7. わが国にあるサファヴィー王朝アッパース大王のイスファハン宮殿で使われていた
世界最高の猛獣、動物闘争文様絨毯(サングスコ絨毯)
メダリオン コーナー拡大
MIHO 美術館蔵(滋賀県甲賀市信楽町桃谷300)
デザイン:メダリオン コーナー 寸法:5.94x3.20m 
16−17世紀 ケルマン 材質:羊毛、綿

この絨毯は先にも述べたとおり、イスファハン宮廷工房で作られ、シャーアッバース大王の宮殿で使われていた。その後オスマン帝国の宮殿で使われた。
その後の経緯が詳しく美術館提供の英文解説書に書かれている。
著者の翻訳は次の通りである。括弧は著者の注釈
イスラム絨毯の中でも、世によく知られた2枚のアルダビル絨毯(1枚はロサンゼルスのカーンテイ美術館、1枚はロンドンのヴィクトリア アルバート美術館、この絨毯はペアーで作られた)と傑作中の傑作の代名詞としてサングスコ家の名前が付けられた絨毯をサングスコ絨毯と呼ばれるが、この絨毯はその中の1枚である。
この絨毯が宮廷工房で織られた後、どのような経緯をたどったのか良く判っていないが、1621年トルコのオスマン帝国がポーランドのサングスコ王子の援助攻撃を伴ったオーストリア軍によるコーチン戦で敗北するまではイスタンブールの宮殿で使われていた。
この絨毯は戦利品として、サングスコ王子の天幕に持ち込まれて、そのままサングスコ家の所有となっていた。
この絨毯は1904年に初めてペテルスブルグ聖教会にお目見えした。
アメリカのペルシャ専門考古学者アーサー ウーハム ポープ氏によって再び見出されて、1931年にロンドンのペルシャ人の芸術国際博覧会に於いて展示された、そして大変な評判を巻き起こした。
次の23年間はホープ氏が貸与展示品として保持していた。
イランのパーラビ朝の王様が1949年に米国を訪問した際に、ニューヨークにあるホープ氏のアジア芸術協会でこの絨毯を展示した。
一方1951年にホープ氏は虎がカモシカを襲う絵柄のカシャーン製キリム(綴織)で作った豊臣秀吉(1536−1598)の陣羽織の写真を見て、この絨毯に使われているデザインと同じコンセプトによって、このキリムがデザインされていることを認めた。
1954年に、このアジア芸術協会が閉鎖されたとき、ホープ氏はローマン サングスコ王子にこの絨毯をメトロポリタン芸術美術館に貸与して展示したらどうかとアドバイスをした、そして1995年、この絨毯が売りに出されるまで、この美術館で展示されていた。
400年もの間 歴史の栄枯盛衰の中で、あるところから別なところへと放浪の旅を続けたサングスコ絨毯もようやく安住の地を見つけたという次第である。
絨毯の名前は元の所有者の名前(サングスコ家)からきている。
16-17世紀に織られた同じタイプの約15枚のサングスコ絨毯は現在米国、ヨーロッパの美術館で所蔵されている。この壮大で優雅なデザインの絨毯にはお互いに絡み合っている2匹の龍がフィールドの中のメダリオンに描かれている。
このメダリオンの中心線上の上下にはペンダントとカルトーチがある。
フィールドの4隅には円の4分の1が配置されている。
絨毯の縦方向の中心線から左右の絵柄は対称になっている(鏡写し)、また横方向の中心線から上下の絵柄も対称(鏡写し)になっている。
各区分けされた部分には宮廷で仕える人の狩猟や音楽を楽しむ場面や楽園の天使、そして豪壮なライオンと羊の闘争場面や動物、羽ばたく鳥、鹿などが描かれている。
中国から伝えられた龍、鳳凰、想像上の麒麟のような神話的な動物と同じように縁起がよいとされている魚やクジャクが描かれている。
フィールドと主ボーダーには様々な動物の闘争文で満たされている、また外側のサブボーダーは様々な動物の顔の行列で飾られている。このような伝説上の動物や鳥の残酷な闘争文は中国の芸術には決してあらわれない、むしろ龍や鳳凰はすばらしい皇帝や皇后の象徴である。
このような闘争のモチーフを愛用するペルシャ人芸術家はペルシャの伝統に基づいた独自のデザインを生み出した。
フィールドの空隙にはアラベスク文様で埋め尽くしている。この絨毯の中に描かれている場面はイスラム教信者にとって(死後に)約束された極楽の世界を描いているのだ。
細かくて詳細な絵柄で満たされた壮大なデザインの中に、更に生き生きとした肖像まで含まれている。
これはもはや一枚の絨毯というよりは目を見張らせるような絵画の思考(one think多分極楽浄土)を表している、この思考の創造には著名な芸術家の参画なしには考えられない。
この絨毯はサファヴィー朝第五代シャーアッバース1世(1588−1629)の時代に作られたと考えられている、それは芸術も工芸も最高のレベルに達していた。その時期はオリエント(東洋)との文化的に大きな交流があったときで、中国から龍や鳳凰のモチーフがペルシャにもたらされた。1951年にホープ氏によって指摘されているように、この絨毯が京都の高台寺の献納品として長く保管されていた将軍秀吉のものとされていた陣羽織に見られるこのような闘争文様と同じデザインコンセプトを持っていたということは適切な偶然の出来事とであった。(一見偶然とみられるが、実は歴史の底流では繋がっていた)ペルシャの文化がその絶頂期に到達した時代のイランで織られたキリムによって、この絢爛たる陣羽織は作られた、一方サングスコ絨毯も同じ時期にしかも同じ工房で作られて、今再びこの二つの作品が近代日本で出合うことになったのだ。

美術館では製作場所がケルマンとなっている。しかし解説書でこの作品はシャーアッバス1世の時代に作られたとあり、当時宮廷工房はカシャーンとイスファハン、少し時代をさかのぼれば、首都の遷都前のカズヴンかタブリーツしか考えられない。ケルマンでは昔から動物文様は実績がない。多分間違いだろう。
ここで非常に注目されることは、この絨毯と秀吉の陣羽織キリムの製作時期、デザインなどに強い関連性があることをアメリカ人のペルシャ考古学者ホープ氏が指摘したことである。
また9,10世紀の陸のシルクロードから16世紀の海のシルクロードの南蛮貿易によって、人、金、物(質、量)の壮大な交流が加速された。