1.祇園祭の山鉾に懸装されている絨毯

写真に示されたように、絨毯は山鉾の前面と背面に懸装するものを前懸と後懸、山鉾の左右に懸装するものを胴懸と呼んでいる。
その他にも天水引、下水引があるが幅が狭いので、絨毯は展示できない。
岩戸山 胴懸は18世紀インド絨毯
デザインは総柄の格子花文様
19世紀ペルシャ絹絨毯 ペルシャ絹絨毯二枚の内の一枚
メダリオンコーナーデザイン 連花葉文様 
2.ポロネーズ風ペルシャ絨毯

この絨毯を所有する山鉾名は南観音山である。購入した時期は1818年(文政元年)、今から数年前までは前懸けとして使われていたが、劣化が進んだので、使用を止めて、祭り当日は歩道に適温適湿の特設ケースを設けて、展示されている。
一般の絨毯の織り構造は図に示すとおり、縦糸、横糸、パイルで構成される。
普通の絨毯は縦横糸が綿やウールで、パイルは毛、絹である。
しかし高級なものは縦横糸が絹、パイルも絹、あるいはコルクウール(子羊の喉の周辺の柔らかで、弾力のある毛)である。
更にこの絨毯の織り構造で、文様の輪郭を際立たせるために、文様の境界で、パイルを使わない縦糸、横糸だけの平織りの領域を設ける手法がある。これは超高級絨毯にしか使われない手法で、ラチャック織りと呼ばれている。
このポロネーズ風絨毯は更にパイルの材質に絹、金糸、銀糸が使われると共に、ラチャック織りが併用されている。
主要な色は明るいクリムソン赤、暗いクリムソン赤、濃紺、ピンク、茶、青黄色、明るい緑、暗い緑、オレンジ、黒、明るい灰、暗い灰。
織りの細かさは55ラッジ(55ラッジとは幅7cmに当たり55個のパイル結び目を設けることを意味する。)である。この荒さは絨毯として実用に耐えられるレベルの荒さであり、最近では70,90ラッジの細かい絹絨毯が作られている。
しかし昔の西洋人の生活様式では、このような細かくて薄い敷物は実用に耐えられなかった可能性がある。


染料はすべて天然染料である。
現在の染料は19世紀後半に発明されたアニリン系化学染料が一般的に使われている。
この染料はバザールでも安価で簡単に入手できる、そして天然染料では得られない鮮やかな黄色、緑、紫、ピンクを出すことが出来るが、色の組み合わせ、染色者の技術によっては色がどぎつくなりやすい。日本人好みの落ち着いた色彩は得られ難い。
一方天然染料は植物の栽培、採集、乾燥、加工と手間はかかるが、羊毛や絹の繊維に染料が深く吸着して、褪せ難く、落ち着いた色彩に染め上がる。また動物や鉱物からも天然染料として抽出されている。
現在でも一流の絨毯工房の作品はすべて天然染料を使って作られている。
数百年来イランにはこの種の絨毯は一枚もなかったが、パーレビ王朝のファラ王妃の要請でアメリカのロックフェラー財団が二枚のポロネーズを献納したと聞いている。これが現在テヘラン絨毯博物館に飾られている。
それがこの二枚である。
この2枚と南観音山のものと比較しても、南観音山の方が全体に色が飛んでしまって、褪せたり、磨耗が進んでいる様子がわかる。
3.ポロネーズ風ペルシャ絨毯はどこで作られたか

サファヴィー朝( AD1502年―AD1722年 )の民族的な事柄は正倉院白瑠璃椀で述べたように、民族的にはアーリア系ペルシャ人の国である。
しかしササン朝時代から750年以上経過して、アラブ、モンゴルとの混血が相当に進んでいるとみるべきで、アーリア系の民族的な素質がどれほど受け継がれているかは定かではない。
ただアッパース王家の先祖はマホメットの娘と娘婿アリーの子供のフセインとササン朝ペルシャの最後の王ヤズドギルド三世の娘が結ばれて生まれたと広瀬隆氏の著書“世界金融戦争”の中に書かれている。
従って、王族は既に最低でも50%はアラブの血が混じっていることになる。
シャーアッパース1世(大王)が1597年にイラン高原の中央部を流れる最大の河ザーヤンデのほとりに綿密な都市計画の下で首都イスファハーンを建設した。
都の中心に競馬場のような長楕円形のエマーム広場を設けて、中心部には花壇と噴水を配置した。広場の周囲には道路を介して、宮殿、寺院、バザール、橋などを配して、壮大な街並みが造られた。
シャーアッパース大王は良質な絹、羊毛、綿が産出される地域の特徴を生かしてペルシャ更紗、ペルシャ絨毯の生産を奨励し、その他にも細密画、寺院のドームや壁を飾る装飾タイル、陶器、銅版に絵柄、文様を刻んで壁掛け装飾品などの工芸産業の振興に力を注いだ。その結果貿易が盛んになり、それらを買い求めるために訪れたヨーロッパの商人や外交使節は、この都市の繁栄と美しさを「イランの真珠」とか「エスファハーンは世界の半分」といって称賛を惜しまなかった。
日本で生活したイラン人に言わせるとイスファハーンは日本の京都のようなところだという。
    



 シャーアッパース大王はこの新しい都に宮殿建設して、その内部に使われる装飾品や絨毯を一流の織匠やデザイナーを集めて独自の工房で作らせたのが王室工房の始まりである。
王室工房の話は正倉院の白瑠璃椀で吉水常雄氏が述べられたように、高度な技術と品質を維持しながら高価で複雑な文様のガラス容器を大量に製作する必要性に遭遇して、

この種のカットグラスは、ササン王朝がその王室の工房で優秀なデザインと厳重な品質管理の下で、大量生産、大量販売を行った国際的な一大ヒット商品の一つであったと考えてもいいだろう。
と述べているが、当時の歴的な資料があれば別だけど6世紀頃の瑠璃切子碗をササン王朝の王室工房で行き届いた品質管理の下で大量生産したという大胆な推測には違和感を抱かされた。
しかしアッパース大王は王室工房に材料、デザイン、染色などあらゆる工程に厳格な品質管理を施行したという話は資料が残っているので、事実である。
王室工房では羊の飼育から染料植物の栽培、染色、材質の選択まで洗練された感覚と技能を持った当時の一流の職人を集めて、余裕を持って製作された。
その結果この色彩豊かで複雑なデザインのオリエント絨毯に対する人気がヨーロッパで急激に高まってきた。
更にヨーロッパでは家系の紋章や王族のシンボルマークを描いた絨毯が注文されるようになり、王室工房も規模の拡大に伴って、大王の夏の避暑地だったカシャーンにも工房が作られた。
ポーランドやポルトガルのような遠い国の王族、富豪は自分たちの宮殿や別荘にも特別なデザインされた多数の絨毯に膨大なお金を費やしていた。
例えばポーランド王ジギスムント ワーザ三世(在位1587−1632年)が1601年にカシャーンに注文した絹絨毯で、ポーランド王家の紋章が入っていた。金糸、銀糸が使われた豪華な絨毯である。
ロンドンのピカデリー街に店を構えるイラン絨毯商が書いた“The Story of Carpets”には次のように書かれている。

このようなペルシャ絨毯の人気が高まって、フランスではこのような精巧に作られた高価な絨毯があまりにも人気が高まり、その結果お金が国外に流出して、経済に影響が出始めたほどであった。
フランスのヘンリー4世はこのことを非常に心配して、この輸出貿易に対抗して、国内に絨毯工房を建設するよう命じたほどだった。
王様によって建設を委託されたロウデット氏は昔病院だったシャイウにあるサヴォネリーという建物の中に工房を王族の支援によって建設した。オリエント(ペルシャ、中東)の伝統的なものを数多く借用して、絨毯が製作された。その絨毯には当時流行していたロココ調のものも取り入れられた。
その後この工房で作られる絨毯をサヴォネリーと呼ばれるようになった。
ヘンリー4世はこの絨毯の美しさに深く感動されて、王族だけしか買うことが出来ないように法令を定めてしまったので、オリエントからの高価な絨毯の輸入を遮断することに失敗してしまった。
こんなわけで、その後もこの種の超高級絨毯はこの王室工房で作られ続けたと考えられる。


4.ポロネーズ風ペルシャ絨毯の名前の由来

この“ポロネーズ”という名前の由来は、著者Essie Sakhai氏の“The Story of Carpets”の中に次のように述べられている。
ポーランドの小説家であり、且つポーランド王子でもあったザアルトリスキー氏は1866年パリで開催された世界博覧会に17世紀の多くのペルシャ絨毯を展示した。所有者がポーランド人であるということから、一人のフランス人記者が、これらの絨毯は多分ポーランドで製作されたので、“ポロネーズ”と呼ばれたものではないかと記事の中に書きました。しかしこの後、この誤りは“ペルシャ絨毯”である直ぐに訂正されたにも拘わらず、このポロネーズという名前は、17世紀の優れたイスファハンの絹絨毯全体に付けられるようになった。


5.ポロネーズ風ペルシャ絨毯の特徴

南観音山が入手した年代からみて(1818年)、中古品だったのだろう。
年に一度しか使われないから、懸装品として使われている絨毯の保存状態は非常に良好だったと考えられる。
しかしこのデリケートなラチャック織や天然染料の絹、金糸、銀糸のパイルが使われた絨毯が数百年間使用された中古品だと推定すると、最初から、かなり劣化していたものだったと思われる。
テヘラン絨毯博物館の二枚のポロネーズ絨毯を館内で観察しても、かなり磨耗が進んでいて、写真で観察されるようにデザインの輪郭が失われている。パイルも磨り減って、文様やその色彩も不鮮明になっている。したがって現物を見る限り、それほど美しいとは感じられない。
同じように南観音山絨毯も同じような状態である。
しかし世界的に有名なアルダビール絨毯とこのポロネーズを比較して、特徴的な違いを指摘すると、ポロネーズのデザインを構成する文様の一部は今でも命名されていない新しいものが多数使われている。勿論シャーアッバス文様、パルメット、リボンなど基本的な文様が使われていることは言うまでもない。この新しい文様は主に絨毯のフィールドの中で繋ぎ合わせて全体のデザインが構成されている。その特徴は3枚とも共通している。また描く文様に使われる色彩も11種とあまり多くないにも拘わらず、その天然染料の調合した色出しが絶妙で、現代の一流工房の作品でも見られない微妙な色彩を放っている。
3枚の絨毯を一瞥して感じるイメージは少し褪せた薄黄緑(主ボーダーも含めて)であるが、このような表情のペルシャ絨毯に出会ったのは初めてだった。絹の高級絨毯で有名なコムで最近黄金色のフィールドが流行している、また地方の個性的な絨毯で知られるクーチャン絨毯(オール絹)などにも黄金色のやや似た表情のものがある、しかしデザインと文様の色配合は全く異なる。
その他の特徴として濃紺の輪郭線、オレンジ、明るい青などの小さい文様が適切な位置に配置されて、全体の雰囲気を引き締めるアクセントになっている。
ここに金糸、銀糸が文様を浮き立たせていると想像すると絨毯全体のイメージは高貴で重厚な雰囲気の中に豪華絢爛な表情を漂わせていたのだろう。

6.ポロネーズ風ペルシャ絨毯の伝来経路

文政元年(1818年)にどのような経路で南観音山町内会が入手したのか、誠に不思議である。
この問題に一つのヒントを与えてくれる資料がある。
それは平成7年4月に群馬県立歴史博物館第50周年企画展 中近東絨毯 副題“ シルクロードの華”の出版物
この本の中に次のような説明がある。
16世紀から17世紀にかけて、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス船が相次いで来日し、さまざまな珍しい品々がもたらされた。1639年にポルトガル船の来航が禁止されると、オランダが交易権を握って、1788年にオランダ東インド会社が崩壊するまで活躍した。
一方、1600年に設立されたイギリスの東インド会社が日本進出を図り、1613年平戸に商館を開設した。
18世紀から19世紀中期にかけて、イギリスの勢力がインドに及ぶと、東インド会社は1858年に解散するまでインド貿易を我が物にした。こうした歴史的な背景を考えると近世日本に諸外国の珍品が船載された経緯がおぼろげながら浮かび上がってくる。
近世初期にポルトガルとの貿易によってもたらされた毛織物は、献上品、進物品として将軍や高官の手に渡り、特に戦国の武将たちの間では人気を博した。
また徳川家康時代に将来されたと推定される17世紀の絨毯が若干ながら現存している。徳川美術館には徳川家伝来の絨毯が10枚ほど所蔵されている。

これらのことから、同書ではこのような超高級絨毯は最初将軍や元首に献上品として日本に入り、後で下賜されたものが祇園に入ったという経緯を推定している。
これが現在最も確かな伝承経路だと考えられる。
イランなら国宝級のこの絨毯が祇園祭の町内会所蔵として眠っている。
また社財団や徳川美術館、大阪の国立民族博物館、カネボウ美術館、白鶴美術館その他個人蔵の希少な絨毯が分散している。しかしこれらを一箇所にまとめることによって、歴史的な変遷の中で、中近東の伝統工芸としての絨毯がどのように受け継がれ、発展して来たのか、そして他国にどのように伝播していったか系統的に鑑賞できる。
それによってイランのような多民族国家の中でもペルシャ絨毯を世界に知らしめた極めて独創的なデザインを生み出した遊牧民がいる。
たとえばイラク、トルコ、イランの国境にまたがって住んでいるのがクルド族である。
政治的には周辺国と武力衝突して、新聞を賑わすので、我々には厄介な部族だと思われている。
男性は肌が浅黒く、頬はこけて、やせて眼光鋭く精悍なイメージである。
そしてイランのクルド人はクルデスタン州の州都サナンダッジ市に多く住んでいる。
しかしこの町は昔セネーと呼ばれて、ペルシャ絨毯の織り構造を上記に示したが、これを別名セネー織りとも呼ばれている。それ程この町から多くの優れた絨毯が生まれた証拠である。
この民族に対する外部評価とは反対に、こと絨毯に関しては途方もなく精密で、重厚な深い色合いのペルシャ絨毯を作ることで世界の愛好家を惹きつけてきたのである。だから民族性というのは外観からは全く予想できない素質があることを認なければならない。
終わりに 著者のコレクションでも最も自信ある彼らの作品を紹介しよう。


参考資料

絨毯“シルクロードの華” 群馬県立歴史博物館
祇園祭の美        京都市自治100周年記念特別展
The story of Carpets Essie Sakhai
Persian Carpet Carpet Museum of Iran
H21年1月