第四話 法隆寺・夢殿蔵・四天王獅子狩文錦(国宝)
北島 進
 この四天王獅子狩文錦は法隆寺の夢殿に1200年以上に亘って秘蔵されていた。それは聖徳太子死後、国政を父から譲り受けた蘇我入鹿が自分の都合のいい行政に変えようとして、自分の親近の皇子を天皇にしようとする皇位継承の争いの中で、邪魔になる聖徳太子の子、山背大兄皇子等一族の斑鳩宮を攻めて焼失させ、山背大兄皇子等一族は生駒山に一時難を逃れたが、法隆寺に戻って、そこで全員自害して聖徳太子一族は滅亡した。その一族の凄惨な最期を弔うために建てられたのが夢殿である。夢殿の救世観音は秘仏とされて、保守修理以外は開扉されてこなかった。点検補修で開扉するたびに落雷や地震が起こり、開扉すると呪われるという言い伝えがあった。ここ数百年間開扉されたことはなかった。しかし明治19年6月文部省の正式な文化財保護の立場から社寺の調査として、2人のアメリカ人と一人の日本人の通訳が派遣され、法隆寺に現れた。
アメリカ人の一人はアーネウト フランシス フエノロサである。彼の略歴は1853年2月18日セーラム市で父マニエル フエノロサとアメリカ人の母のあいだに生まれた。
1876年ハーバード大学哲学科を優秀な成績で卒業する。1878年8月10日東京大学哲学、美学教授として、就任する。彼は日本画の勉強のためハーバード大学の同級生金子賢太郎の仲介で、狩野派を研究する必要があるとして友信を紹介され、友信を通して奥絵師の狩野探美、雪舟、探幽とも親交を得た。
最後は狩野宗家から古画の鑑定状を出すことを許されるという免許皆伝を得ている。
もう一人のアメリカ人、ヒゲロウはボストンの名家の生まれで、医者の家系を継ぐはずであったが、医者嫌いだといって、ハーバード大学卒業後細菌学のためにパリのパスツール研究所に留学して、ミッシェル ビングの店にかよって日本美術のコレクションを始めた。
はじめ日本には2,3ヶ月滞在のつもりが、7年にも及んだ。すっかり日本人に溶け込んで、明治18年、天台宗の三井寺の法妙院の桜井敬徳阿砂利から戒を受けて月心という法号を授けられた。
通訳の日本人はフエノロサ教授の教え子 岡倉天心である。
法隆寺夢殿の開扉には強く反対していた管主を説得した経緯をフエノロサは自著“東洋美術史網”の中で次のように記している。
“法隆寺の僧は寺の伝承について語り、厨子に納められてある像は推古朝の頃の朝鮮仏師の作といわれ、200年以上に亘って一度も開扉されたことがなかった、という。稀世の宝物の拝観に熱心なわれわれは、説得に手を尽くして開扉を追った。彼らは冒瀆に対する罰として地震が起こり、寺が壊されるだろうと主張して、あくまで抵抗を試みた。
だが説得はついに功を奏し、長年使用されることなかった鍵が錆付いた錠前の中で音を立てた時の感激は、いつまでも忘れることが出来ない“
開扉してからの様子を岡倉天心は概略次のように述べている。
“僧等怖れて皆去る。開けば1000年前の臭気がプンプンと鼻を衝き、居た堪れなかった。
蜘蛛糸払いながら、前進すると東山時代の器具があった。これを除いて進むと幾重にも布を巻いた高さ7、8尺ほどの像が現れた。
この布を除こうとすると、部屋の蛇やネズミが驚いて出てきた。
布を除き終わると白紙が付けてあった。これは明治初年、(この仏像を補修するため開いたときに)雷鳴が轟き、驚き慄いて中止したものだった。
すべてを取り除くと7尺余りの仏像、手に数珠を持って厳然として立っているのを見た。(救世観音菩薩像)これは生涯の最大の快挙だ。“
そしてこの観音菩薩像の脇に立てられていたのが、ここに紹介する四天王獅子狩文錦である。
寸法:250.5x134.5cm  連珠円文の拡大部  騎乗のホスロー二世の拡大
四騎獅子文錦 中国唐時代 連珠円文の外径:約38cm 馬尻に“山”の字がある
平成21年4月
続く