5. このキリムはどこで作られたのか
金糸、銀糸を使った絨毯といえば前回紹介した祇園祭の南観音山町内会山鉾の前掛けとして使われていた17世紀ポロネーズ風ペルシャ絨毯である。
これはアーリア系イラン人の最後のサファヴィー王朝(AD1502年―AD1722年)の第5代目の王シャーアッパース1世(在位1588年―1629年)が1597年に首都イスファハンを建設した。
地元で獲れる優れた絹、綿、羊毛を使った絨毯を作るため、染料植物の栽培、羊の飼育などの徹底した管理の下で、優秀なデザイナー、織匠を集めて、満たされた環境の宮廷工房をイスファハンや隣の町カシャーンに建設した。
最初は新都に建設された宮殿や城に使用する目的だったが、ヨーロッパの王侯貴族への戴冠式記念、結婚式記念として、金糸銀糸を使った超豪華なペルシャ絨毯を贈呈した。その後彼らは家紋、王家の紋章を入れた絨毯を宮廷工房に注文するようになった。その中でもポーランド王ジギスムント 三世が数多くの紋章の入った金糸銀糸の絨毯を作らせたために、その一部がパリの万国博覧会に出品されると、パリの記者が間違えて、この絨毯はポーランドで作られたと新聞に報道されて、あわてて訂正されたが、それ以降この種の超高級ペルシャ絨毯にはポロネーズ風という名称が付けられた。
しかしここで問題にしなければならないことは、ポーランド風ペルシャ絨毯に描かれた文様はすべて花、樹木、鳥などであった。これらはイスラム教の経典コーランの教えに反していない。
しかしイスラム教では偶像崇拝につながる人物描写は認められなかった、また神は天地の創造者であり、生き物に命を与えることが出来る唯一の存在である、たとえ、画家が紙の上であろうと生き物を創作することは神の御業と競合し、ひいては神を冒涜することになると考えているというので、動物描写も禁止されていた。(“ シルクロードの華”より)
一方拝火教のアーリア系ペルシャ人は欧州大陸から南下してきた遊牧民で、アケメネス朝、ササン朝時代から獅子や偶蹄類動物の闘争文、狩猟図は王権の象徴として宮殿や記念碑の中にレリーフ、彫刻の形で描かれてきた。
そしてサファヴィー王朝になってから、この国はイスラム教シーア派を国教と定めた。
このイスラム教を国教としたサファヴィー王朝は、この問題にどのように対処したか。草創期で、戒律が充分浸透していない時期だったと言っても、布教に熱心だとされたアッバース一世が自ら教義に反することを容認するだろうか。
それで歴史書を調べてみた結果、次のような史実が明らかになった。
(西アジア史 永田雄三編 山川出版社)
タフマースブ1世(サファヴィー朝2代、1522年首都カズヴィン)の工房で当代の名匠たちが共同で描いた“王書”の極彩色の挿絵が有名である。またアッバース1世の時代にはイスラムの教えでは禁じられているはずの人物画が流行し、レザー アッバスイーのように美少年や美少女を描かしたら、その右に出る者はいない名人も現れた。

サファヴィー朝前期と中期の細密画と王書を次に示そう。
細密画(1585年ごろ) 王書(1522年ごろ)
細密画や王書の歴史は絨毯より遥かに古いので、これらの伝統芸術は絨毯のデザインや彩色の発展過程で重要な役割を担った。社会的に権威の高い王書に容認されている描写が工芸品に認められないことはなかった。
一般に言われるようにシーア派はスンニー派に比べると宗教戒律が厳しくないというのはイランとサウジアラビアで仕事をしてみて実感する。
狩猟民族は野営をして宴会を開き、狩猟をすることが彼らの極楽の境地だった。
当時芸術の世界では宗教の拘束にはあまり縛られていなかった、また銀糸、絹を使った超高級キリムは一般市販用とは考えられず、特殊な顧客向けで、ポロネーズ絨毯と同じようにイスファハンかカシャーンの宮廷工房で作られたであろう。
2009年5月29日NHK教育テレビ“美の壷”でペルシャ絨毯が放映された。
この中で信楽のMIHO美術館蔵の猛獣、動物闘争文様絨毯はイスファハン宮殿で使われていたが、サファヴィー朝がオスマン帝国に敗れて、戦利品としてオスマン宮殿(イスタンブールのトプカプ宮殿)で使われていた。オスマン帝国はスンニー派イスラム教を信奉していたが、教義に反するような、この絨毯を使っていたということは王族、貴族にはお咎めがなかったと言うことになる。
続く