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「精銅所」物語 ・・・(4)
大津寄雄祐  
6.アイスホッケー   

   大正2年、冬の日光には何の娯楽もないので、スケートはどうかと考えだしたのは鈴木所長であった。仕事が終わったあと従業員に労力奉仕させ、社宅の一隅に池を掘った。彼自身も妻とともに作業をした。これが契機に所内にスケート熱が盛んになり、漸次普及し冬の日光のスポーツの一つとして有名になる起源となった。その後紆余曲折あったが、大正11年和楽池をリンクに使用し本式にやり始めてから活況を呈することになった。

   そして大正14年古河電工アイスホッケー部が創設され、戦前公式戦は昭和5年(第1回)全日本アイスホッケー選手権大会から、昭和18年(第15回)まで開催された。出場チームは大学チームが中心で、実業団は王子と古河の2チームに限られている。そしてこの間王子は優勝3回、準優勝1回に対し、古河は準優勝3回である。
   「古河電工アイスホッケー60年史」に寄稿された王子製紙石川常務は「我がチームが、貴チームの胸を借りて、切磋琢磨の絶え間ない歴史が、わが国アイスホッケー界の歴史そのものである」と述べている。

   戦後は23年から全日本が再開された。古河チームは27年準優勝し39年までの12年間に優勝4回、準優勝4回と、最も輝いた時代であった。
   28年全日本を初制覇、30年代の黄金時代を迎えた。この時代のチームは卓越した個人技と、息の合ったチームワークで、特にその当時の当社のローリング戦法はフアンを魅了するとともにアイスホッケー界に新風を吹き込んだ。
   私はこの時代に入社し、日光に配属され初めて試合を見、このスポーツの面白さに酔った。仕事で机を並べ、独身寮で生活をともにしている選手の活躍は、一層の親近感と、興味、関心を呼び起こした。

   第8回冬季オリンピック(スコーバレー)には当社から9名が選抜された。宮崎 山田 瀬川 入江 赤沢 本間 島田 岩岡 村野選手である。昭和35年の全日本選手権はオリンピックと重なり多くの正選手を欠き、古河チームは補欠軍団であったが、戦前の予想を覆し、王子を破り優勝した。これは特筆されるべき出来事であった。

   東京オリンピック後の不況もあり、39年対外活動の一時中止が決定された。これはやむを得ない措置ともいえるが、30年台後半アイスホッケー界は次の世代に向け変化の兆候があった。古河チームはその流れに乗れず、以後撤退するまで長期停滞期に突入することになった。
   昭和30年代、チームは古河、王子以外、岩倉組、福徳相互銀行の4チームが中心であったが、わが社が休部した39年品川クラブが初参加した。これは西武鉄道、国土計画の参加を意味した。以下古河チームが栄光から転落していく姿を年表により見ておく。
   37年(全日本、NHK杯、17回国体優勝)38年(全日本は三位、国体、NHK杯、実業団優勝)39年休部、王子タイトル独占(第9回冬季オリンピックに古河から六名選抜〜瀬川 入江 島田 本間 稲津 久保田)。
   41年第一回日本リーグ発足、古河、王子、岩倉 福徳 西武の5チームが参加した。その後7回大会の時福徳が撤退、国土計画と変わり、第9回十条製紙が参加、第14回(54年)岩倉から雪印に変った。

   古河チームに大卒のプレーヤーは37年稲津が入社、45年丸井が入社するまで8年間補充されなかった。チーム力は落ちる一方で、その後回復することはなかったのだが、リーグ発足した頃、戦後20年間アイスホッケー界に君臨していた当社は少し力を入れればチーム力は必ず回復するであろうと漫然と考えていたのではなかったのかと思う。

   昭和40年代リーグが発足、低迷が続く。ここに象徴的な出来事が起こる。
   49年、明治大卒業の星野選手は10年に一人出るかという名選手で古河入社は誰も疑わなかった。何故なら、彼は精銅所と道路を挟んで自宅があり、日光高校出身で、父星野武雄氏は精銅所の元原料課長、姉は精銅所に勤める技術者と嫁いでおり、古河一家であった。しかも入社面接をうけ、採用通知も発信されていた。どのようなアプローチがあったのか、彼は国土計画に入社した。要するに優勝を争うチームに所属しないと全日本に選抜されないと考えたようだ。彼我の差は開く一方であった。

   私は先に述べたように52年日光勤務になるや、自動的にアイスホッケー部長に就任、以後部の活動にかかわりをもった。私の部長時代他社並の条件を整備する一環としてリンクに屋根をつけ、外人選手を採用した。その時は必死であったが、客観的に見れば時すでにおそしであった。
   平成11年(1999年)1月15日、森岡アイスホッケー部長と木下本社広報課長が記者会見を開き「アイスホッケー部」の活動停止の決定を伝えた。森岡部長は感想を聞かれ「73年の伝統、あえて言うなら、栄光ある歴史を閉じなければならず断腸の思いです」さらに「厳しい経営状況が続き、部の存続問題は以前から常にあった。そんな中これまでチームが維持できたのは、地元フアンの熱烈な応援があったからこそで、心から感謝している。」と淡々と話しながらも、時折声を震わせた。(下野新聞)この記者会見をもって、いっさいの活動が終了したのである。
   (余談であるが、一流のスポーツ選手は一流の社会人である。わが社に入社する選手は主将など経験者が多く、明るく、行動的で、叩かれ強く 組織活動に通じている。どのスポーツでも、訓練された若者はビジネスでも豊かな可能性を持っている。そのような人材入社の道が細ったのは残念なことである。)

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6.1「アイスホッケー」で思い出すこと

   本文にも書いたように古河のアイスホッケーの輝かしい成果は昭和30年代で終わった。私が昭和52年6月アイスホッケー部長に就任した時はすでにチーム力は下降線にあった。本社を中心とする社内世論はアイスホッケー、ギブアップすべしであった。部長になった私は本社の与論は理解できるので、どのように対処すべきか悩み深かった。他のチームと個々の選手の力の比較はともかくインフラ面での状況を考えてみた。屋根のないリンク、外人のいない純日本人の選手構成、さらに細かなことを言えば遠征時ホテル宿泊に対し古河は日本旅館での雑魚寝、もっと細かいことであるが、他チームが牛乳の飲み放題に対し一本の制限、等取り扱い上の著しい差が生じていた。
   私は練習場の整備と、外人選手の採用から他社との差を同等にすることに着手した。リンクに屋根をつけるといった起業費が認可されないのは明らかである。結論を言えば小山遊園地と提携し同社からの費用捻出を考えた。出来る限り他社との条件を揃えての競争を指向したが時はすでにおそかった。当時の丸井監督、日野マネジャーとともに何とかチーム力を向上させることに努力したが結果は読者ご承知の通りである。

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6.2 昭和59年10月28日の東京新聞からの抜粋

   古河のアイスホッケーを語る場合、過去の栄光の歴史か、あるひは連戦連敗の状況を語ることが多かった。本稿は昭和59年10月28日の東京新聞が、10月21日古河が王子に勝った試合を、署名入り(佐藤 次郎記者)で二ページをさいて報告した。新聞記者と言う立場でこの試合の記事を一週間遅れであったが書いてくれたその気持ちに、感謝と共感をもって、少し長いが以下にそのまま紹介する。

秋の夜男たちは泣いた

   彼らはその「一勝」が欲しいとずっと思い続けていた。
   19年前のことである。古河電工アイスホッケーチームの男たちの頭には何時も引っかかっていた。だが、どうしても手に入らない。この氷の上の格闘技が大好きな男達にとって、それは大変屈辱的なことだった。
チャンスは、全く突然にさりげなくやって来るものだ。チームが、待ちかねた「一勝」を手に入れたのは、冷え込みがきつい、秋の夜だった。

試合前は「歯が立たない」と・・・

   日光電工リンクは一杯に立ち見を詰め込んでも千人ちょっとしか入らない、小さなリンクだ。10月21日夜。リンクでは小さな観客席が激しく沸いていた。
   氷の上では日本リーグの古河電工対王子製紙戦がおこなわれている。観客の声援は常に地元の古河に向けられるのだが、この夜はその興奮度が何時もとはちょっと違う。タイムアップ寸前には、秒読みコールが始まった。終了のブザーは、歓声に消されて聞こえなかった。
   得点表示は、古河が「6」、王子が「5」 「おめでとう」の叫びがひっきりなしに氷の上へ飛ぶ中で試合終了。
   「一勝」はこうしてやってきた。「日本リーグで、王者・王子製紙に勝つ」
   古河電工チームが待ちに待った一勝とはそれであったのである。

かっては強豪、休部が響く

   アイスホッケーの日本リーグが誕生して今年は19年目になる。昭和30年代王子とともに強豪であった古河。そのイメージを残しているフアンには信じられない話であるが、とにかく、リーグ誕生以来、古河は王子に一度も勝てなかったのだ。一分け59敗が対王子の戦績であった。

複雑きわまりないスポーツ

   なぜそうなってしまったのか。「あの休部が響いた」ということで関係者の分析は一致している。39年一年休部した時、それまでいた選手は皆やめてしまった。複雑きわまりないアイスホッケーの世界では、いったん空白ができてしまえば、すぐには立ち直れないし、そうなれば、高校や大学の有力選手も来てはくれない。そんなわけで、古河は長い低迷に入り王子との対戦に、黒星ばかり並ぶことになる。

「他には負けてもいいから・・・」

   だからどうしても勝ちたかった。歴戦のゴールキーパーだった柴田清典(36)が監督に就任した三年前ころからは、長期計画に基づいたチーム作りも進んでいる。「他には負けても、王子にだけは勝ってくれ」という声さえ社内にある以上、何としてでも勝たねばならない。ここのところ古河は四年連続リーグ最下位、王子は三年連続優勝である。「選手には言えないけど、実際歯が立たないという感じはあった」と柴田は言う。勝ちたい、だが、何時までも勝てないかもしれない。そして二十一日、六十一回目の試合がやってくる。

これでやめていい〜19年目の大きな「1勝」

あの練習は間違ってなかった

   あの日―。ベンチに立ちっ放なしの柴田は「前の試合の負けを、なんとか帳消しに」とだけ思っていた。その前の十条製紙戦では、納得のいかない負け方をしている。ここでやらなければ、フアンにだって見放されてしまうかもしれない。
   この夜、勝てるかもしれないとは考えてもいなかった、と柴田は言う。
   だが、3−2とリードして第1ピリオドを終わった時、柴田はこれまでにない手ごたえを感じる。最初から攻めまくって引き離してしまうことの多い王子の破壊力を、何とか抑え込んでいたからだ。第2ピリオド、王子が2点入れて、
   3−4。それでも、古河の攻撃は、いい形になりつつある。そして、最終の第3ピリオド。

残り11分、王子の猛攻防いだ

   王子が1点追加して3−5.これまでなら、ここで崩れていたところをもちこたえて、1分半の間に2点連取。さらに、その1分後、勝ち越しの1点。
   残り11分ちょっとの間、王子は攻めまくった。「確実に入れられたというのが、何本もあった」と、柴田は言う。それを、ゴールキーパーの後藤日出男(30)が完璧に防ぎ切った。

「長かった」ぼう然とする前主将」

   残り5分で、柴田は初めて「勝てるかもしれない」と思った。勝って、選手たちが、喜ぶシーンが、頭のなかをよぎり始める。
   タイムアップ。前主将のフオワード、吉江英男(31)は「長かった。もうこれでやめてもいい」と思いながら、ぼうぜんと涙を流していた。キーパーの後藤は残り2秒の電光板をみて、ようやく勝を確信した。飛びついてくるチームメイトに押しつぶされながら、彼は目頭が熱くなってくるのを感じていた。コーチ兼任のデイフエンス、笠崎正雄(32)はなきながら、なぜかとてもリラックスした気分を味わっていた。四年目の若手フオワード、大黒秀賢(25)は、ひどく疲れていた。控室へ入って、しばらくしたところで、彼は、いつの間にか自分が涙を流しているのに気が付いていた。
   柴田も、泣きながら選手を迎えた。「柴田さんでも勝てなかった相手にかったんだ!」「あの練習は、まちがってなかったんですね」・・・切れぎれの会話のなかで、みんなが泣いていた。
   ごつい男たちの涙で彩られた十月二十一日は、こうして、古河アイスホッケーのきねんびになったのである。

粘って耐えて抑える―のんびり屋チーム変身

   「一勝」の持つ力を柴田監督は改めて感じている。
   二日後の二十三日、古河は、電工リンクで再び王子戦を戦った。結果は、2−4の負け。対王子、六十敗目の敗戦である。だが柴田のめには、選手たちの動きが、はっきりと違って見えた。「第一ピリオドは、0−0.0で抑えるのは、偶然じゃできない。アイスホッケーは、最終的には1対1の勝負だけど、そこで負けなくなった。粘って、耐えて、抑えられるようになったんだ」
   長男の多い、のんびりしたチーム、と柴田は自分の選手たちを分析する。選手たちの間でも「やさしい、おとなしい男が多い」という声がある。その、のんびり屋チームは、だが、十九年目の「一勝」で変わりつつある。どうも、そういうことのようだ。ところで、十九年目の初勝利は、いったい何がもたらしたのだろうか。「百パーセントの力が出た。潜在能力はある。ということが、改めてわかった」と柴田は言う。
   なぜ百パーセントの力がでたかについては試合直後に選手の間から出た「あの練習は間違っていなかった」という言葉にヒントがありそうだ。

潜在能力をひきだした

   柴田の目標は、守りのホッケーである。得点は計算できないが、守りはシステム化できる。守りとは言っても、消極的なものではなく、前で積極的につぶさなければならない。それが、柴田の持論だ。
   その明確な方向性が、潜在能力を次第に引き出し王子戦で完ぺきに実らせたのだろう。ただそれだけではなさそうだ。十九年目の初勝利には、はかにも何かがあるのではないか。
   そういえば、電工リンクの裏山は、いま紅葉まっ盛りに近づきつつある。
   勝利の女神は、もしかしたら、日光の紅葉が、かとのほかお気にめしたのかもしれない。(敬称略)              

 
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平成23年11月14日