1.アルゲ バム
斜体部分は、アブドルレザ サラー ベザデイ著 “アルゲ バム” からの引用
 この遺跡は私が訪問した二ヵ月後の平成15年12月26日午前にイラン南東部ケルマン州バムを襲った大地震で、ほぼ壊滅状態に崩壊した。この惨状を日本経済新聞では次のように報道された。“同国のムサビラリ内相は27日、死者2万人に達したことを確認し、「犠牲者はさらに増える」と述べた。ケルマン州当局者は「死者は4万人に達する可能性もある」と語った。中省略 現場は砂漠地帯で、夜間の気温は氷点下に下がり風も強い。救援活動は難航しているもようだ。多くの住民が瓦礫の下敷きになったままの状態。2000年前に建設されたバムの都市遺跡は壊滅状態となった。ムサビラリ内相は「バムに立っている建物は皆無で、都市は廃墟と化してしまった」と語った。イラン文化遺産協会のベヘシュテイ会長は「観光名所の城跡アルゲ バムは90%が崩壊した」と言明。再建築が可能かどうかの調査に着手したという。”
僕の訪問と災害の2ヶ月の時間差は2000年間なかった地震が今回突然発生した確率を考えると、まさに危機一髪で難を逃れたといえる。そしてイラン政府が30年余りかけて修復したアルゲ バムの全容を見学出来た。

 1−1 遺跡の位置
この遺跡は首都テヘランから南東1064kmも離れたケルマン州にある。その州都は人口が185万人のケルマン市である。そして遺跡のあるバム市はさらにケルマン市から南東へ190km離れた砂漠の中のオアシス都市バムに日干し煉瓦で作られた現存する最大の城塞都市である。
ササン朝ペルシャ時代の“王の道”と呼ばれたクテシホン(バグダッド)、エクバタナ(ハマダーン)、レイ、ニシャプールなどを経由した陸のシルクロードとして繁栄した都市群に対して、この遺跡の位置がパキスタンの国境の町ザヘダーン市へ約400km、ペルシャ湾のイラン最大の港湾都市バンダルアバースまで約400kmと海のシルクロードとして重要な中継貿易都市として栄えた。
 
1−2 バム市の特徴

アルゲ バムの歴史をみる上で、それに隣接するバム市の現在の状況を紹介することは重要である。
 
「“ケルマンは世界の中心、、、”であると14世紀のスーフィ派の詩人としてよく知られるシャーネット オルラヴィリが言っている。世界の中心とはその歴史と同じくらい古いということである。“ペルシャの遺産”という本(1962年ロンドン出版)の中で、フリュ氏はケルマン部族あるいはゲルマン部族という名前は部族の居住地に対して与えられたものである可能性が高いと述べている。BC3世紀のカルビン派歴史学者ベロスサスはキュロス大帝によるバビロン陥落に関してペルシャ王は陥落したバビロニア王ナポニダスに終焉の地としてケルマンへ亡命させたと伝えている。歴史的な正確性に若干の疑問点があったにしても、このことはBC539年ごろケルマンがアケメネス朝の主要な州の一つとして確立していたことを示している。今日東南イランのケルマン市はイラン第二の州ホーラサン地方で、人口が185万人の都市である。ケルマン市の南東190kmの広大で無限に広がる灰色の砂漠の中に“砂漠のエメラルド”と呼ばれる永遠の緑の都市バムが横たわっている。緑の広がるナツメヤシとミカンの木の庭園のバムは非常に豊かな地下水脈からもたらされる農業都市であり、その水源はカナートと呼ばれる方法により、数十キロメートルの距離から導かれる、またカナート以外にも高架式水道やオープン水路などを経由して、水の欠乏で知られるそれらの地域に豊富な水を供給している。バムの柑橘類であるオレンジ、甘いレモン、タンジールミカンはよく知られているが、特に“モザファテイ”と呼ばれるナツメヤシはその美味しさでよく知られた珍しい品種で世界的に有名である。
 
モザファテイの寸法 長さ33−37mm 幅16−21mm、味はミネラルが多く濃くて深みのある甘みで、干し柿のような粘りある果肉である。長めの種があり、皮は少し厚めである。カリュム、カルシュウム、リン、ナトリウム、マグネシュウムが豊富に含まれている。
また他のナツメヤシより大きくて光沢のある濃い赤褐色である。
 
「新しい国際市場が開かれてきて、最近では古い静脈に新しい血液が送られるように、この地域の農業上の活動が活発になってきた、またいくつかの産業上のプロジェクトが地域全体の経済状況を変え始めた、その結果産業化時代の競争的な世界へと都市の社会構造を騒動や混乱、暴動などを伴って変えてきた、ケルマン自動車工業株式会社のような新しい自動車産業プロジェクトはこれらの中でも特に注目されている。
  
1−3 アルゲ バムの歴史
砂漠の中のオアシスに日干し煉瓦で造られた城塞都市の起源は約2500年前のアケメネス朝ペルシャ時代にさかのぼるとされている。そして城の基礎が確立したのがパルテイア時代中頃から後半、そして現在の城塞都市の主要な建物はサファビー朝時代だろうといわれている。
この時代関係図示す。 

「街を見下ろして(Citadel)守る古代の城、そして城塞で囲まれた城郭都市の遺跡という特異な視点から評価されるアルゲ バムを通してバム市は世界に知れ渡っている。
アルゲ バムは世界の中でも最も素晴らしい歴史的な史跡であり、パリのベルサイユ、ローマのコロシアム、ギリシャのアテネのアクロポリス、イランのファールス地方のペルセポリスに匹敵するものである。アルゲ バムは歴史上ある限られた期間、すなわちその始まり(パルテイア朝BC250からAD224)からナッサー アーデイン シャー王のカジャール朝(1831-1896年)の統治の間に、この古代要塞都市は次第に衰退していく、今から150年前までの約2000年間のドラマテックな歴史の痕跡を残しているのである。
この歴史的な特異さは建造物の多くの部分の正確な建設年代を推し測るのはかなり困難であり、時には不可能なものもある。伝説によれば、この都市はアケメネス朝のクセルクセス1世の息子アルダシール(別名アルタクルスクセスBC424)の要請に応じて、王書の中の伝説上の王エスファンダールの息子バーマンによって建設されたとされている、しかし多くの歴史家は王書の中のファフトバットやカルナマック アルダシールのパクガンの物語を参考にしている、そしてそれが歴史的な事実だろう。
(注1)
エスファンダールというのはアケメネス王朝をBC330年に滅ぼして、中央アジア、インドまで侵攻したマケドニアのアレキサンダー大王の中央アジアでの呼び名だと聞いているので、彼の現地妻と間の子供にバーマンというのがいたのかもしれない。
 
(注1)の中のファフトバット、カルナマック、パクガンなどの固有名詞がわからないので、城の建設のもう一つの歴史的背景がつかめなかった。
 
アルゲ バムの基礎が確立されたのはパルテイア朝の中頃か、後半だろうと推測している。
城や街の基礎部分からパルテイア期のオリジナルに属すると推定される幾つかのコインが現場で発見されている。またアルゲ バムの北側にある娘城の廃墟や城下町を眼下に見下ろす主要な城の構造上の特徴をトルクメニスタンにあるパルテイア期の町並み遺跡と比較して、一般の人々の居住地区はアルゲ バムから、1,2km西寄りにあったらしい。それは現在のクーゼランというところらしい。
一方統治者の居住区は娘城にあった、この娘城はパルテイア時代なのかあるいはアケメネス時代なのかよくわからないが、事務や裁判、宗教に関わる寺院があった。
娘城の東側にある祭壇の壁には装飾的な模様が彫られているが、それはアルゲ バムの東へ約2kmのところにある“チャルダギー”という祭壇の模様に非常に似ている。
その後内部抗争があり、当時の統治者が殺された、新しい統治者ハフトヴァットが今のような町を眼下に見下ろす城郭を西側の岩の丘に建設した。
しかし再び統治者ハフトヴァッドが戦いに敗れて、新しい勝者アルダシールはその城郭を破壊して、その場所に拝火教の寺院を建設したが、イスラム時代(サファヴィー朝)になって、現在の姿である四季の建物や主要な監視塔に建て替えられたと考えられている。

 
イラン語で娘をドホタールというが、無数の遺跡があるイランでは名無しの遺跡又は今回のような城の一部分(監督者など重要な人物居住)橋などの命名に良く使われる。
勝者アルダシールとはパルテイア王朝を倒したササン朝の始祖アルダシールだと思われる。
最後に、この文献は次のような解説で締めくくっている。
 
「さまざまな戦争の時、国が一致団結した時、そして平和な時、平穏な時、灰色の時、血が流された時、破壊、発展、大虐殺などの浮き沈みを伴った2000年の出来事の中で、この激動の歴史は宇宙の永遠の本質と人間の短くてはかない存在を人々の脳裏に克明に焼き付ける。
アルゲ バムの遺構を探索すると人はあたかも数世紀にわたり人々が歩いたであろう小道や壊れた壁、馬が走り抜けた道、小さな石や砂粒にも当時をしのぶことが出来るであろう。
アレゲバムの遺跡は全体として興味深く注目に値するし心を高揚してくれる、歴史的な意義を理解し吸収するために1度は必ず訪れたくなるのだ。
ここに述べたものは(下記の建造物の説明)アルゲ バムの大変重要な部分の幾つかのものに対する非常に断片的な注釈であり、いろいろな部分について軽い紹介をしたが、その紹介した部分だけでもアルゲ バムの通過した歴史それ自体と同じほどの膨大な史料が必要になる。
だから皆さんよ、ただひたすら眺めながら、ゆっくりと遺跡の中を歩こうではないか。なぜなら貴方たちが歩いている足の裏のいたるところに王様、武士、恋人、賢者、母親などが横たわっていたのかもしれないのだから。注意深く、用心して」

 
文献では建設の着手はパルテイア時代の可能性を強調しているが、この帝国の誕生地はホーラサン州であった、北のカスピ海へ侵入して、マーザンダラン州を支配下に治めて、葡萄が盛んに栽培された。ぶどう酒が有名になり、また農作物などの交易が盛んな国だった。
帝国になってからは首都をバグダッドに置き、西はシリアから東はインドまで版図を広げた。
岩村忍著“世界の歴史”の中に
「ササン朝はイラン高原南部のファールス地方のケルマンを中心に興った。王朝の建設者はこの地方の諸侯のアルダシールという者だった。かれはパルテイアに反旗をひるがえし、AD226年 ホルムズ平原でパルテイア軍と戦ってこれを破り、パルテイア王アルタバルテスは戦死して、400年間のパルテイア帝国は崩壊した。」
と書かれている。
アルダシールはアーリア人のササン王朝の始祖である。アケメネス、パルテイア、ササン朝時代の社会でこの城がどんな活躍したのか史料がないので、判らないが、現在の姿になったのはサファビー朝時代である。サファビー朝の首都はイスファハンであった。イスファハンの宮殿と比較して、この城の規模や建築素材、構造、内装から観て、地方統治を目的とした出先機関(サトラップ)として監督者や軍隊を駐留したと思われる。
この城が長い寿命を保ったのは、この城が隣国パキスタンやインドからペルシャ湾の港湾都市への交易路で中継貿易都市だったので、統治国は経済的貢献の高い地域の管理監督に力を入れたであろう。その結果統治機能が安定している限り、バザール、キャラバンサライ、居住地が完備されて安全な城郭都市には市民が率先して集まり住んだ。
しかし1722年アフガニスタン軍の侵攻に遭い、一旦放棄された。そして時間の経過とともに人々は戻って来たが、1810年ごろ再び侵略を受けて、城は廃墟の道をたどることになった。
次に文献によって、各建物の歴史をたどってみる。
 
1−4 遺跡の構成と主要な建物
 右のアルゲ バムの平面図が示すように、敷地面積は約18万平方メートルである。この城郭には重要な政庁である建物や統治者の住居、大監視塔、長官の住居、守備隊司令官住居などが第三城壁の内側で城下を一望できる丘の上に建設された。
城内には城門、兵舎、馬小屋、学校、モスク、バザール、アスレチック場、キャラバンサライ、浴場、製粉所などがあった。





1−4−1 主要な門 南門
 南門は少なくとも4つあった門の中で、唯一残った門である。それは考古学者モガダシ氏が10世紀にアルサン アルファタシムの中で、数えたものである。

入り口からすぐに待合用のホールがある。その天井はなくて、写真のような景観である。
 
1−4−2 要塞壁
主要な要塞外壁はイスラム時代以前に建設された。手元にある最も古い記録資料によると9世紀ヤコブ アルパイン時代に作られたものだろう。
この壁は2000mに及ばないが、その内側に、主要な監視塔や補助的な塔が29も建設されてその高さは6−7mあり、幅広い粘土の基盤の上に厚く粘土で作られていた。その後セルジュークかモンゴル時代に別な要塞が都市の内部に建設された、それが第2段目の壁として知られている。そしてその壁は街から軍関係地域を隔てる目的があった。
(アルゲ バム地図参照)
 
第3要塞壁は城の重要な統治者関連地域を町や軍事関係地域から隔てるために建設された。
このように最初の建設当時の壁から歴史上の変遷に伴って、多くの改修や増設が行われた。
現場の西側には最初に建設されたと考えられている壊れた壁が残っていたが、多分サファビー朝の直後(1736年)のアフガン朝時代に“蓮の木”地域とか“奴隷”地域として知られた北西の建物が街に付け加えられたときに、その最後の壁も壊されてしまった。

 
1−4−3 バザール 主要な市場
あなた方が門をくぐってから、すぐの道路は60mに渡って街の主要な市場として使われてきた。
この市場は多分サファビー朝時代(16-18世紀)に建てられたもので、当時の統治者によって企画された計画や慣例に基づいて市場には天井が設けられていた。
この市場も20世紀初期までは活況だった。
しかし10世紀頃は “ゴルガン あるいはゴーガンの橋市場”と呼ばれる町の古代市場だったとモガデシイ氏の著書“アサン アル タカシム”の中で語っている。ところがそれらの市場がどこにあったのかハッキリしない。
アルゲ バムは中世に於ける貿易や財産の移動の主要な道路としてペルシャ湾、アラビア湾、そしてオマーン、インド洋、インドへ連絡する絹の道の支流として、あるいは香料の道として有名な商業上のまた貿易上重要な町であった。
イスラム社会の中でバムの繊維産業は並外れた素晴らしい品質でよく知られ、商業上中心的な存在であった。

 
1−4−4 軍事上の馬厩舎と駐屯所
 両者ともセルジューク朝かチムール朝(13-15世紀)に建設されたものだろう。




 
 
1−4−5 四季の建物、監視塔
「これらの建物が現在の姿になったのは多分サファビー朝時代(16−18世紀)に建設されたものだろう。しかし四季の建物や監視塔の原型(オリジナル)はイスラム時代以前の拝火教時代に遡ると考えられている。」
 
四季の建物の敷地内にあった井戸 これは北方に連なる連山から導かれたカナートに繋がっていると思われる。
四季の建物(政庁舎)への入口としては城の威容と比較して、いかにも狭くてみすぼらしい外観だ。
しかし地方の監督行政を任された統治者にはこの程度でよかったのかもしれない。
王朝の統治下にあったとしても首都バグダッド(ササン朝)やイスファハーン(サファビー朝)から遠く離れているため、東方のアフガニスタンやインドからの異民族の侵略にさらされていたので、遠隔地での安定した統治を行うため、大きな守備隊や司令官が主体の城だったのだろう。この他にも統治者と守備隊だけが使用を許された第3要塞の頂上にある虫食穴門(バム地図参照)へ通じる秘密の通路があった。(右図)
この他にも興味を惹かれるのは城の中の風車製粉所である、しかもバザール近くではなく、守備隊兵舎に隣接している。兵隊の食料や馬の飼育は市場に依存しない、独立の管理システムで行われていたのかもしれない。
感想:これほどの規模の遺跡だから、たとえばアレキサンダー大王がインド、アフガニスタン侵攻の帰路にとかマルコポーロが中国の元王朝に向かった往路に、投宿したなどという面白い史実あるともっと惹かれるのだが。