6.このガラス容器はどのようにして日本へもたらされたか

 

正倉院や安閑天皇陵のガラス容器は特定の人物によって、もたらされたという記録はない。それ故多くの研究家や歴史学者は発掘された現場を地図の上にスポットして、それに史実上最も頻繁に使われた交易ルート(陸、海のシルクロード)を重ね合わせて推測している。

“ガラスの道”で指摘された出土個所を地図にスポットして、当時のシルクロードと遣隋使、遣唐使のルートを重ね合わせると次のようになる。

製作地クテシフォン周辺(バグダート)から“王の道”を通って

エクバラナ(ハマダーン)―テヘランーニシャプールーマシャッドーメルブーサマルカンドーカシュガルーホータン―楼蘭―敦煌―長安―洛陽―徐州―蘇州―寧波―大宰府(博多)―奈良

しかし朝鮮―日本との交流が多かった朝鮮ルートはバグダードから長安までは同じで

長安―大同―北京―平壌―ソウル―釜山―大宰府―奈良

も想定できる、しかし由水氏の調査によると朝鮮ではササン朝カットガラス器は一点も出土していないと述べている。だからこのルートは外すことにする。

正倉院の碗がもたらされた経緯は、聖武天皇時代の遣唐使往来が盛んだったので、留学僧や唐の来朝者などが献納品としてもたらしたと予想できる。

しかし遣隋使がまだ派遣されていなかった安閑天皇(在位 531年から535年)時代に、どのような経緯をたどったのか。それには安閑天皇が何時亡くなって、墓陵が何時建設されたのか知らなければならない。しかしこれは不明である。従って安閑天皇時代の中国との交流状況を調べると”ガラスの道“では次のように述べられている。6世紀の初頭に、武烈天皇の死後、皇統が絶えて20年間もの空位期間を経たのち、越前の応神天皇の血を引くという継体天皇が迎えられて即位した。歴史上有名な皇位継承事件があった。

安閑天皇はその継体天皇の長子として、531年に即位したことになっている。

九州の磐井の反乱や東国の国造の地位をめぐる争いなど、この時期はいわゆる内乱の時代であった。

従って中国側の史書にもわが国の使節の来朝は記されていないし、「記」「紀」の中にも使節を遣ったという記録はない。おそらく、この時代には中国との正式の国交は絶えていたのだろう。

人や物の往来が非常に少なかったということであるから、6世紀中ごろまでは考えにくい。

人物往来によってカットガラス器がもたらされた最も可能性の高いのは次の時期だろうと推測される。

570年に高句麗が初めて日本に遣使を派遣した。

593年の聖徳太子が摂政になる。

607年多くの留学生を伴って小野妹子が遣隋使として隋に派遣された。

609年小野妹子が隋から帰える。

614年犬上御田鍬(みたすき)を隋に派遣する。(翌年帰朝する)

630年犬上御田鍬を唐に派遣する(遣唐使の始まり)

従って隋や唐の初期に往来した人物や中国や西域からの来朝者によってもたらされたと予想する。