5.ギーラン州では何故大量のカットガラス容器が出土するのだろうか。

 

カスピ海沿岸の工事担当者は休暇を利用して、現在のラシット市周辺も訪れたが、別に取り立てて話題にするような街ではなかった。イラン人が大好きなおこげのご飯が出来る東芝の炊飯器の工場があることで、テヘラン駐在の日本人にはよく知られた町である。

バンダレー アンザリーという港町があり、アゼルバイジャンやトルクメニスタンの大型タンカーが行き交うカスピ海最大の港町で、アンザリー干潟には野鳥も多く、ビーチも美しくて、観光客を魅了するのに事欠かない観光都市である。一方イラン国内ではギーラン州とマーザンダラン州がエルブールス脈からカスピ海岸に向かって裾野が広がる肥沃な土地で、しかも海抜がマイナス30メートルで高温多湿、雨量が多くて、昔から米、お茶、桑を栽培が盛んであった。19世紀のガジャール王朝時代にロシアは交易路開拓として、カスピ海を横断してペルシャ湾に抜けるルートを確保する狙いで、ナデールシャー王を説得して、この街にコサック軍団を駐屯させることに成功したとか傀儡政府を設立したなどロシアの政治的な圧力を受けた町である。しかしパルテイア、ササン朝時代に大きな都市文化があったという痕跡は見当たらない。

奈良国立博物館の解説のように、この碗がギーラン州で製作されたとはとても思えなかった。ササン朝時代の領土と交通路を地図2に示した。

 

 “ガラスの道”や当時のラシット周辺の様子から判断して、ギーラン州での出土の多い理由は、ラシット周辺かアンザリーの港町には、ササン朝時代にカスピ海周辺国、今のコーカサス、アゼルバイジャン、南ロシアへガラス商品や織物などを輸出する集荷市場があって、ギーラン州で栽培される米やお茶、桑などの農産物もそれに加わっていたと思われる。

当時の地主は安い賃金でイラン人労働者を雇って、農産物を生産して、国内外に販売して膨大な利益を稼ぎ出し、多くの豪農が育ったのではないか、彼らはラシット市場に現れた王室工房の宝石のような高価なガラス器を競って買い求め、死亡すると墓に埋葬されたのかもしれない。