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「精銅所」物語 ・・・(2)
大津寄雄祐  
4.日光和楽踊り

4.1 和楽踊りの発祥の歴史1

   「精銅所」が生産を開始し7年目の大正2年9月6日、7日、日光田母沢御用邸に避暑をされていた大正天皇、貞明皇后の行幸啓を仰いだ。関係者は非常に緊張したが、無事に済んで「めでたい、めでたい、ありがたいことだ」と感激もひと通りでなかった。(天皇は6日行幸、皇后は7日行啓で2日間に及んだ。)
   9月7日行啓の終わった夜、鈴木所長は事務所裏(現在記念館)の小庭園に所員を集め祝賀の小宴を開き、宴たけなわのとき誰ともなく踊り出したのが和楽踊りのはじめであるといわれている。
   「精銅所」は創業以来、年1回創業記念式を行っていたが、大正3年からは9月6日7日の行幸啓当日を記念日とし、大正11年からは天候の事情を考慮し8月6日、7日に改め毎年継続実施した。式とともに記念祭も年々盛んに行われ、その行事の一つである「和楽踊」は栃木県名物に数えられるほどになった。
   「和楽踊」は大正天皇逝去の年、戦中戦後など昭和25年までに8回中止されたが、一昨年、平成21年、平時で初めて中止となった。不況の深刻なことのあらわれでもある。
   一企業の行事が従業員と地元の人たちと相和し皆の喜びの行事として実施されればそれなりに意味があろうが、「和楽踊」は新しい課題を抱えたといえる。
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 4.2 和楽踊の発祥の歴史2

   大正3年、鈴木所長は工場の一切の行事を統合し、全員が心を一つにして愉快に楽しみ合うことのできる行事の検討を佐竹経理課長に命じた。
   佐竹は峠道、足尾から日光へ銅を運ぶ馬子唄に心を動かされていた。記念祭の行事に唄と踊りを取り入れる案を所長に進言賛成を得た。しかし当時県では盆踊りは風紀上面白くないと厳禁していたので、「精銅所の名誉にかけても模範的な健全娯楽にしてみせる」と知事に約束し許可を得た。そこで一般の盆踊りと区別するために「和楽踊」と命名し実施することとした。
   踊り場の中央に和楽池があり、工場からの排水がその池を経由することにしたのは公害対策の一環である。同時に毎年和楽踊が行われる一ヶ月前から池に沈殿している残渣をさらい、その銅分で和楽踊の費用としたというのは事実であるが費用のすべてをまかなったというのは俗説である。
   歌詞は従業員から年々募集し池の周りに飾られるぼんぼりに書き付けられる。このようにして優れた歌詞が蓄積される。代表的唄五首を記録しておこう。
     
      丹勢山から精銅所を見れば、銅(かね)積む電車が出入りする。
      日光よいとこお宮と滝の、中は和楽の精銅所。
      一目見せたや故郷の親に和楽踊りのこの姿
      池に映した踊りの姿 どれが妻やら娘やら
      笠は花笠くるりとまわしや かさのかげから主の顔

   和楽池に二つの像が建っている。これは戦後経済的な復興が進み、踊りが最も栄えた昭和35、6年頃、働く従業員と家族が相和し、和楽の精神を再確認する象徴として作成された。余談であるが棹銅を担ぐのは乙部氏(アイスホッケー選手)そして赤ちゃんを抱いているのは当時社宅住まいの山田克俊氏(後年古河電工専務取締役)夫人とご長男をモデルにして作成されている。

   時代が大きく変化し、和楽踊りも変ってきた。
@ 踊りは手踊り、笠踊り、石投げ踊りの三つの形があるが、若い人たちからすればテンポが合わなくなり、最近では踊りが始まるとたちまち変曲したものに代わり「正調和楽踊り」をと呼び掛けても焼け石に水である。
A 16時の終業後は赤飯と酒一合を貰って一斉に帰宅し、19時の点灯式までに家族総出で和楽池畔に集合し、点灯の一瞬を感動のうちに迎えていた。最近は踊りへの参加者も開始するときは集まっているが時間の経過とともに減っていく。かつては時間がたつにつれ、会場は満杯で、それこそ老若男女が溢れたのであるが。
B そのような変化に対応し、当初は3日連続開催していたものが2日になり最近は1日開催となり、しかもかつては零時まで踊りつづけたが、近年は近隣への騒音に配慮し22時終了となっている。
C 我々が新入社員の時には踊用の浴衣一着分の反物が支給された。縫製は女子社員にお願いするのが一般的であったが。独身の男女のこと、色々な物語が生まれたようである。(反物は三越製であった)
   昔の華やかな当日を知っているものにとってはまことに残念であるが、時代の変化にただただ見入るだけである。
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 4.3 松下さんへの出演

   日頃お世話になっているお得意様を招待し踊りに興じていただいたが、このような接待はユニークで、お客様の記憶に残ったようである。
   松下電器(パナソニック社)さんは「踊り」に参加し、従業員の慰労と一体感を構成する方策として参考にしたいということで、同社の慰安行事に参加して欲しいという要請があり、日光から楽隊と歌い手を中心に、また踊り手として大阪支店、大阪伸銅所の従業員を3、40名門真に送ったことがある。
   各企業は新しい時代に適した企業内のアイデンテイテイを求めている。「和楽踊り」は本来その有力な行事であったが、今まさに和楽踊りのありようが問われているのでないだろうか。
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 4.4 井深 大氏のこと

   ソニーの創業者井深大氏は明治41年(1908年)精銅所の社宅で生まれた。井深氏の父上、井深甫氏は当時29歳。日本初の「直列分銅」と呼ばれる新技術に挑戦していたが、仕事の過労がたたり31歳の若さで亡くなった。大氏2歳であった。母一人子一人の少年時代を父親の郷里愛知県で過ごし、昭和10年早稲田大学理工学部電気工学科を卒業した。当社社員、明楽桂一郎氏(当時協和電線社長)と大学の同期であったので、同氏の案内で来所された。(和楽踊り当日だったかは不明)
   ここに麓粛著「日光電気精銅所回想録」という小冊子がある。その中に次のような記述がある。「井深氏は二代所長奥村氏の後輩で蔵前高工(東京工大の前身)の電気化学科出身で筆者の先輩であった。井深氏は日露戦争に出征し陸軍中尉で容姿端正の好紳士で立派な人格者であった。夫人は日本女子大学出の才媛であり、似合いのカップルであった。日光在任中に男の子が生まれた。可愛い坊やで夫婦に熱愛されわれわれも大坊と呼んで可愛がったものである。
   「分銅工場は操業日も浅く、井深主任の労苦も並大抵ではなく、元来あまり強健な体質でもなく多少神経質でもあり、暫く岡崎地方に静養されていたが明治42年春に逝去された。まことに痛惜の極みであった。」と述べている。
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 4.5 日本民謡集から

   昭和58年7月、岩波書店から「岩波クラシックス38」、町田嘉章、浅野建二編として「日本民謡集」が発行された。昭和35年に出版されたものを再構成された。この著書には「和楽踊り」の由来から紹介されている。曲態は根室町の盆踊り唄に相似しているとも言われるが、元来、越後方面の「甚句」の影響をうけてそれが関東化した。その分布圏は、北は山形、米沢、会津から、相馬、常陸、秩父方面にまで及んでいる。とある。
   本書は郷土民謡から、もっとも代表的な曲225編を集成し解説と注解を加え曲譜を掲載したものである。栃木県から「草刈唄」(宇都宮北方約3里の河内郡篠井村地方の馬子唄)「和楽踊り」二曲が紹介されている。そして編者は、将来永く国民の文化遺産として保存、育成さるべき古調の唄を選択したと述べている。和楽踊りはいまや一企業の行事であるが、同時に広く地域の行事としても社会的責任を負ってきていることを自覚し、新しい在り方、方法が求められなくてはならないと思う。
   なお、和楽踊りは毎年、開催日の翌日、NHK等のTVで放映された。
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 4.6「和楽踊り」で思い出すこと

@ 毎年7月に入ると踊りの準備が始まる。櫓ができ、ポールが立ち、和楽池の水の流れを止め、池の底にある土砂を菰に入れるなど、いやがうえにも、祭りの気分が醸し出されていく。

A 紫明寮ではその年の春入社した新入社員に踊りの手ほどきが始まる。笠踊りの笠をくるりとまわすのが一番むずかしい。そして、寮長から、我々は踊りの中心で、特に雨など降ってきて、皆が踊りをやめても、我々寮生は最後まで踊らなくてはならないと教えられる。

B 踊りの当日は芸者さんを呼び上げ、皆で乾杯し食事をし、開始10分前には工場の会場に到着できるように出発する。鉢巻き、たすきの色は緑で、新入社員は新調の浴衣に白足袋、草履姿である。尚、当時芸者さんは全体で20〜30名は活躍していたと思う。ところが昭和50年代私の2回目の勤務の時は4〜5名になっていた。

C 昭和50年初頭ぐらいからか踊りが変わって来たように思う。若者のリズム感で踊るので、今の感覚に合うともいえる。私見であるが、正調和楽踊りに付加することを検討してもよいのでないだろうか。

D やはり、昭和50年ころだったか、ある婦人会の一団の30〜40名が突如踊りの輪の中に入って踊り始めた。まさに正調和楽踊で見事であった。踊り愛好会の婦人たちで、あちこちの踊りに参加する旅行団体だったようである。

E 踊りの裏方はお客さんの浴衣、たすき,足袋、草履を人数分揃え接待場所に届け、車の準備など細心の注意で準備する。また工場内の安全、特に防犯には担当者は神経を遣う。とにかく無事故なのは裏方の努力に感謝しなければならない。
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平成23年10月17日