4.白瑠璃碗はどこで作られたのか

 

歴史家や研究家の報告書でも決定的な証拠が発見されて、ここだという場所は現在まで見つかっていない。

しかし前述した瑠璃切子碗のレプリカの製作者由水常雄氏の著書“ガラスの道”の中で、次のように述べている。

彼はまず同種類のカットグラスの出土箇所を拾い出して、

中国では楼蘭、敦煌、亀茲、科学的な発掘資料としてはイラクのクテシフォン、キッシュ、ヨルダンのペトラ、サウデアラビア、アルメニアのドウビン、アゼルバイジャンのスタグイラン、カヴァテイナ自治区のクバンがあげられ、その他にイランの北部ギーラン州出土と伝えられるものが100点近くも近年になって古美術市場に出現している。

出土個所は上記のようにササン王朝の支配領土全域と中国にも及んでいる。

中国の唐王朝時代にペルシャ人のガラス職人を招聘して、カットガラス容器を作らせたという古文書やこの碗の製作数の多さから、次のように述べている。

この種のカットグラスは、ササン王室がその王室の工房で優秀なデザインと厳重な品質管理の下で、大量生産、大量販売を行った国際的な一大ヒット商品の一つであったと考えてもいいだろう。

これらの出土地の遺跡の年代は、三世紀から七世紀の広範囲にわたっている。

ギーラン州はむしろ、東流と北流のコースの分岐点としての立地点にあり、この地域で作られたとするより、もっと伝統的なカットグラスの製作地であるメソポタミア地方の製作地、クテシフォンやキャシュやモールス、サーマッラのような産地で作られたとするほうが妥当であるように思われる。

この王室の工房で作られたという考え方は次回の祇園祭の山鉾に飾られる16世紀(サファヴィー朝)ポロネーズ風ペルシャ絨毯の話で取り上げることになる。