生まれ故郷大連を旅して
北島 進    
   親父が何時満州に渡ってきたのか判らないが、日中戦争の始まる1937年に中国遼東半島の大連に生まれた。場所は父の仕事が大連第二中学校の教師だったので、学校の近くの菫町の日本人住宅街であった。しかし小さ過ぎて生活実感が全くなかった。
   その後大連女子商業学校に転任して、大連のビジネスの中心地“大広場”に隣接した但馬町に引っ越してから敗戦を迎えて日本に引き揚げる昭和21年大広場小学校2年までが記憶に残る時代だった。
   65年ぶりに今年5月29日から6日間大連、旅順を散策した。その中から歴史的な建物に簡単な歴史を添えて紹介しよう。
   旅順、大連は明治、大正、昭和を通じて日本の繁栄と没落の歴史を色濃く残す都市である。太平洋戦争の潜在的な原因を醸成したとされる1905年の日露戦争の勝利で、日本は旅順、大連進出が始まった。それまでは帝政ロシアが極東の開発のためにシベリア鉄道をウラジオストクまで敷設した、そしてウラジオストク港から東アジアへの交易ルートの確保に邁進したが、この港は冬、流氷が入り凍結して使えなかった、それで1898年頃、帝政ロシアが遼東半島の租借権を清朝から獲得した(三国干渉)、それで軍港も兼ねた旅順港を建設した。しかしこの港は軍港としては地形的に最適だったが、背後には山脈が迫って、平地が少なく商業都市には適さなかった。それで目を着けたのが大連であった。当時は渤海に面した小さな漁村だったが、この海岸線では良質の青泥が採れて、採掘が盛んに行われ海底が深くなって港湾にも好都合だった。列強国に比べて植民地化や交易ルートの確保に出遅れていたロシアは列強国への対抗意識から、大連をフランスのパリを念頭に置いた大規模な商業都市の建設計画を作成していた。

 ロシア街
   ロシア街はロシアが大連港を建設進めた時から、港湾の近くに民政に関わる市庁舎や鉄道会社の建物、関連ロシア人居住地として開発された町である。町の中心地“大広場”からロシア街へ向うと旅順−大連−奉天−ハルピン(シベリア鉄道に繋がる)に至るロシアの東清鉄道会社の大連埠頭への支線路を横断する、ここに架かる橋を日本橋(現在は勝利橋)と言った。ロシア時代は木製の橋だったが、日本が現在のコンクリート橋に建て替えた。ロシア街は、この橋から北に広がる。


1.ロシア時代の市役所(1代目 大連ヤマトホテル)

   この建物はロシアの東清鉄道会社の事務所として1898年に建立、その後ロシア人の市庁舎であったが、日本が租借権を得て、1905年末大連に入場した時は主な行政庁、軍関連はすべてロシア街に居を構えて活動を始めた。この建物は最初遼東守備軍司令部、関東州民政署、満鉄本社、大連ヤマトホテルなどに使われた。戦後は大連自然博物館として使われ現在は国の管理下で空き家である。満鉄初代社長後藤新平はこの建物で就任した。1908年満鉄本社が大広場の近くの魯迅路に建設されて移転した後改築して、大連ヤマトホテルとして開業した。1909年に夏目漱石が投泊したが、かなり辛口の評価をしたそうだ。大連歴史の生き証人みたいな建物である。



 大広場
 
   ロシア時代は港湾建設と同時に市庁舎や市長舎、教会、官民事業の住宅などがロシア街に建設されたが、商業地区はほとんど手がつけられなかった。パリを模範としたロシアの大連都市計画とは、商業地区の中心に大きな円形広場を設けて、そこから放射線状に道路を延ばして、他の多くの円形広場と街路で繋いで都市全体を構成するというものであった。
   日本はその計画をそのまま引き継いだ。この最初の円形広場が当時“大広場”であり、現在の中山広場である。
   大広場周辺の建物は日本人の設計、施工で完成されたものだが、幸い現在もわずかに改造して昔の建物を大事に管理して、皆現役で活躍している。これは優柔不断な合理性というのか、価値認識が鋭いのか中国人の一面を現している。
   観光としても、歴史的な建造物としても計り知れない価値があると思われる。

2.旧大連警察署

  1908年竣工 大広場で最初に建てられた建物 前田松韻氏の設計。警察署とは裏腹に御伽の国のお城のようだ。現在はシテイバンクが使っている。実際に円貨を元貨に交換する為に入ったが、上手なパーテイッション(壁の区割り)で、照明、冷房、待合(やや狭いが)、窓口など快適な環境だった。外銀には口座がない外国人には為替の取引は許されないそうで、目的は果たせなかったが、最近偽札が横行していて、ホテルの交換所では保証されないので、銀行がお進めとか。

3.横浜正金銀行と.朝鮮銀行大連支店

   横浜正金銀行は1909年竣工 大広場で2番目に建てられた建物。東京の妻木頼黄の設計、満鉄技師大田毅が施工指導したバロック様式の建物。現在は中国銀行大連市支店になっている。1913年満州で横浜正金銀行券の金券発行許可、10月開始とある。
  朝鮮銀行は1920年竣工。中村興資平が設計したルネッサンス様式の建物。コリント式円柱は大連でも屈指の美しさと言われた。朝鮮銀行は日本が植民地化した朝鮮の中央銀行で、中国東北部の鉄道付属地で円紙幣を発行した発券銀行でもあった。関東軍の戦費捻出の紙幣乱発を阻止しようとした高橋是清は2.26事件で暗殺された。関東軍は中華民国臨時政府を樹立して、中国連合準備銀行が朝鮮銀行と預け合い契約を結ぶ預け合い制度の下で、中国連合準備銀行券(円券)を発行させる。その結果日中戦争から1945年までの8年間で現地の戦費や統治に関わって、朝鮮銀行に命じて発行させた金額は、7559億円に至った。今のお金として300兆円という額である。それによりハイパーインフレに陥り、ものを買えない多くの中国人が餓死者したと報告されている。
   現在は中国人民銀行 大連市分行として使われている。

4.大連ヤマトホテル

   先述したロシア街の旧ヤマトホテルはこの新しいホテルに移転された。もし夏目漱石が、このホテルに宿泊したら、どう評価しただろうか。
   竣工年代は不詳。
   この建物は花崗岩の石積みで、入り口には鉄製の張り出し廊下で客を迎え入れる。昔と同じ赤絨毯が階段を通じて2階へと案内する。レセプションは二階になる。この建物はルネッサンスの西洋建築で、その特徴は柱の存在である。
   特に客室二,三階部分に円柱が並んでいるが、これはイオニア式円柱だそうである。設計者は不明であるが、南満州鉄道(満鉄)直営だったので、満鉄の建築部門の人だろうと推定されている。横浜正金銀行とこのホテルは大広場を挟んで対面しているので、建築様式は異なるが才能豊かな満鉄技師大田毅が設計したのではないかというのが有力だそうである。
   由緒あるホテルには満州事変の戦争調査に訪れた国際連盟のリットン調査団、毛沢東、ケ小平、周恩来諸氏が宿泊した。ロビーの大理石、シャンデリアなども当時のままである。
   現在はホテル大連賓館である。




5.南満州鉄道株式本社 

   満鉄(株)は日露戦争(1904-1905)の勝利により、ポーツマス条約でロシア帝国から譲渡された東清鉄道会社の施設のうちで、南満州支線長春―大連間の鉄道施設・付属地と日露戦争中に物資輸送のため日本が建設した軽便鉄道の丹瀋奉線(丹東―瀋陽)とその付属地を経営資源として運営する目的で設立された。この会社の資本金は2億円、半分が国、半分が民間だったが、国の1億円はロシアから譲渡された鉄道施設の現物支給だった。当時の国家予算が4億5千万円だったから、その規模に驚かされる。第1代総裁は台湾総督府民生長官として、植民地行政に実績を上げた後藤新平である。
   総裁就任は1906年11月13日であった、当時はロシア街の旧市庁舎が使われた。
   この本社ビルはロシアが建設中の学校を満鉄が改修して1908年に完成させた。場所は地図にある通り大広場から東公園通り(魯迅路)で朝日広場への途中にある。
   日露戦で敗退したロシアは東清鉄道会社の施設を日本に無償で譲渡したが、20年後に日本が満州国を建国して、中国東北部を支配下に置くとソ連は買収を請求してきた。
   その交渉に携わったのが第二次世界大戦時にポーランドのユダヤ人に日本への入国ビザを発行して、多くの人命を救った杉原千畝氏である。1919年、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。流暢なロシア語を話す杉原千畝は1924年、外務省書記生として採用され、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満州国外交部事務官に転じる。1933年(昭和8年)、満州国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満州鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値する途方もない要求であり、杉原氏の見事な手腕による有利な譲渡協定の締結は、空前絶後の外交的勝利だった。
   1908年当時はまだ戦勝したばかりで、買収などの話は俎上にも上らなかったと思われる。
   1億4000万円というのは1906年の国の現物支給額1億円の査定はいいレベルだったことが判る。
   現在は大連鉄道有限公司が使っている。




6.満鉄大連埠頭事務所

   1926年の竣工。船客待合所の向かいにある建物で、最初に大陸を踏んだ乗船客が対面する位置に立っている。
   この7階建ての建物は1916年に満鉄が全社をあげて取り組んで、10年の歳月をかけて完成した。当時は大連で最も高い建物だった。現在も港湾局の事務所である。屋上は観光客の入場が許されている。




7.船客待合所

   大連埠頭にあるこの建物の正面上部の白格子部は昔は円形コンクリートだった。
   満鉄が鉄道をここまで乗り入れて、桟橋と連携したところ及び桟橋と待合所の構造も昔と同じだそうである。
   満鉄が当時のお金で、1600万円かけて大連港の完成を急いだ。この金額は満鉄10年間の設備投資額の一割に当たる規模だった。完成は不詳であるが、創業して直ぐに着手したというから、1906年着手して2年以内には客船が接岸できたのではないだろうか。
   日露戦争後に移り住んだ人々の中には戦況を事前に察知して、比較的安全な北海道や長野の田舎に引き揚げた人も多かったと聞いている。
   満州国が建国されてから、大陸に渡って来た日本人はこの埠頭が最初の上陸地で、ここから満鉄に乗って、東北奥地へ向かった。
   ウクライナから買った中古の航空母艦ワリヤーグはこの大連港で修理改造した。中国海軍の最初の空母で世界の注目を集めている。満鉄大連埠頭事務所の屋上から港が見渡せることを知らなかったので、ワリヤーグの写真は撮れなかった。現在は大連港候船庁である。旅客待合ホールと英語で書かれている。




8.あとがき

   戦時中は庭に防空壕を掘って、空襲警報が鳴ると家族全員で逃げ込んだが、中国本土の爆撃は控えられたのか、悲惨な情景は全く見られなかった。しかし終戦から日本に引き揚げる間が一番苦しかった。
   敗戦後中国人が威張りだして、彼らはロシア兵(ロスケと呼んだ)を連れて、大きな家を狙って夜襲をかけて強盗を始めた。日本の警察もいなくなって治安ゼロの社会だから想像するだけでも恐ろしい。
   若いロシア兵や中国人が真夜中を狙って、ドサドサ入って来るのだから、19,16,11歳の姉達は恐怖のどん底に落とされた。美容院もないから、互いに髪を刈り落として、坊主になって男装に変身した。そしてある日真夜中に突然扉を強打されて、外が騒々しくなった、それと察知した姉達は事前に準備していた屋根裏に逃げ込んで無事だったが、ミシンや時計、カメラなどを奪われた。特にロスケは腕時計を欲しがったそうだ。
   その後ロシア人を下宿させると強盗を避けることが出来るという噂を聞いて、電話通信関係のロシア人技術者を下宿させたら、その後強盗はピッタリと来なくなった。
   学校も閉鎖されても何か食っていかなければならず、所謂売り食いが始まった。
   大連ヤマトホテルから満鉄病院に向う大きな幹線道が大山通り(上海路)である。この歩道には満鉄病院や白系ロシア人(1917年革命後中国に逃げてきた貴族)の住宅街に通じているので、人の往来で混雑していた。
   この歩道が日本人の格好の露天市場になっていた。
   母は終戦の8月31日結核で亡くなったので、姉たちは母の集めた帯びとめ、着物、刺繍などを並べて頑張った。
   昭和21年4月頃、引き揚げ船橘丸で大連港から黄海、東シナ海を横断して佐世保港裏頭で初めて祖国の大地を踏んだ。引き揚げの時、船客待合所でロシア兵の所持物検査を受けた際母が集めた売れ残りの美しい中国刺繍や着物はみな取られたので姉達は残念がっていた。
   僕は元気な子供だったので、あまり感傷的な気持ちにはならなかった。

 平成23年9月4日