2.ペルシャ絨毯
ペルシャ絨毯の歴史の中で、材質、染色、色彩、やデザインなど、あらゆる点で最高の技術レベルに到達したのはサファビー朝時代である。
それは王様自ら全国の優れた職人を首都エスファハーンの宮廷に招いて、工房を作り、羊毛や絹の研究のために羊の飼育場、養蚕、そして染色材料として開発した草木染の植物栽培にも熱心に取り組んだ。
そこで製作された世界最高のペルシャ絨毯はヨーロッパの王侯貴族の戴冠式や祝い事に贈呈された。
この宮廷工房で開発された絨毯技術が、その後エスファハーンの隣の都市カシャーンの工房に伝承されて、世界屈指の名品と呼ばれたポロネーズ絨毯、サングスコ絨毯を生み出した。その評判が欧米の上流社会に伝わり、膨大な注文がこの両都市に寄せられた。
オランダや英国の東インド会社はこれらの織物を海のシルクロードを経由して、長崎へ運び、伊万里焼や金銀と交換した南蛮貿易が繁栄した。
それらの絨毯が大名や王朝貴族に献上されたが、次第に市場に出回るようになり、現在では京都祇園祭の南観音山にポロネーズ絨毯が伝承されている。
したがって、ペルシャ絨毯というと現在でもこの二つの都市が圧倒的な高い評価を得ている。
収集家がアンテイークを探し歩いて、運よく優品に出会ったりするとまず間違いなくカシャーンかエスファハーンのものである。ペルシャ絨毯の素晴らしさが世界に知れ渡ると、次第にいろいろな階層の需要者から注文が入り、各地方都市でも競って絨毯産業に参入してきた。もともと絨毯は彼らの生活必需品でしかも、投資の対象であった。だから主婦は子供の教育、冠婚葬祭、不慮の事故などに備えて、日ごろから内職をする習慣がある。娘は4歳で、織りの手ほどきをさせるのである。カシャーンで撮った写真をご覧頂きたい。そして成人になった彼女に婚姻の話が来ると彼女が成人なって作った絨毯を最初に花婿の両親にお披露目して、彼女の美的センス、器用さ、忍耐力など様々な素質を測られるそうである。
またイランは多民族国家であり、多くの遊牧系、農耕系部族が住んでいる。
だから地方都市はローカルの特殊性を生かしたオリジナルなデザイン、材質、民族特有の色彩を競いながら、絨毯産業を盛り立ててきた。
イランにおける絨毯の製作パターンは次の四通りある。
A. 工房絨毯
優れた職人が数名の職人を雇って、工房を開き、デザイン、素材、染色などに彼独自の嗜好に基づき、個性的な作品を発表して、人々から賛同を得て有名なブランドに成長した工房絨毯。
例えばエスファハーン市ではセーラフィアン一家、ナイン市ではハビビヤン一家、カシャーン市では モタシャム氏
B. 工場の大量生産絨毯
経営者が職人と多くの雇用者を集めて、大きな建屋に多数の織機を配列して、職人の教育指導と管理の下で、汎用絨毯を大量生産する。これらは一般家庭で使われている実用一点張りの絨毯である。
C. 部族の絨毯
イランではペルシャ人と呼ばれるアーリア人がファールス地方に移住する前から、多くの遊牧民が住んでいた。彼らは遊牧しているので、大きな織機は使えないが、折りたたみの出来る携帯型織り機を使って、自然に対する鋭い観察力と豊かな感受性から、世界の絨毯愛好家をうならせた独創的なデザイン絨毯を生み出した。創造性の源になったのは砂漠という無味乾燥な灰色一色の周囲の環境から、せめて休息と団欒の源としてのテントの中に小川の流れる庭園に小鳥や草花が咲き乱れる楽園を絨毯によって再現したいという願いだった。それらの部族のデザインはイランの各都市の絨毯産業に大きな影響を与えた。その中でも突出して存在感のある部族はエスファハーンとザグロス山脈の麓のバクテヤリ族、シラーズとザグロス山脈南端のカシュガイ族である。
D. 主婦、娘が家庭内で製作する絨毯
先に指摘した冠婚葬祭や臨時の出費に備えるために、主婦の副業として、あるいは娘の嫁入り道具として、バザールで自らの嗜好の材料を買い集めて、自宅で製作する。また先の経営者の中には家庭の主婦やその子供に材料、デザイン、機織をすべて貸与して、請け負わせる場合もある。
昔はイスラム教の戒律で女性が社会の公の場で働くことを是認しないので、家内手工業が彼女たちの職業となっていた。
 
2−1.ケルマン周辺の絨毯製作地図
 右の絨毯図から判るとおり、ケルマン周辺は地図にはない村落でも家内手工業として作られたものはほとんどケルマンの市場に一旦集荷される。この地域の有力な生産地はケルマン、ラヴェール、ヤズドであるが、ペルシャ絨毯を語るとき、絶対に外せないのが、ルート砂漠のオアシス町ラヴェールである。ヤズドは過去に評判の高い絨毯が作られたらしい。19世紀から20世紀初期に両市で作られた優れた絨毯には“ケルマンラヴェール”、”ケルマンヤズド“と呼ばれて、もてはやされた。しかし現在のラヴェールとヤズドの絨毯産業はすっかり衰退して、昔の面影は全くない。ケルマンも昔の活気さはなく、汎用絨毯の製作ばかりで、注目される工房も現れていない。
次にとりあげる絨毯は最盛期のアンテイーク絨毯である。
 
2−2.ケルマン絨毯
絨毯の話に欠かせないデザインの部位名称と織構造を右に示した。ケルマン市はアルゲ バムで触れたようにササン朝時代に建設された古い都市である。この町はサファビー朝時代にショールのレース織り事業が盛んになった。シャーアッバス大王がイスファハンの宮廷絨毯工房を作ったが、ケルマンにも作られたらしい。その結果17世紀中頃に完成したインドのタジマハールにケルマン絨毯が使われていたという記録が発見されたことからケルマン絨毯が有名になった。
レポート第五話豊臣秀吉の陣羽織で、取り上げた17世紀製作、MIHO 美術館蔵(滋賀県甲賀市信楽町桃谷300)に所蔵されている動物格闘文様のサングスコ絨毯(宮殿用)もケルマンで作られたと言われている。19世紀前半になるとヨーロッパで流行したケルマンショール織物が輸出で盛んになった。ショール織物の輸出先はヨーロッパであったが、特にペイズリー文様のシヨールはイギリスで流行った。次第にショール織物からショールデザインを基本にしたケルマン絨毯に人気が移り、絨毯産業が繁栄するようになった。 また他の地域の絨毯とケルマン絨毯との決定的な違いは糸の染色の方法である。
ケルマンでは羊から採集した羊毛を洗浄、漂白して糸に紡ぐ前に染色を行う。その結果一ロットの大きな染色された羊毛から多くの紡ぎ糸束が出来る。その糸束のロット内では染色斑が生じない均一なものが得られる。
輸出で活況に沸く絨毯産業に、新たなイラン人の有力なデザイナーが現れて、個性的で多様な絨毯が作られたが、ケルマン絨毯の取引先がヨーロッパであったために、顧客の嗜好に合わせなければならなかった。このような背景の中で、ケルマン絨毯として生まれた典型的なデザインが次にあげた二枚の絨毯である。この絨毯の特徴は華麗な花柄を縦長に配置したメダリオンを囲む中央の広い一色のフィールドである。このスタイルの絨毯はイランの伝統的なデザインではないので、現在市場で見つけることは難しい。この種の絨毯は英国の貴族趣味に合致して、非常に流行したが、第一次大戦で、輸出先がアメリカに変わり、その後数年間にわたり、アメリカへ輸出されたといわれている。
若い時代に見た英国の王室や貴族に関する映画の中に、リビング、レセプションルーム、会議室などで、このタイプの絨毯が使われているのをよく見かけた記憶がある、確かに高い天井ときらびやかなシャンデリアの下で、ルネッサンス調の豪華な家具には広い単色のフィールドと花柄文様で埋め尽くされたメダリオンが浮かぶこの種の絨毯は実にうまく調和して、貴族趣味というか一種独特な雰囲気をかもしだしている。     
貴族や王室の部屋は大きいので、大きな絨毯の寸法を世界一美しいとされるアルダビール絨毯(ビクトリア アルバート美術館蔵)例で見ると長さ:12m 幅:5mである。この大きさで絨毯A,Bを想像すると、かなり広いフィールドにエンジ色やペルシャシャンブルーなどの鮮やかな単色を斑なく織りあげるには、相当量のパイルが必要になる、そしてパイルのロット内の染色が均一でなければならない。
このことが先に説明した素材の染色技術を開発させた理由だと思われる。
この二枚の絨毯素材は縦横糸が綿糸であり、パイルはウールである。
次の2点の作品は20世紀に作られた典型的なケルマン絨毯である。
 
絨毯 C:ケルマン絨毯の最も代表的なデザインである。その特徴はフィールド内に調和の取れた色彩の草花が満開に咲き誇る小枝の束が、規則的な配列で上へ昇天しながら隙間を埋め尽くす百花繚乱の絨毯である。
この絨毯を実物大(2.74mx2.0m)で見つめていると花で埋もれた極楽浄土に引き込まれるのではないだろうか。もう一つの特徴はボーダーにもフィールドと同じような調子のデザインが使われている。普通ボーダーは絨毯のフィールドを引き立たすために額縁の役目をする。従って一般的にはボーダーのデザインや色調はフィールドとは逆な色合い、配色を採る。 
しかしそうしなかった理由は額縁を意識させないで、殺風景な砂漠から帰宅した人々の目を、絨毯の花園全体で受け止めようと狙ったのかもしれない。
 
絨毯 D:英国調絨毯A,Bの単色フィールドに大小の円形ロゼッタ文様や花の咲いた小枝、葡萄房などを描いて、メダリオンの周囲をにぎやかにしている。半円形の外周に小花が付けたサルトランジは孔雀が羽を広げたようにも見える。また四隅のコーナーには仏像の背光のように見える絵柄が描かれている。このように丸味を帯びたロゼッタ、アーカンサスの葉、葡萄の房などのデザインが程よく散りばめられて、しかも濃紺(黒に近い)中に黄金、オレンジ、ベージュなどの奥ゆかしい色彩で強調されている。しかも周りの絵柄よりもかなり大きなメダリオンが存在感を主張して、観る者を惹きつける。
この絨毯もボーダーはあまり目立たないだけに、なおさら中央のメダリオンの周辺の高貴な美しさが浮かび上がってくる。
しかし額縁が強調された作品もケルマンには多々見られるので、これがケルマン絨毯だけの特徴とは言いない。ただ絨毯Cのタイプのものは現代でも汎用品で出会うことがある。しかし織りの細かさ、色彩、デザインなどかなり荒削りである。
絨毯 C,Dのタイプで天然染料の優品を血眼になって、探しているが未だ出会えない。
ペルシャ絨毯は高級になるに従って、縦横糸、パイルが細くなる。信じがたいかもしれないが、1ミル平方に一個のパイルを結ぶような作品も作られている。その場合縦横糸は髪毛ほどになる。その細かさで、2メートル平方のサイズが作られるのだから、1枚に何年もかかるわけだ。しかも高級になればなるほど空間を文様で埋め尽くすという途方もないエネルギーを作品に注ぎ込む。
このような絨毯を見ているとなぜこれほどまでに想像を絶する労力を注ぐのか。楽して最大の美的効果を求めるのが普通の人である。
この傾向は絨毯だけにとどまらず、イスラム寺院の内外装を目もくらむようなアラベスク文様や幾何学文様の色タイルで被い尽くすとか、彫金工芸などにも現れる。
このひたむきな性向はいったい何が要因なのだろうかと多くの専門家が分析している。
その中でも抽象的で哲学的な分析は“装飾空間論”(海野弘著)の中で「空間が全体として統一されている場合、その系のなかでは空白はなにもないということではなくて、一つの積極的な空間価値を持つことが出来る。だから“空間の恐怖”の本能によって、空間の全体的な構造化がいかになされるかを説明することは出来ないのだ。装飾の構造は単なる恐れの本能などからでてこないのである。」何とも観念的な話で、とても生活の必需品として生まれた絨毯デザインの志とは考えられないが、空間を埋め尽くす情念が恐れから生まれたものではないという意見は理解できる。
最も説得力のある話はNHK「未来の遺産」(著者吉田直哉)の中の次のようなことだろうと思われる。
それは「アッラーの神のもとに“生の謳歌”しようとした彼らには”偶像崇拝否定“というタブーがあった。人は偶像に全人生の願いを託して、それを崇敬した。しかし、その偶像を否定されたとき、人々の想像力はその神聖な空間を装飾することに注がれたにちがいない。偶像に託された全人生の願いは、ここでは装飾に託されたのであろう。偶像崇拝否定の制約が、このイスラムの空間装飾の無限なまでに発展させた重要な要素となっているように私には思える。」
イラン人の骨太でエネルギッシュな体力で、昔は時間に囚われずに、これでもか これでもかと微入り、細に入り文様を変えて、間隙を埋め尽くすというのは恐ろしいほどの執念とか情念を感じさせる。
いまや労働者は時間給で労働対価が計られる時代であるにもかかわらず、一人で一枚の絨毯に1年間もかかる仕事に情熱を燃やす職人がいることは現代人にとって、何か神秘的な人生観を問いかけているように思われる。
2−3.ケルマン ラヴェール絨毯

このラヴェールという町はケルマンから北へ40kmほどにある小さなオアシス町である。
町の風情は今やイラン中どこへ行っても同じようにメイン ストリートには鈴掛けの木の街路樹が道路の両脇の水路に植えられている。モスクの庭園には必ず池を中心に回遊歩道が設けられる。周辺は平坦な砂漠で覆われて、背景に灰色の丘陵はあるが殺風景な土地である。しかし19世紀中頃にイスラム教の教義に反するような宗教指導者や国家指導者の群像デザインや花柄文様を埋め尽くした菱形を三色のベースカラーで色分けしたものを核にして、その核を大きな菱形に積み上げて、フィールドを埋め尽くすデザインは斬新で個性的な絨毯だった。これらの製品が欧米にもたらされると評判になり、当時ヨーロッパではラバーのペルシャ絨毯と呼ばれてコレクターには垂涎の的であった。しかしラバーは誤字によるもので、テヘランバザールでラバーの絨毯はあるかと尋ねると“ラヴェール ラヴェール ケルマンラヴェール”だと何度も繰り返してたしなめられた。ラヴェールの絨毯でも特に優れた作品だけにつけられた呼び名がケルマンラヴェールだそうである。せっかくケルマンまで来たのだから、現地を訪れて当時の片鱗にでも出会えないものかとアスカリプール氏の車で飛ばした。
しかし後で気が付いたのだが、アンテイークやセミアンテイークの出物などは町の早耳のバイヤーに仲介されて、テヘランバザールへ持ち込まれるらしい。この旅でもケルマン、イスファハンバザールを探索したが、ケルマンラヴェールの絨毯E,FやケルマンのC,Dなどのアンテイークはおろか汎用品すら見つからなかった。
下記の絨毯E,F,Gはケルマンラヴェールと呼ばれる代表的なものである。その大きな理由は19世紀の中頃に重要な織物工房が設立された、また19世紀にはケルマンの地方自治関係者が工房を設立して、世界の指導者とか世界の宗教者などの外国向け絨毯の製作を奨励したことだった。
現在でもこの町には絨毯振興組合の事務所があって、その所長に古いアンテイーク絨毯はどこで見られるのかとか、どんな活動をしているのか尋ねたが良い返事は返ってこなかった。
 
絨毯E:製作は19世紀後半―20世紀初期 寸法:4.45m x 3.26m 縦横糸:綿 パイル:羊毛デザインの核は小花のロゼッタをしだれ柳や糸杉の周りに組み合わせて地色が白、青、ピンクの三色の菱形文を三層の大きな菱形に組み立てたデザインである。主ボーダーの鮮やかな黄金色はクロッカスの乾燥しためしべから作られた染料で得られる美しさであり、また高価なものである。
 
絨毯F:製作は19世紀後半 寸法:5.54mx3.0m 
縦横糸:綿 パイル:羊毛
この絨毯のデザインも絨毯Eと同じように菱形を核としているが、その中の絵柄は生命の木をクリスマスツリーのように飾り立てたものや、お皿の上に団子を盛り上げたようなハジハノムデザインなどに三色の地色で色分けしたものを大きな菱形に積み上げている。
主ボーダーの少ない糸杉を多くの花柄で埋めているデザインは珍しい。
このようなフィールド菱形デザインと花柄のモチーフは18世紀の百万の花爛漫絨毯として流行ったらしい。絨毯E,Fの地色が白、青、ピンクであるが、イラン人の色彩に抱く感情は白が平穏、青が天国の色とされて真実、ピンクは神の英知だそうである。そのような観点から絨毯を見直すのも面白い。
 
絨毯G:製作は19世紀 寸法:2.42mx1.51m 縦横糸:羊毛 パイル:羊毛
世界の指導者と呼ばれた有名な絨毯である。最上段にはモーゼを含む旧約聖書の預言者たち、中央にキリストが描かれている。最下段の右端にはナポレオンが見える。
イラン人がイスラム教を国教としたのは16世紀初期で、しかも戒律の厳しいスンニー派ではなくて、彼らから異端派とされた戒律の少しあまいシーア派であるから、19世紀になると偶像崇拝否定などの宗教的な縛りから開放されたようだ。
描かれている肖像画の名前は主ボーダーのカルトーチの中に英語、ペルシャ語で書かれている。
資産家のイラン人にも人気があったらしいが、輸出用の絨毯だったことは間違いない。
また材質がウールで、しかも寸法がパルデという部屋の広いイラン、欧米ではかなり小さいし、宗教者の肖像画だから、壁掛け装飾に使われたのだろう。
この絨毯の名声からみて、恐らく使われた羊毛はコルクウールと呼ばれる子羊の喉まわりの毛だったろう。このウールは材質としても絹よりも同等か高く評価され、大変高価なものである。
この糸で70ラッジ即ち7センチ幅に70個の結び目の細かさ(1センチ当り、7個)で織るというレベルの絨毯だろう。厚さは五ミリ前後だと思われる。このような肖像画絨毯は最も高い技術と正確さが求められる。何故なら描かれる絵柄が全部異なるので、絨毯E,Fのような同じデザインを繰り返して描かれることが一切ないからだ。同じことは動物の格闘文や狩猟文にも言える。