3.白瑠璃碗が最も沢山出土する場所はどこか(図1参照)

 

イラン送電線工事の中で、チャルース市の近くにハサンキーフ変電所がある。ハサンキーフの周辺はクラルダシュトと呼ばれる地域で、当時現地のイラン人から、この周辺のお墓からも、たびたびガラス容器が発掘されるという話を聞かされていた。

一方松本清張氏の“ペルセポリスから飛鳥へ”という著書の中で、東京大学のイラク、イラン遺跡調査隊員が1964年ごろにテヘランの骨董屋に立ち寄ったところ偶然に村民の盗掘者による白瑠璃碗の持込があった。そしてこの種のガラス容器はギーラン州の州都ラシットから少し東よりのルードバール地方にあるデーラマン渓谷に散在するお墓から出土していることが知られるようになった。(図1を参照)

この時代の文化調査のためにわが国によって、2つの発掘調査隊が派遣された。

 

最初の調査隊は前述お本の中で、東京大学イラク、イラン遺跡調査隊が1956年から1965年までの10年間、このデーラマン周辺の考古学的発掘を行った。特にパルテイア、ササン朝期の古墳群を多数発掘して、東西文化交流の諸問題の解決に貢献する結果をもたらした。そしてガラス容器の出土に期待したが、ようやく1個発掘したが正倉院のものとは違う種類の切子碗で、品質が劣るものだった。と述べている。

同じ時期に暗殺教団の城を調査する探検隊がイギリスから派遣されていた。

その調査報告が“暗殺教団の城”というタイトルで1963年に出版されている。(著者はピーター ウイリー)

この本の中で、この探検隊は1960年からイランに来た。そして調査発掘の許可を取得するためにテヘラン滞在中に、ギーラン州にある暗殺教団の城の情報と共にデーラマンの村落にはルリスタンの青銅器やカスピ海壷、金属彫り物、刀などが出土するとデーラマンの地主と関係のある資産家から聞かされて、彼らはこちらにも強い興味を抱かされた。そしてラミサール城の探検調査終了後、新たに政府の許可を取得して通訳を雇い、デーラマンの町に向かった。そしてデーラマンに入る前の町シーアチャル村の宿泊所で日本人男性三人、婦人一人と偶然に出会って、お互いに自己紹介と情報交換をしたが、日本人たちは明らかに自分たちの出現を心よしとは思っていない様子だった、そしてこの地域は雨が多く、日本人は皆重そうな雨合羽を着込んでいたと書かれている。競合相手が現われたのだから、歓迎する気持ちにはなれなかったのは当然かもしれない。

この日本人は時期的にみて、間違いなく東京大学イラク、イラン遺跡調査隊のメンバーだったと思われる。

二つ目の調査隊は1976年に発足した東洋文化研究所(東京大学)の美術、考古調査隊である。この隊の目的はまさに正倉院の白瑠璃碗や安閑天皇陵出土の同種のものを発掘するために編成された。再び松本清張氏の“ペルセポリスから飛鳥へ”によると

政府によって盗掘を禁止される10年前には前回のイラク、イラン遺跡調査隊が発掘したデーラマン渓谷隣りのハリメジャン渓谷の南麓に位置するシャピール丘で200基に及ぶ墓が掘られたことが村民からの情報で明らかになった。この付近の古墳からパルテイア、ササン朝時代の切子装飾ガラス器が多数出土したのはほぼ確実らしいというので、この調査隊はハリメジャン渓谷のシャピールの丘を発掘の場所に選んだ。

しかし1976年および1978年の二回のハリメジャンの発掘でも未だ正倉院と同種のものは発見していない。

なぜ調査隊の発掘ではその発見が皆無なのか

その理由は村民による盗掘でほとんど未盗掘のお墓が残されていないか、未盗掘の墓はまだかなり残っていても、将来のために秘密にしている

と松本氏は推測している。