学年に入学した。
   大谷川の川のり、古淵川の山椒魚、岩魚取り、大木戸川のかじつか取り。前山の夏の筍とり。秋の栗とり。ぶどうとり。あけびとり。特に忘れる事が出来ないのは、13歳の時、男体山の中腹から丹勢山の峯つづきにある「ふすべ」という海抜1400メートルの高原まで往復16キロメートル以上の山道を春の山菜「わらび」を友人4人と取りに行ったことである。級友四人の相互の思いやり、励まし合いの精神を忘れられない。

(養成所入学)

   思い出尽きない少年期を経て昭和10年3月高等科2学年を卒業し、「日光電気精銅所付属従業員養成所」の入所試験を受験合格した。受験者約100名合格者は14名であった。
   入所式は4月中旬で春の遅い清滝はまだ桜は咲いていなかった。精銅所所長、町長、小学校長、町の名士、教師{精銅所社員}出席のもと14名の晴れの入所式が行われた。
   一年生は午前八時から午後四時まで八時間授業、二年生は八時から十二時まで現場実習、午後は四時まで授業である。
   学科目は工業学校卒業程度の学力と技術の修得を目的にしており、教師は若い学卒の社員が担当した。
   精銅所は大正十五年少年団を結成し社宅の少年、少女の健全育成に尽力した。養成所の教務主任は栃木県連盟の少年団の指導部長であり、養成所の教師の中には少年団の指導者も多かった。養成所に入所した十四名は全員四団あった少年団のいずれかの自治区に入隊登録され、養成所の勉強以外にも、各団の少年団の集会や野外行事にも活躍した。
   午前中は教科書をもとに、実験、実習があった。難しかったが、授業は楽しかった。午後は野外に出ることが多かった。野外作業、体育、園芸、清掃などに喜んで従事した。
   朝八時の朝礼、国旗掲揚、野営長の講評からはじまる規律厳正の生活、日々前進の確立、少年たちの夢をふくらませてくれた冒険の数々(中禅寺湖一周の行脚、大谷川の渡河、岩山の登り、自然観察など)困苦に堪え、多くの友人と全力を尽くし理解と協力によっての技能の習得はその後の工場生活における生産工場に、技術の向上に業績の向上をもたらしたと思う。
また、体育の授業は教師も生徒も積極的に精励した。特に柔道、剣道等は試合も多くやった。アイスホッケーは養成所の優秀な者は電工のチームの正選手になったり、全日本の選手の候補に選ばれるようにもなった。
   二年生は卒業間近くなると、配属部署がきまる。本人の成績、希望も考慮されたが、それ以上に適材適所の方針が優先したように思う。養成所の卒業生はどこの部課からも配属の要望が多くそれが決定されれば皆そこで立派に役立つ社員になるように勤めた。

   (定年後、県立宇都宮高校の通信教育を卒業、日光市家庭教育中央学校の運営委員長やボーイスカウト運動に従事し、平成十四年四月勲五等瑞宝章の叙勲を受けるなど活躍された。「私の道保」に詳細が述べられているが本稿では省略した。) 
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平成23年11月29日