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(4)むすび

双葉山が引退して六十年をこえ、亡くなって四十年経つ。双葉山の相撲に対する姿勢には永遠の真理があり、 末永く相撲界に生き続けることであろうし、生き続けなければならないと思う。
相撲取りの中で誰が一番強かったのか。時代も、相手も、本場所の開催日数に差もあれば、まして、社会的環境も、 食生活も、平均身長、体重も違う。統一した基準がないため、順位をつけるのは無理なことと断りながら 杉山邦博氏は 「土俵の真実」(文芸春秋社2008年5月15日発行)で次のように述べられている。(276ページ)
「私は半世紀以上相撲を見ていますが、その経験をベースに誰が一番強かったか、傑出していたか、ということを話したり、 書いたりします。ですから私は何時もこういう言い方をしています。まずは、こう断ります。「双葉山は別格にして」と。
なぜかというと、双葉山の現役時代の相撲を私はリアルタイムで見ていないからです。子供のとき、ラジオで聴いていましたが。 フイルムでしか見ていませんし、あるいは新聞記事などで読んだだけですから。
それに、やはり双葉山の場合は、強さが神がかり的に語り継がれている面がある。あえてこれを否定する材料もありませんし、 また否定する必要も全くないと思います。だから、素直に双葉山は評価すべし、やはり近世大相撲の祖である、と思っています。 ですから、私はこのような言い方をします。」 「双葉山を別格にして、一に大鵬、二に北の湖、三に栃錦、若乃花、五に千代の富士、貴乃花」

実に見事なコメントであると思う。著者杉山氏は昭和5年生まれ、28年NHKに入局、大相撲は入局以来定年後も一貫して担当し、 近年、相撲界に問題が生じるとコメンテイターとして引っ張りだこなのは氏の公平、客観的な論評が支持を得ているからだと思う。 双葉山は相撲人として、また人間として間違いなく範とすべきであり「双葉山は別格であり近世大相撲の祖である。」 との杉山氏のご意見にまったく賛成し本稿のむすびに替えることとする。


-------------------- 参考書と追記 -------------------

***  参考書  ***
1. 「別冊相撲」昭和の名横綱シリーズ1、双葉山定次。ベースボールマガジン社(昭和54年1月)
  シリーズ6、玉錦三右エ門(昭和55年5月)
2. 高永武敏 「相撲昭和史・激動の軌跡」 恒文社 昭和57年6月
3. 北出清五郎 水野尚文編 「相撲歳時記」TBSブリタニカ 昭和59年8月

1. 2. 3. は相撲の取り組みの経過、勝敗を含め、その星取表、スナップ写真や歴史など基礎的なデータを得る上で参考にした。

4. 工藤美代子 「双葉山はママの坊や」 文芸春秋社 昭和62年6月
  本書は 「一人さみしき双葉山」 ちくま文庫 平成3年3月改題再発行
5. 工藤美代子 「工藤写真館の昭和」 朝日新聞社 平成2年10月

4. のテーマは十歳で母親を亡くした双葉山には今流で言うマザコンがあり、大横綱という側面より生身の人間としての双葉山が描かれている。
 5. は昭和4年国技館の直ぐ近所に祖父が写真館を開設した。家族を描きながら、広く相撲事情も語られ興味深い。 本書で講談社ノンフイクション賞受賞

6. 双葉山 「横綱の品格」ベースボール・マガジン社 平成20年2月
  本書は 「相撲求道録」 黎明書房 昭和31年改定再発行
7. 杉山邦博 小林照幸 「土俵の真実」 文芸春秋 平成20年5月

6. 7. ともに朝青龍問題(二場所出場停止)、時津風部屋事件など事件が相次ぎ、相撲の品格を取り戻すために発行された。
 6. は五十年も前に書かれたものであるが新鮮であり、相撲界のみならず広く経営管理の教科書としても有効である。
 7. は小林氏(相撲界に詳しい作家)が杉山氏に質問を提供し、本書の副題である「杉山邦博の伝えた大相撲半世紀」が語られる。

8. 石井代蔵 「巨人の素顔」 講談社文庫 昭和60年1月
9. 石井代蔵 「土俵の修羅」 新潮文庫 昭和60年12月

8. 9. ともに相撲界の水面下で起こったさまざまな事件をジャーナリストの冷静な目で解析、紹介されている。
 8. は璽光尊事件の詳細が記述されているが、双葉山と親しい朝日新聞記者の友情かスクープか、迫力ある物語も併せ語られる。

*** 追記 *** (本稿で触れなかったが気づいた点を思いつくまま追記する)

1 双葉山が安芸の海に七十連勝目に敗れた決まり手は「参考書」1. 2. 3. すべて外掛けとある。 5. に「前頭三枚目の、安芸の海が、春場所四日目に、浴びせ倒しで双葉山を破ったが、当時の記録は、外掛けとなっている。 これは動転した報道陣が間違えたためだった」とある。(98ページ)。本稿では工藤女史の著書を尊重し「外掛けで浴びせ倒し破った」と記述した。

2 双葉山は恩師安岡正篤から「荘子」「列子」などの古典に出てくる寓話「木鶏の話」を教えられ強く印象付けられていた。 「その昔闘鶏飼いの名人がさる王に頼まれ鶏を飼うことになった。十日してもう使えるかときくと、かれは「空威張りの最中で駄目です」という。 さらに十日たってきくと「敵の声や姿に興奮して駄目です」更に十日後「敵を見下すところがあり駄目です」といって頭を縦に振らない。 さらに十日たってようやく完成の域に達したと肯定した。「どうにかよろしい。いかなる敵にも無心です。ちょっとみると、木鶏のようです。 徳が充実しました。まさに天下無敵です。」と。
七十連勝ならずの日、双葉山はインド洋上航行中の安岡正徳宛「われいまだ木鶏ならず」と電報を打った。

3 立浪部屋に入門した双葉山は16年夏場所後双葉山道場の開設が認められ立浪部屋をはなれた。 双葉山が引退後21年11月年寄り時津風を襲名した。なお、立浪部屋は先代立浪の長女と結婚した羽黒山が継いだ。 後年時津風が亡くなったあと、時津風はいったん立田川(元横綱鏡里)に継承されたがその40日たち、紆余曲折の後、元大関豊山にかわった。 この経緯は参考書9の291ページ以下に詳しい。
 部屋の後継者問題はとくに多額の金がからむ場合、昔も今もトラブルが絶えないようだ。

4 相撲の基本である関取の体格は戦後メーター法に変更になったが、当時尺貫法で表示されていた。 主な関取のデータを列挙する。双葉山は五尺九寸、三十四貫であった。
          cm    kg         cm    kg 
   双葉山  179   128   栃 錦  177   132 
   玉 錦   173   135   若ノ花  179   105 
   男女川  191   146   大 鵬  187   153 
   羽黒山  179   130   柏 戸  187   139 
 注 平成21年春場所新大関となった日馬富士は185Cm,129 Kgで双葉山と身長、体重ともほぼ同じであるが、幕内力士の最軽量とのことである。

5 上記1で述べた決まり手の混乱も困るが、勝負にかかわることになると事態は深刻である。 参考書7.に大鵬の連勝ストップにつながる「世紀の誤審」が次のように述べられている。
「巨人、大鵬、卵焼き」と言われた大鵬の全盛期を覚えている方々のなかには、もしあの一番が行司の軍配通りだったらと思い出される方もいるでしょう。 昭和44年3月、大阪場所2日目連勝記録が四十五でストップした戸田、(元小結、羽黒岩)との一番です ・・・連勝記録は内容的にもすばらしく、双葉山を超えるのでないかと言われました・・・戸田との一番は「世紀の誤審」といわれ、 勝負判定にビデオを導入するきっかけにもなりました。
大鵬を土俵の外に押し出す前、戸田の右足が土俵の外の砂を掃いていたことを確認した式守伊之助は、大鵬に軍配を上げた。 しかし、審判委員から物言いがつきます。大鵬の左足が先に土俵をわった、と行司差し違いで戸田の勝ちにしたのです。 しかし、テレビ中継のビデオ再生では大鵬の足は土俵に残っており、視聴者からの苦情が協会やNHKに殺到しました。 「負けたのは仕方ない。あんな相撲をとるのがいけない」と語った大鵬でしたが、大きなショックを覚えたのでしょう。 体調を悪くし、5日目から急性気管支炎で休場してしまいました。」
  参考書7.の(277ページ)

6 「参考書」6.(12ページ)に、大鵬は序、「単純だからこそむずかしい~相撲が教えてくれるもの」の中で次のように述べている。 「わたしはシコ5百回、テッポウ2千回を日課としていた。おそろしく単調で苦しい。これが相撲に最適な柔らかい筋肉をつくってくれる。 これをやりぬく強烈な意志を必要とする。」と。なお、器具を使うウエイト・トレーニングは筋肉を硬くするので相撲には向かないと述べている。

7 会社時代の友人、佐藤 浩さんは余技として相撲評論家でもあり、相撲の雑誌「大相撲」(通称、読売大相撲)に長く記事を連載もされた。 佐藤さんから「震災と相撲」についてこんなことがあったと教えてもらった。興味あることなので紹介させていただく。
「阪神・淡路大震災から五十日余り、難波では「激励場所」と称して予定通り大相撲大阪場所が開かれました。 激震地からは少し離れていたので府立体育館は使用可能でしたが、各部屋の宿舎は被害を受けたところが多く苦労があったそうです。 神戸出身で震災後に復興山と改名した力士もありました。
関東大震災のときは、旧両国国技館が被災し相撲部屋も全滅。翌大正13年1月場所は名古屋で行われました。 江戸東京相撲の本場所興行が東京を離れたのは史上初めてのことで、現在の地方場所のさきがけとも言えます。 それをいさぎよしとせず出場をボイコットして破門されたり、震災で家族全員を失ったため世をはかなんで廃業した幕内力士がいたり、 大相撲に対する震災の影響は大きかったようです。」


また、双葉山についても、佐藤さんからこんなご意見を頂いた。
「双葉山は尊敬されるあまり、その一挙一動が相撲道を体現するものとして神格化され、相撲界の規範として固定されたことには多少違和感を覚えます。 横綱、大関昇進の際、使者を迎えたときの答辞など、現代の力士は双葉山の心を学ばず、単に猿真似を演じさせられているような気がしてなりません。 相撲道とは平たく言えば「相撲についての考え方」という程度のことで、時代を制覇したほどの大力士であれば、どの力士の話にも傾聴すべき部分が含まれているはずで、 もっと個性的な相撲道が語られてもよいのではないでしょうか。
双葉山の墓がある日暮里の善性寺の住職の話では、素顔の双葉山は謹厳一点張りでなく、冗談が好きで親しみやすい人だったそうです」
  (以上)


平成25年11月17日