イラン病患者からのレポート 第十二話(7) 
暗殺教団(シリア篇)
北島 進 
序文

 これまでの教団レポートで間接的に触れたように教祖ハサン・イ・サバーフ(以降略称ハサン)はシリアへも宣教活動を目論んでいたが、ついに1096年、シリアにニザリ派イスラム教自治領国家を建設するという大胆な行動に出た。彼の自治領国家というのは1090年ごろペルシャのギーラン州のルードバール地方という中都市ガズヴィンから60㎞も山奥で、シャールード川やタラガーン川、アラムート川の両岸に広がる田園地帯の多くの村落の農民を改宗させて、彼等を領民として十分の一税を徴収することで、その領域の自治権を行使して領民の財産と身の安全を守る国家であった。そしてその大きな役目は当時のペルシャを支配していたトルコマン系スンニー派セルジューク朝のシーア派教徒に対する差別的な徴税を拒否して領民を守るために戦わなければならなかった。国家のスケールは決して大きいものではなかった。今回最初のダーイー(宣教師)のシリアへの派遣は建国後6年しか経っていない。 
 しかしハサンには異国の地シリアでも十分勝算あると踏んでの決断だったのだろう。
 それには幾つかの彼らに有利に働く条件が揃っていたことが時間軸で整理すると判明した。
 シリアでのニザリ派教団の活動は1096年から1272年頃までであるが、その間に7名の首席宣教師がペルシャから送り込まれていた。自治領国家を確立して最も繁栄した時期は1168年から1193年の六代目首席宣教師 スイナーンの時代であった。そして終焉はモンゴル帝国の西方遠征団のフラグ汗によってもたらされた。
 いつも現地の遺跡を踏査して写真を撮り、現地で入手した資料や文献を元に執筆するのであるが、2013年頃から無法者集団イスラム国(イスラムIS)が北部イラクのテクリート、モスル、そして北部シリアのアレッポ、ラッカなどを支配している。ところがどういうわけかニザリ教団の活躍した拠点もアレッポ、ラッカ、モスルなどとオーバーラップしている。外務省はシリアを危険地域に指定して、旅行者のパスポートを取り挙げるという。とても恐ろしくて近づけない。
 今回はもっぱらグーグルマップ、WIKIPEDIA、海外文献から得た資料で執筆することにした。

1.シリアでのニザリ派教団の歴史

1.1 ハサンがシリアへ宣教拡大を決めた理由


ハサンがシリアへ二ザリ派イスラム教の宣教拡大を意図したのは次の三つが大きな要因だったと考えられる。
  その理由は
  A.イスマイリ派の揺籃期の秘密の本部がシリアにあった。
  B.イスマイリ派のファーテイマ朝がシリアを支配下に置いた時代があった。
  C.ニザリ派教団の教祖ハサンの豊富なシリア情報。
    (注釈:宗派名を1094年以降は本稿ではニザリ派としているが、歴史家はニザリ イスマイリ派と呼称している。理由は1094年にエジプトのイスマイリ派ファーテイマ朝がニザリ派とムスタアリー派に分裂したことによる。)

1.2 イスマイリ派揺籃期の歴史
 
 イスマイリ派の揺籃期の歴史はファーテイマ朝誕生の源になったイスマイリ派イスラム教イマーム血統の指導者が シリアのアレッポから南方ホムスとハマーの間にある小さな街サラミーヤに秘密の根拠地を構えていた。当時シリアはスンニー派のアッバース王朝の支配下にあったために、イスマイリ派は常に迫害の憂き目に遭っていた。この迫害を逃れて、当時マグリブ(日の沈む国)と呼んでいた現在の西アフリカのチュニジア、モロッコに活動拠点を見出すべく、その指導者ウバイド・アッラーフ・サイード(後にマフデイー(救世主)アブドゥッラーと自称した)は有能で戦略的な才能に恵まれたイエーメン人宣教師アブー・アブド・アッラーフをアルジェリアへ派遣して、そこに住むベルベル人のクターマ族と接触して宣教しながら、901年ごろイスマイリ派への改宗させることに成功した。そしてクターマ族は彼の指導権を認めた。彼はクターマ族の戦士を集めて十分な戦力を整えたのが903年ごろであった。909年頃にはこの戦力によって彼はチュニジアの諸都市を征服して首都カイラワーンを占領してしまった。 クターマ族の支持が得られたことを聞きつけたウバイド・アッラーフ・サイードは902年サラミーヤからチュニジアへ移動したが途中で宗教的なトラブルに巻き込まれて捕虜になるが、後に釈放されて910年にカイラワーンに到着した。そしてそれまでマグリブの征服事業の担い手だったアブー・アブド・アッラーフ等の不満分子を廃して、自分はイスマイールの子孫でありマフデイー(救世主)でありカリフであると宣言して911年この地にファーティマ(イスラム教の始祖マホメットの娘で後にシーア派の開祖アリーの妻の名前)朝を建国した。(普通シーア派では聖職者の最高位をイマームと呼ぶが、バグダートのアッバース朝に対抗してイマームからカリフに変えた)
 その後ファーテイマ朝のエジプトへの進出は953年に即位した第4代カリフ ムイッズの出現まで待たなければならなかった。当時エジプトはアッバース朝の宗主権を名目的に認められたイフシード朝が支配していたが、946年に建国者イフシードが死去するとイフシード末期の政治的混乱が起こり、その隙を狙ってムイッズはスラブ系解放奴隷ジャウハルを将軍にして、969年彼が率いるファーテイマ朝軍団はエジプトを容易に征服した。ただちに新都建設にとりかかり、エジプトの首府フスタートの隣のカイロに新都を建設した。973年ムイッズは新都に入城した。
 ムイッズと息子アズイーズの時代(952-996)が最も繁栄して、項目Bで述べたシリアへの支配領域はエジプト一帯からエルサレムを含む南シリア地方そしてメッカを含むアラビア半島西部地方に及んだ。その影響でシリアには多くのイスマイリ派住民が移住した。ここでシリアのイスマイリ教徒に関係する注目しなければならない点を指摘すると1094年のファーティマ朝18代目カリフ アルムスタンシルの没後相続権争いで、ファーテイマ朝はアルムスタンシルの次男ムスタアリーをカリフ(イマーム)としてムスタアリー派を、一方ペルシャのハサン サバーフは長男ニザールをイマームとするニザリ派を起こして、イスマイリ派は分裂した。
C. に関してはハサンが十二イマーム派からイスマイリ派の改宗した時にイスマイリ派の宗教原理、秘密教義の伝授のためにファーテイマ朝カリフの首都カイロへ出頭を命ぜられてシリアを経由してエジプトーペルシャ間往復の旅を経験した。 

1.3 教祖ハサン サバーフのカイロへの旅路

カイロへの旅の往路は1076年にレイ市を発ってイスファハーン市に向かい、そこから北上してアゼルバイジャン経由してトルコの国境を越えてアナトリア地方に入った。マイヤーファーリキーン現在のシルヴァン市に来た時、彼はシーア派とスンニー派でお互いに最も先鋭的な宗教原理の違いである論点、即ちシーア派の立場から彼は宗教規範(コーランなど)の解釈における唯一つの権利を有するのはイマームであって、スンニー派のように神学者が行うべきではないという論争を公の場でやってしまった。
当時アナトリア地方はスンニー派のルーム セルジューク朝が東ローマ帝国から占領していたので、法官につかまって、町を追放された。それからトルコとシリアの国境を越えて、アレッポ、ハマー、ホムス、パレスチナを通ってダマスカスに到着した。そこでトルコ人のキャプテンの騒乱でエジプトへの陸路が閉ざされたことを知って、地中海へ向かってベイルートから海路で、首都カイロに到着したのは1078年8月末であった。
さてここで当時シリアはファーテイマ朝の領土であったが、ペルシャを本拠地とするスンニー派の大セルジューク朝の尖兵として、セルジューク家の宗主権を認められたトルクマンの部族長アトスズがシリアに侵入していた。しかしファーティマ朝との戦いが膠着状態でらちがあかず、やむおえず大セルジューク朝第3代スルタンのマリク シャーは弟トゥトゥシュをシリアに派遣して、1078年に北シリアに入り、翌1079年トゥトゥシュはアトスズを処刑し、ダマスカスを自らの手中に収めてしまった。
従ってハサンは1077年から1078年半ごろは今話題の”イスラムIS”がクルド人の町を占領しているシリアとトルコの国境から南下してシリアのアレッポやラッカを経由してダマスカスを旅しており、その時にアトスズとファーテイマ朝との戦闘が繰り広げられていた可能性がある。またトゥトゥシュが1078年にシリアに入って、翌年にはダマスカスが陥落しているのでハサンとトゥトゥシュは首都ダマスカスですれ違っていたことになる。ハサンにとっては宗教指導国家ファーテイマ朝が自分の国ペルシャでも最大の宿敵国セルジュークに傍若無人に蹂躙されている光景を見たのかもしれない。ハサンは最初はカイロに、それからアレキサンドリアと合計3年間エジプトに滞在した。ここでも又ひと悶着が起こった。それはファーテイマ朝8代目イマーム ムスタンスイルの後継者が決まったのは1094年であるが、1078年ごろすでにこの問題が話題になっていた。当時ファーテイマ朝の辣腕で軍司令官から宰相になったバトル・アル・ジャマリは政治的な理由によりカリフに弟のムスタアリーを目論んでいたが、ハサンはシーア派の規範通り長男ニザールでなければならないと主張したため、宰相との間に確執が生じて投獄されて、エジプトから北アフリカへ追放された。そして1081年に帰路につくのだが、北アフリカで彼が乗っていたフランク人(中東に住んでいるヨーロッパ人)の船が難破したが、救出されてアレッポに来ている、アレッポはまだファーテイマ領土だったので、当然イスマイリ派の秘密本部のあったサラミーヤ、ホムス、ハマーを経由してダマスカスからバグダッドへ南下した。この時にはパレスチナ、イスラエルのエルサレムの情勢も知りえたであろう。
そしてアレッポ、バグダードを経由して同年6月イスファハーンにたどり着いた。
ハサンの旅を概観すると往路は交通機関が馬やラクダに徒歩だとしても約2年弱(1076/?-1078/8)というのは帰路が数か月で帰国していることを考えると異常なほど長い。
このことは先にも触れたようにセルジューク朝とファーテイマ朝の領土をめぐる初期の鍔迫り合いから本格的な戦闘に入る段階だったので、その状況把握もあったであろう。通過した地域の地理、民族、宗教、社会習慣などを調査する目的があったことはその後の彼の行動から容易に推測できる。帰路に通過したダマスカスでは既にトゥトゥシュの支配下にあり、隠密の旅に徹したのだろう。しかしその周辺地域ではトゥトゥシュとファーテイマとの領土争奪戦が継続中だった。
シリアでの宿敵セルジュークの攻勢に対して、劣勢に喘いでいる盟友ファーテイマ朝に接して、ハサンはイスマイリ派教徒の将来を考えるとシリアでもセルジュークと戦わなければならないと痛感したであろう。これらの政治状況からハサンはシリア進出の可能性を目論んでいた。 

2.シリアへ首席伝道師(ダーイー)派遣

2.1 1096年頃のシリアの社会情勢
  
 教祖ハサンは1096年頃シリアへ宣教師を派遣したが、ハサンは現地調査に基づいて、宣教師には細かな命令が与えられていた。特に住民をニザリ派に改宗させるにはどの領域の人々が有利なのかなどは最重要課題だった。当時の宗派情勢は1094年イスマイリ派のイマーム継承問題で分裂後、シリアのダマスカス、アレッポなど主要な政治経済都市のイスマイリ派教徒はことごとくムスタアリー派につき、ニザリ支持派はハマー北部などシリア中部の山岳地帯を中心にごく少数の小さなコミュニティに分かれて群れ集まる集団に過ぎなかった。
 当時のシリアはセルジューク朝トゥトゥシュが1079年にダマスカスを支配下に収めた後、1086年にはトルコのアナトリアを征服していたルーム セルジューク朝が北シリアの主要都市アレッポに侵攻してきた。これを迎え撃って敗走させて、アレッポまで勢力を広げた。しかしペルシャの大セルジューク朝スルタン マリクシャーの横槍で、一時アレッポを手放したが、1092年に兄マリクシャーが没するとトゥトゥシュはアレッポを支配していた大セルジュークの委託統治をしていた将軍を殺害して1094年アレッポの領有権を回復することに成功した。ところが彼は兄マリクシャーの死後、後継者問題で1094年に大セルジュークの新スルタンになった甥バルキヤールクを廃位させるべく戦ったが、翌年ペルシャのレイ市で戦死してしまう。彼の死後も息子リドヴァーンとドウカークは北シリアの勢力を維持していた。そしてリドヴァーンはアレッポを継承し、ドウカークはダマスカスを継承して総督として支配した。その結果父の築いたシリア セルジュークは二つに分割された。
しかし年若い彼らはお互いに不仲で、アレッポとダマスカスの政権の間には反目が続いた。
このようなセルジューク朝の歴史を俯瞰すると王朝の後継者問題で、その都度兄弟、親族間の内戦が繰り返されて、この現象はセルジュークの伝統的な祭ごととまで言われた。従ってハサンは宿敵セルジュークに対する戦略を立てる上で極めて判りやすい敵失を得ていたことになる。一方第一回十字軍の動きは1098年ブルゴーニュ伯ボードアンが東方のユーフラテス川上流部のエデッサに進軍し、エデッサ伯国を立てた。本隊は1097年から1098年にかけてシリア北部の大都市アンティオキアに現れて包囲されたので、アンティオキアのイスラム領主からの援軍要請で最初ダマスカスの君主ドウカークは将軍トウグデキンの援軍を送るが失敗して敗走した。その失敗を冷やかに見ていたアレッポ君主リドワーンは十字軍の略奪が自分の領内にも及ぶに至って、アンティオキアへ救援の兵を送るがこれも失敗してしまう。要するにシリア セルジューク朝のダマスカスとアレッポが一致団結して十字軍に立ち向かわなかったのである。アンティオキアは1098年6月に陥落してしまった。その結果アンティオキア公国が誕生して、主要な将軍の一人であるボエモンがここにとどまって領主となりボエモン一世となった。十字軍の本隊はレーモン・サン・ジルとゴドフロワ・ド・ブイヨンらに率いられてなおも南下し、1099年1月将軍タンクレデイも加わってファーテイマ朝と戦い7月にはエルサレムを解放した。その後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムの王となり、レーモンは海岸部のトリポリの伯となった。
 このように11世紀後半のシリアはラテン人の侵入と征服及びスンニー派トルクマン系民族セルジュークの侵略と支配を許した一方でカイロのムスタアリー派(旧イスマイリ派)のファーテイマ朝の衰退はシーア派、イスマイリ派、イスマイリ派の流れをくむアラヴィー派、ドウルーズ派のシリア人は脅威、落胆、社会的な混乱の中で、新たな指導者、救済者を求める期待感が高まってきた時代であった。
 ハサンがシリアに宣教師を派遣することを決めた1096年というのは、このような時代背景であったので、タイミングとしては誠に時流に合っていた。

2.2 初代首席宣教師(1096-1103)アル・ハーキム・アル・ムナッジムの歴史
 
1096年頃ハサンが派遣した最初の宣教師はペルシャ人でアル・ハーキム・アル・ムナッジム、つまり医者にして占い師として知られた人物であった。彼と彼の友人はペルシャからやってきて隠密にアレッポに住み着いていた。彼らの行動はハサンの指示に忠実に従っていた。まず先にも述べたニザリ派の小集団が定住していたハマー北部などシリア中部の山岳地帯に基地を構築して、周辺地域へ宣教を進めながら住民を改宗させてニザリ教徒の勢力拡大するというペルシャ方式で進めた。
シリアは昔から東西貿易中継基地で北のトルコは東ローマ帝国のギリシャ正教住民、西隣はパレスチナでローマカトリック教徒やユダヤ教徒、南はヨルダン、エジプトでアラブ系住民、イラクからはアラブ系住民(スンニー派アッバース朝)や中央アジアのトルクマン族(スンニー派セルジューク朝)、シーア派、ゾロアスター教のペルシャ人(アーリア系)などが移り住んできた。その結果シリアには極めて多くの宗教が混在して、お互いに影響し合って新しい宗教が誕生した。その中には教義や解釈でイスマイリ派に近いアラヴィー派、ドウルーズ派が存在していた。この辺の事情をハサンは旅の中で嗅ぎ取っていたに違いない。
そしてこれらの人々は有望な信徒の補給源と見なして宣教して改宗する対象になったのだろう。特にマスヤーフ、ホムスなど周辺の山岳地帯ジャバル バーラに定住する昔シーア派だったドウルーズ教徒、過激な思想に共鳴して分派したアラヴィー派(ヌサイル派とも呼ぶ)教徒などが対象とされた。ドウルーズ派とはイスマイリ派のファーテイマ朝第六代カリフ ハーキムを神格化し、受肉した神とみなすという極端な宗派になってイスマイリ派から分派した。1021年頃ハーキムが失踪(実際は死亡)するとエジプトのイスマイリ派の弾圧をうけてシリアの山岳部に逃げ込み、そこで布教の場を見出した。最大の特徴はハーキムの初代イマームで宣教師ハムザ・イブン・アリーが「復活の日」に救世主(マフデイー)として再臨して苦悩する民衆を救済する。コーランを用いずに独自の聖典をもち、礼拝の向きはメッカではない。またインド仏教のように人間が輪廻転生することを信じる。アラヴィー派はイスマイリ派やキリスト教にシリア地方の土着宗教が混合されたと考えられる独特の教義を持つ。女性に魂はないとされるため、教義は男性のみのサークル内の秘伝とされ、イスラム教神秘主義宗派の色彩が強い。この派も人間が輪廻転生するが、人間以外の動物にも生まれ変わることもあるとしている。
現在シリアのアラウィー派は人口の1割強にすぎないが、シリア大統領ハーフィズ・アル・アサド、父バッシャール・アル・アサド父子をはじめとしてバース党や軍部の有力者を数多く輩出している。
このようなシリアの政治社会情勢で、初代首席宣教師としてアル・ムナッジムはシリア セルジューク朝の総督リドヴァーンが支配する大都市アレッポに赴任した。先にも触れたようにシリア セルジューク朝は兄弟がお互いに反目して、執政の基本的な政治理念が統一されていなかったので、即位時のリドヴァーン政権基盤は脆弱だった、更に十字軍の侵攻もあり市民の支持を得るために金曜礼拝の説教の初めに神の名と主権者の名前をとなえる(フトバ)時に、本来なら君主リドヴァーンのスンニー派アッバース朝カリフの名前をとなえるべきところを多くの市民が属する旧宗主国ファーテイマ朝カリフの名前を使うことを許可した。この英断は君主のスンニー派教徒としての信仰心に大きな疑問を投げかけるものだった。当然アレッポに住むスンニー派教徒の支持を失う結果となった。また当時スルタン後継争いで衰退していた大セルジュークの政治的な命令は全く無視されていたので、リドヴァーンの政治姿勢は周辺国、大セルジューク朝のモスル国やアナトリアのルーム セルジューク朝と内部抗争のために十字軍と同盟したり、ペルシャから来たニザリ派教団に心酔してその保護者となり、かれらの言うなりになったと言われている。
 初代ニザリ首席伝道師の暗殺歴はシリア人の年代記者によるとニザリがアレッポに移住してから7年目の1103年5月に起こったある暗殺事件である。それはホムスの支配者ジャナーフ ウッダウラがその町の大モスクで金曜礼拝に出席していたが、神秘主義イスラム教スーフィー教団の僧を装った数人のペルシャ人たちが彼らの中の長老の合図によって、突然一斉にウッダウラに短剣で襲い掛かり殺害した。この乱闘でウッダウラの他に数人の将校が巻き添えになり殺害された。襲撃したペルシャ人はすべてその場で捕えられて殺された。シリアのニザリ教団(暗殺教団)の最初の事件が神聖な寺院での祈りの場面で起こった凄惨な暗殺だったので、センセーショナルな話題となった。
当時の年代記者たちは、ウッダウラはリドヴァーンの敵であったので、この事件はリドヴァーンがニザリに殺害を依頼して、アル・ムナッジムが請け負ったと認識されていた。そして詳しい記事を残している。
君主リドヴァーンがアル・ムナッジムにウッダウラの殺害を依頼したということはすでにお互いが同盟関係にあり、最初に触れたリドヴァーンの対ニザリ派教団に対する友好的な関係がこれで証明された。さらにこの事件でアレッポでのニザリ派教団宣教活動、その他の活動の基地とすることを許されていた事が明らかになった。
この医者にして占い師アル・ハーキム・アル・ムナッジムはこの事件の2,3週間後に死亡した。そして次の首席伝道師を引き継いだのがペルシャ人の金細工師アブ・ターヒル・アル・サーイグであった。

2.3 二代目 首席伝道師(1103-1113)アブ・ターヒル・アル・サーイグの歴史

 アブ・ターヒルは引き続きリドヴァーンからアレッポでの活動の自由と支援を得ていたようである。この様な同盟関係の下で政治的に安定していた。アブ・ターヒルはハサンからの指示命令もあったのだろう。徐々に彼等はペルシャ方式で宣教師による地域住民のニザリ教への改宗活動の基盤として、要塞の獲得に積極的な乗り出した。この活動を始めるにあたって、アブ・ターヒルが採用した方程式はペルシャにおけるハサンの戦略を見習った。
それは次の三つである。
1. 住民にシーア派、イスマイリ派が浸透していること。
2. 都市から遠く離れて古い伝統的な生活習慣が残り、セルジューク朝に不満を抱く人々の地域。
3. 容易に接近できない急峻な山岳地帯で天然の堅牢な要塞の存在。
アブ・ターヒルはこの三つの条件を満たす地域として狙ったのがジャバル スンマーク及びジャバル バーラ(地図3)と呼ばれるアンサリーヤ山脈、レバノン山脈の急峻な山岳地帯であった。
 この山脈はシリアの北西にあり、地中海沿岸と並行して南北に走っている。山脈の平均幅は32km平均の高さは1200m少し超える程度。最高の山がナビ ユニス岳1562mである。それはラタキアの東よりにある。先にも述べたように、この山脈には昔からドウルーズ教徒やアラヴィー派(ヌサイルとも呼ぶ)教徒が定住しているところであった。
 項目3の条件を満たす要塞は次のような経緯で見出された。
アブ・ターヒル達はハサンから現地情報を集めていたところ、願ってもない良いニュースが入って来た。
それがアファミーヤ城であった。現在城の遺跡は確認されていないが、ルイス著”アサシン”によると地図?に示す位置にある。この城の城主はハラフ・イブン・ムラーイブという昔はイスマイリ派教徒だったが、1094年のイマーム継承で分裂したので、現在はファーテイマ朝のムスタアリー派教徒であった。この宗派はハサンのニザリ派とは敵対関係にあった。そしてムラーイブはこの城をリドヴァーンから1096年ごろに奪い取ったものだった。彼はこの城を基地にして、周辺の地域から強盗、略奪を働いていた。この1096年という年は先述したようにヨーロッパからの第一回十字軍のパレスチナへの侵攻があり、社会が不安定であった。即位時のリドヴァーン政権は軍事力も弱く、城を窃盗団に奪われたのも無理はない。
そして1106年に次のような巧妙な戦いによって、ニザリ派は首尾よくこの城を獲得に成功した。
アブ・ターヒルは城主ハラフを殺害して、城を奪う計画を立てた。ハマー北部などシリア中部の山岳地帯を中心にサラミーヤ、アファミーヤなどにはごく少数のニザリ派教徒が小さなコミュニティを形成して定住していた。最初にアファミーヤ周辺に住んでいるニザリ派コミニテイ出身の判事であり指導者でもあったアブル・ファトフという人物に計画を密かに内通して了承を取り、計画追行の協力を確約した。1106年アブ・ターヒルは6人の刺客をアレッポから計画実行のためにアファミーヤへ派遣した。彼等はその道中で、中東シリアに定住している西洋人(フランク人)から馬、馬装備品、槍と甲鎧などを手に入れてアファミーアに現れた。
そしてハラフに次のように伝えた。 
「我々はあなたに仕えるためにやってきた。フランク人騎士から馬と馬具装備品、並びに槍、甲冑などを奪って持参した.」ハラフは彼らを手厚くもてなして、アファミーア城の城壁に接する一軒の家に住まわせた。さっそく彼らはその城壁に穴を開けて、アファミーア城で仕えていたニザリ派教徒がその穴から入ってきて、刺客と密会を始めた。そして彼らは1106年2月3日にハラフを殺害してアファミーア城を奪ったのである。しかもその直後に親方アブー・ターヒルが自ら城や街を管理するためにアレッポからやって来た。
しかしこの状況を初め静観していたアンテオキア公国の摂政タンクレッドは従来通りニザリから貢物を徴収するだけで町、城の領有には不干渉であったが、その年の9月に急に彼は軍隊を派遣して、ニザリの城や町を閉鎖してしまった。これまでもニザリは十字軍のホスピタル騎士団やテンプル騎士団には煮え湯を飲まされてきたので年貢を支払って戦闘避けてきた。その理由は刺客を送って騎士団の将軍、司令官を暗殺しても、直ちに別の適切な人物がそれにとってかわるので、一向に効果がないことを知らされた。刺客を無駄に失いたくないために騎士団には逆らわないとニザリは決めていた。それで今回もニザリはここでも黙って引き下がるしかなかった。おまけに先の地元判事で協力者だったアブル・ファトフとニザリの密約をタンクレッドは察知していたらしい、ニザリを抑え込むために判事の兄弟の一人を捕虜にして、親方アブー・ターヒルの前に現れた。判事もアブー・ターヒルとその仲間たちも捕虜になったが、判事だけは拷問を受けて殺害され、ニザリは身代金を払ってアレッポに戻ることが許された。
こんな十字軍との屈辱的な敗北に遭遇してもニザリは戦う相手としてセルジューク朝から十字軍国への転換にはならなかった。ペルシャの教祖ハサンはまだ健在だったので、彼の主導する戦略があくまでもスンニー派セルジューク朝との戦いであり、シリアのニザリは変更を許されなかった。だから十字軍のような強力な軍隊とは毎年貢物を支払っても事を荒立たせず、もっぱら奪える強固な要塞を見つけては、それを奪い取って戦闘基盤の確立を急いだのである。
1113年ニザリはシリアにおける二番目の野心的な事件に関わり成功を収めた。
この事件も実は前回の金曜礼拝と同様にシリア セルジューク朝とペルシャ大セルジューク朝との権力の確執によるものであった。
 二代目首席伝道師の最初の暗殺事件の背景を伝記記者は次のように伝えている。
ペルシャの大セルジューク朝はシリア セルジューク朝の対十字軍との戦闘を支援するという目的で、1111年将軍マウドゥードとその軍隊をシリアへ派遣した。ところがシリア セルジューク朝君主リドヴァーンは彼の軍隊がアレッポに到着した時町の門を閉じて、反抗の意思を表明した。そしてニザリに支援を要請して、彼らも集められた。この援軍の派遣は表向きシリアのイスラム教徒を応援する名目のもとで、実はシリア領を大セルジュークの支配下に置き換えようとする策略が隠されていた。
だからこの大遠征団の到来はリドヴァーンだけではなく、ニザリも脅威に受け止めたことは当然であった。そして遂に1113年リドヴァーンは将軍マウドゥードの暗殺をニザリに依頼して、同年モスルに本拠地を構えていた将軍をダマスカスで暗殺することに成功した。
この事件の成功はニザリをシリア セルジュークの力強い協力者として認められたが、1113年末に彼らの同盟者であり、協力的でもあったリドヴァーンが死亡した時から状況が徐々に暗転に向かった。
103年の金曜礼拝での暗殺事件、1111年にペルシャからやって来た反ニザリ派を公言した資産家の暗殺未遂事件、今回の請負事件とアレッポの民衆にとってニザリの行動は陰険で不安を煽る危険な集団であると見なされていた。
一方リドヴァーンの後を継いだ息子のアルプ アルスランが即位した。ところがこの新君主は情緒不安定で、気性が激しく理性的な判断が出来ない人物だったようだ。最初は父の政策を踏襲して、ニザリの要望に応えてバグダード街道沿いの城を譲り渡すなどリドヴァーンと同様に彼らの言いなりになっていた。
ところがリドヴァーンの死後、ペルシャの大セルジュークのスルタン ムハンマド タパルからの一通の書簡が状況を一変させた。
その内容はニザリ派は極めて狡猾な手段を駆使する極悪非道な集団であると警告し、ただちに撲滅するように勧告した。それを受けてアルプ アルスランは法治官アル ハシャーブや将軍ルウルウに命じてニザリ派教徒が十字軍と密通しているという理由で粛清を命じた。その結果ニザリのダーイー アブー・ターヒル及び前ダーイー医者にして占い師の兄弟、およびアレッポのニザリ派の指導者たちを殺害した。その他にも投獄したり、財産を没収されて200人ほどが逮捕されたり釈放されて、国中に四散した。
アルスランは更にニザリ派に好意的だったリドヴァーン派官僚までも粛清が始まり、最後には自分の気にいらない者をすべて処刑し始めた。ルウルウは翌年この狂人を就眠中に暗殺して廃位し、弟のスルタンシャーが即位するが幼少で、1117年ルウルウが暗殺されるとアレッポは大混乱に陥った。法治者ハシャーブは急遽後継者を探してエルサレム総監アルトウクの息子で現在のトルコ領の町マルデインの総督をしていたイル ガーズイーを選んでアレッポに招きリドヴァーンの娘と結ばれてアルトウク朝がアレッポの政権を引き継いだ。この時点でシリア セルジューク朝アレッポ政権は消滅した。アルトウク朝君主イル ガーズイーはアレッポとトルコ領マルデインを統治していたが、1122年に没すると引き継いだのはイル・ガーズィーの甥ヌールッダウラ・バラクであった。ところが1124年にはオデッサ国王伯ジョスランと戦って負傷した後亡くなった。同年その後を引きついたイル ガーズイーの息子ティムルタシュは十字軍と同盟してアレッポに迫る旧シリア・セルジューク朝アレッポの君主スルターン・シャーを避けてアレッポを見捨ててマルデインに引き上げてしまった。法治官アル・ハシャーブは再び後継者探しに没頭して、今度は現在のイラク北部モスルの総督アル・ブルスキを連れて来てアレッポをモスルに併合して統治させた。
一方アレッポのニザリの受けた粛清は致命的な痛手と受け止められたが、実は意外にもアブー・ターヒルが派遣したニザリ派伝道師の布教活動が地方で効果を現して、特にジャバル アル スンマーク山岳とジャイザル町のウライム族の土地即ちジャイザルとサルミーン(地図4参照)の中間に位置する戦略上重要な地域のドウルーズ教徒やアラヴィー派教徒からのニザリ派への改宗者を多数獲得することに成功していた。
それを証明する事件が起こった。それは1114年春にはアファミーヤ、サルミーンの地域から集まった約100名のニザリ派教徒からなる一部隊がシャイザル町のモスレム要塞をキリスト教の復活祭で見物で留守になっている隙にその要塞を奪った。その後彼らの反撃で要塞は明け渡して追い出されたが。
1124年にはアレッポのイル ガーズイーの後継者ブルスキと法治官ハシャーブはアレッポに在住していたニザリの首席伝道師(ダマスカス在住)の代理人を逮捕して、ニザリ派信徒たちを町から追放されたので、彼等は自分の財産を売り払って立ち去るという事件が起こった。

2.3 三代目 首席伝道師(1113-1128)バフラームの歴史 

アブー・ターヒルの後継者に座ったのがバフラームである。
バフラームの経歴は前任者と同じくペルシャ人であった。1101年にバグダードで処刑されたアル・アサダバーデイーの甥である。アル・アサダバーデイーという人物は1092年に就任したペルシャの大セルジュークのスルタン バルキヤールクに仕えていた優れたニザリ派教徒で官僚であったが、公務のためにバグダードへ派遣されていた。このスルタンの時代は前スルタン マリクシャーの異母兄弟で後でスルタンになるムハンマド タパルとの内紛で混乱していたために、教祖ハサン サバーフが指導するニザリ派教徒はタキーヤの原理によって(即ち自分の信仰を隠匿して相手の信徒を装って)敵対陣営に深く侵入して、公務、事務、兵役などに仕えて、敵の情報や戦略を盗み取り、暗殺決行には刺客の手助けをするというスパイ集団が大手を振って大セルジューク内を闊歩していた。従ってアル・アサダバーデイーもそのようなスパイの一人であった。1100年にバルキヤールクはムハンマド タパルに勝って一年後の1101年ようやく陣内のスパイのニザリ派教徒を追放した。
バルキヤールクはニザリ派教徒の逮捕殺害の命令をイラクの陣営にも発令したので、バグダードに派遣されていたアル・アサダバーデイーは拘留された後殺された。看守たちがこの男を殺しに来たとき、彼らに向かって言い放った”いいだろう 今僕を殺すことは。だがお城(アラムート)にいる人々も殺せると思っているのかい!”と。
このような叔父の血統を引継いだのがバフラームである。
1111年頃のペルシャ、イラクでのニザリ派の環境はニザリ派に少し甘かったバルキヤールク(1094-1105)から敵対姿勢を鮮明にしたムハンマド タパル(1105-1118)の時代を迎えていた。
バフラームはペルシャからシリアへの旅に当たり、日頃の暮らしぶりも気が滅入るほど控えめな生活に徹した。そのために誰からもその正体を気づかれることなく、町から町へ、城から城へと旅することが出来た。
シリアに入ったバフラームは1113年に殺害された首席伝道師ターヒルの後継者となった。
ニザリ派の活動拠点をアレッポから南部に移す過程で、バフラームは1117年頃にアレッポのアルトウク朝君主イル・ガーズイーと何だかの同盟を結んで彼と友好関係を築いた経緯があったらしい。そして最後にダマスカスに拠点を構えて、新たな活動に関与する役割を担うようになった。
この頃のダマスカスのシリア セルジューク朝は君主ドウカークが1104年に既に死亡していたので、1歳の息子やドウガークの弟を立てて、ドウカーク時代から執務に携わっていたアタベク(後見人)のトゥグテギンが執政を担っていた。しかし息子は幼児だし、弟はトゥグテギンの権勢を恐れてバグダッドから逃亡したので、この時点でシリア セルジューク朝ダマスカス政権は消滅した。そしてトゥグテギンはブーリー朝を建国して、ダマスカス政権を確立した。
1119年7月28日イル・ガーズイーとトゥグテギンは同盟を結んで、アンティオキア公国軍とサルマダの平野で会戦して大勝利を収めた。この会戦にニザリが参戦したという記録はないのだが、1120年頃からバフラームはイル・ガーズイーと対十字軍との関係で同盟を結んでいた形跡がある。
この様な状況の中で、最初にニザリ教団がダマスカスで関与した事件がつぎのようなものであった。
1126年1月に首席宣教師バフラームとトゥグテギンとの間に最初の軍事同盟を結んだという報告が現れた。その内容は勇気と武勇で名高いホムスとその周辺に定住していたニザリ派教徒たちがトゥグテギンの部隊と合流して十字軍に攻撃をしかけたが不成功に終わった。
第三代目ダーイーの暗殺履歴の最初の暗殺事件は同じ1126年11月にイラク北部のモスルの大モスクで起こしたモスルとアレッポ政権の君主アル・ブルスキ暗殺であった。この事件の後に法治官ハシャーブもニザリによって暗殺された。先述したようにイル・ガーズイーがアレッポを去った1120年以降アル・ブルスキが引き継いでハジャーブと共にアレッポとモスルの政権を担っていた。この暗殺事件の背景は1113年にシリア セルジューク朝アレッポ政権がニザリ派に対してで行われた大規模な粛清と1124年のアル・ブルスキとハジャーブの行ったニザリ派のアレッポ代理人の逮捕、その教徒の追放事件の報復と年代記者はみなしていた。しかしダマスカスのブーリー朝君主トゥグテギンはアレッポやモスルを支配下に治めたい下心があったとしたら、彼の暗殺要請が考えられる。
今回の事件は8人の刺客が苦行僧に変装してモスルの大モスクで礼拝中のブルスキに襲い掛かり短刀で刺し殺した。刺客の数人はシリア人であった。
この事件に関して次のような話が歴史家によって伝えられている。「この刺客8人の中で、たった一人だけ傷もつかずに逃れたアレッポの北方、アザース地方出身の青年がいた。彼には年老いた母がいたが、彼女はブルスキ殺害に成功して、彼を襲った人々はすべて殺されたことを聞いたとき、息子が彼等の一員であったことに誇りを感じて、自分の瞼にコール墨を塗って歓喜に浸っていた。ところが2,3日後に息子が無事戻って来たことを知って、彼女は悲嘆にくれて、髪をかきむしり表情がすっかりやつれて生気を失った。」
この老婆の殉教に対する受け止め方は1980年代のイランでも同じ現象が見られた。イラン送電線建設プロジェクトで雇用されていた技術者が1979年のイラン-イラク戦争に志願して出兵した時に、聖戦への思いとして、聖戦で命を落とすことは名誉なことで、落命することを一切恐れるものではないと語っていたことを思い出される。また新聞紙上に毎日のように戦死した兵士の告示と葬儀の内容は殉教の死を偉大な英雄の死として崇められ深い尊崇の念で葬られた。
また無事に帰還しても、この老婆ほど極端な変貌は見せないが、太平洋戦争の敗戦直後,帰還した傷病兵が路上で物乞いする姿をお国のために生命を投げ打って苦闘の末帰還した英雄と見なされて然るべきところ、実際は敗戦の恥さらし的な冷めた目で見られていた。またごく最近自分に賛同できないある老練な政治家を特攻隊で死に損ないの帰還兵隊と呼んだ50歳ぐらいの商人風の男性に出会って驚かされた。このような風潮よりはかなり暖かい受け止め方だった。当時のイラン国民は日本の映画”おしん”と”特攻隊”の話に強い関心を抱いていた。
イスラム教国の中でも特に田舎のイラン人はジハード(聖戦)という旗を掲げて戦う時は教徒の信心深さ、気性が真面目で一本気、単刀直入な行動に突っ走る傾向があり、その気になると非常に怖い。
1126年という年はニザリにとって非常に忙しかった。1月のトゥグテギンとの軍事同盟で、十字軍との戦い、11月のモスルのブルスキ、ハジャーブ暗殺事件、そして最後にトゥグテギンとの十字軍との参戦による報償交渉であった。この時ニザリ派の首席伝道師 バフラームは1118年頃アレッポの君主になったイル・ガーズイーの推薦状(1122年にガーズイーは没しているので、後継者イル・ガーズィーの甥ヌールッダウラ・バラクの推薦状だろう)を持ってトゥグテギンの宮廷に現れた。そこで彼はトゥグテギンから申し分のない待遇を受けて迎えられて、公的な保護のもとに権力ある地位を得た。ニザリ派のいつもの戦術に従って、一つの城を要求した。それに対してトゥグテギンはエルサレムのラテン王国の近くにあるバニヤース城(地図3、4参照)を譲り渡した。これだけではなく、ダマスカス市内にも宮殿とか伝道館などと言われた建物を与えられ、そこを彼らの本部として役立てた。トゥグテギンがニザリと同盟を結んで不成功に終わった十字軍との戦いの報償にこれほどのを与えたことにシリアの年代記者は違和感を感じていた。それには何か裏があると感じたのだろう。トゥグテギンはもともとニザリ派には否定的な態度であった。
しかし1117年以降でバフラームがアレッポの君主イル ガーズイーと何だかの結託の経緯があったのではないか、更に今回彼にとって敵対関係にあったモスルとアレッポのブルスキを暗殺してくれたニザリを悪からず思っていた可能性があり、この推薦状を書かせた事をトゥグテギンは重視したのだろう。望外な報償への圧力になった可能性がある。先述したイル・ガーズィーとトゥグテギンは1119年に軍事同盟して、アンティオキア公国軍とサルマダの平野で会戦、大勝利を収めた。 従ってトゥグテギンにとって戦友の推薦状は内容がどうあれ、重視せざるおえなかった。トゥグテギンの宰相アル マズダガーニーはニザリ派教徒ではないにもかかわらず、彼らの要望に積極的に応じて、いささか過分な報償をニザリ派に譲り渡した。これは明らかに宰相がトゥグテギンの指示に従ったのか、それともニザリ派と共謀した結果なのか、年代記者は後者とみなして、宰相は君主の背後で裏切り行為をする人物だと伝えている。
 バニヤース城は地中海に突き出た港湾に囲まれた山稜にあり、海岸からの攻撃は不可能に近いが、内陸側からの攻撃に対処するための防御強化をはかったのだろう。本拠地マスヤーフ城、カドムース城、ホムス市など重要なニザリの戦略拠点が港町バニヤースまで街道によって結ばれていた。バフラームはバニヤース城を防衛強化のために増改築して、周辺地域への伝道活動、軍事活動に乗り出した。そしてこの城から彼は四方八方に宣教師を派遣して、その地域の住民を改宗させて味方につけた。ニザリ派が勢力を拡張するのに好都合な地盤と見なしていたハスバイヤ地方のワデイ ウダイム(地図3)にはニザリ派に好都合なドウルーズ派、アラヴィー派、その他ベドウイン族の住民が住んでいた。1128年その地域の首長であったバラク イブン ジャングルという男が何か裏切り行為で逮捕されて殺された。その後首長が不在の隙にバフラームとその軍隊がこの地域を占拠してしまった。ところが殺された首長の兄弟は兄の殺害はバフラームだったと疑われて、彼らは復讐を誓って、その領地を占拠したニザリに攻撃を仕掛けた。この相手が意外に強くて、ついにニザリは敗北してバフラームは戦死した。 

2.4 四代目 首席伝道師(1128-1130)アル・アジャミの歴史

 バフラームの死後新たなニザリ派ペルシャ人アル・アジャミが現れて、バニヤーズ城の指揮権を継承してバフラームの政策、活動を継続した。ブーリー朝のトゥグテギンの死後後継者として彼の息子タジ・アル・ムルク・ブーリーによって宰相に留まったアル・マズダガーニーは相変わらずニザリ派への援助を継続していた。
しかしブーリーはこの宰相とニザリ派教団をダマスカスから排除する好機をうかがっていた。それは丁度1113年にアレッポで起こったニザリ派粛清の事件と全く似たようなニザリ派排斥運動がダマスカスでも巻き起こった。
1129年ニザリ派教団がエルサレム王ボードワイン二世と共謀して、ダマスカスを占拠するというダマスカス占拠作戦に加わったことがブーリーに察知されて、この占拠作戦は事前に阻止された。しかし同年、ブーリーは再度ダマスカスを攻略しようとするエルサレム王をはじめとする十字軍諸国連合とテンプル騎士団の連合軍と戦ってこれを撃退し、ニザリ派と西洋人による最大の危機を乗り切った。この事件をきっかけにダマスカスのニザリ派の大規模な粛清が行われた。
ニザリへの粛清の様子をバーナード ルイス著”アサシン”によると「ここでもそのイニシアチブを発揮したのはニザリ派を日頃から敵視していた宰相の敵の一人で、ダマスカスの長官ハサン・イブヌル スーフイーであった。
この長官と軍事司令官ユーセフ・イブン・フィールーズにハッパを掛けられたブーリーはニザリ派を攻撃する準備をさせた。
そして1129年9月4日に彼らは決行して、まず宰相を接見すると言って呼び出して君主ブーリーの命令で殺され、切り落とされた首は公衆の面前に晒された。この知らせが広まると市民軍や群衆がニザリ派教徒を襲って殺傷したり強奪したりした。翌朝までダマスカスの町や街路からニザリ派教徒は一掃された。ある年代記者はこの暴動で殺されたニザリ派教徒は6,000人とか1万、2万人といった諸説が伝わっている。この後ニザリ派の首席伝道師はバニヤーズ城をこれ以上維持できないと判断して、フランク人(中東に定住する西洋人)に明け渡して、彼はフランク人の領地に逃げ込んだ。
そしてこの伝道師アル アジャミは1130年にそこで没した。 

2.5 五代目 首席伝道師(1130ー1168)アブ・ムハンマドの歴史

 ブーリーと彼の幹部はニザリ教団からの報復を恐れて、甲冑を身に着けたり、周囲を重装備の護衛たちによって取り囲んで、入念な警戒体制を敷いたが、その甲斐もなかった。
 シリアのニザリ派組織は当然一時大混乱に陥ったが、このニュースを受け取った当時の君主の所在地はペルシャのルードバール地方のラミアサール城であった。この城のニザリ派自治領国家の君主ブズルク ウンミードは報復のために刺客をダマスカスに送り込んだ。
 その報復は1131年5月7日トルコ人に変装してブーリーに仕えていた二人のペルシャ人(ニザリ教徒がスパイで潜伏していた)が彼を襲った。彼らの名前はニザリ派教団の教祖ハサン サバーフの本拠地アラムート城の中に秘蔵されていた暗殺名簿録の中に記録されている。この刺客たちはその場で直ちに護衛によって殺されたが、ブーリーはその傷がもとで翌年死亡した。
 この暗殺計画は成功裏に終わったが、これ以降ニザリ派教団はダマスカスでの地位の回復は出来なかった。
 この1129年のダマスカスでの大ニザリ粛清後、シリア ニザリ派教団は首席伝道師アル アジャミの後継者アブ・ムハンマドのリーダーシップで、ただちに再組織化された。そしてニザリ派のシリアにおける第三期に当たる次の20年間の活動は都市から離れて、もっぱら要塞基地を獲得することに専念して首尾よく目的を達成された。その舞台は最初の展開されたジャバル スンマークから南西に位置する山岳地帯のジャバル バーラ(現在のジャバル アンサリーヤ)であった。(地図4参照)ここはアラヴィー派教徒が定住している地域で、彼等はニザリにとって小さいが戦略的に有利な要塞を多く所有していた。十字軍がジャバル バーラに自分たちの足場を構築することに失敗したタイミングに、アブ・ムハンマドはこの地に潜行した。そして1132年から33年にかけて、領地アル カーフのモスレム君主は1131年フランク人から取り戻したカドムースの山塞を1132年にニザリに売り渡した。このカドムース城はニザリにとって重要な拠点となり、アブ・ムハンマドの居住地で、ここから周辺地域への支配権を拡大した。それから2,3年後の1134年頃には領地アル カーフの君主継承を巡る親族間の抗争で、彼の息子は領地が従兄に渡るのを嫌って、領地アル カーフをニザリに売り渡した。また1136年には隣接するカーリバ城のフランク人守備隊を地方のニザリ隊が追い出してしまった。ニザリにとって最も重要な要塞マスヤーフ城は1128年にムンギヅ族によって一旦買い取られていたが、この人々によって任命されていた知事からニザリは1140年に再び奪い返していた。
この城はハマー市の西方40㎞に位置して、ニザリにとって、その規模と戦略的な築城構造から屈指の要塞だった。従ってシリア ニザリ教団の本拠地となって、首席伝道師が常駐するようになった。その他のカワビー城、ルサーファ城、マニカ城、ウライカ城という諸城も同じ頃に獲得したようだが、その手段、時期は詳しくは知られていない。ニザリがマスヤーフ城を獲得して2年後の1142年トリポリ伯国の伯爵がジャバル バーラの南の端にあるカラクの砦(地図3参照)を十字軍のホスピタル騎士団に譲るとしていた。
 ところがニザリは以前から本拠地として占領したいと思っていたので、十字軍の手中に入る前に関与しなければならないという場面で軍の命令が下された。そして1142年から45年頃まで十字軍とニザリはその砦を巡って戦っていた。
 更に両者は1151年にマニカ城を巡っても戦っている。
 1152年にはトリポリ伯国伯爵レーモン2世がトリポリの城門近くでニザリによって暗殺された。この人物がニザリによる西欧人の最初の犠牲者であった。(バーナード ルイス著 アサシン) 
 この暗殺の原因は1142年レーモン2世はザンギー朝のダマスカスやアレッポの軍隊に国境を侵されていたので、自国防衛のためにホスピタル騎士団の勢力を利用しようと、ホムスから地中海に点在する多くの要塞を彼らに寄付した。更にこれまでの十字軍との戦闘でニザリは敗北あるいは劣勢により和睦を求めて、テンプル騎士団に和解と和平維持のため長い間年貢の支払を余儀なくされたことを示唆しているとある歴史家は述べている。
 1157年に至ってもニザリは十字軍と平和的な関係ではなかった。シャィザルの町(地図3参照)はニザリの領地ではなかったが、十字軍の攻撃から守ろうと領主を応援していた。
 なぜ援軍を送ったかの理由として、この領域は多くのアラヴィー派、ドウルーズ派、改宗したニザリ教徒が定住していたことがだったと思われる。
 この時代のニザリの活動はレーモン2世暗殺以外は十字軍との城に絡む小規模な戦いだけで、地固めに徹していた。外部の世界にはほとんど影響を与えていないので、年代記者の記録には際立った事件は何も残されていない。ただアブ・ムハンマドがニザリの宣教師として有名になった話は1132年カドムースの山要塞をモスレム君主から買い取ったこと。シリアのニザリで最も大きな功績をもたらした首席宣教師 スイナーンが着任する前のダーイーだったということぐらいだ。その他には1148年にザンギー朝(スンニー派)の君主ヌール・アッディーンがアレッポにおけるシーア派のモスクの金曜礼拝の中で、これまで使われていたフトバ(教徒に呼びかける説教の初めに神の名と主権者の名前をとなえる)の使用を禁止した。これは明らかにスンニー派以外の異教徒への嫌がらせであり、これは異教徒に対する公然とした宣戦布告と受け止められた。そして1149年ニザリ教団のクルド族指導者アリー.・イブン・ワフラーはアレッポの君主ヌール・アッディーンに一矢報いるためにアンテイオキア公国のラテン王 レーモン・ド・ポワティエと同盟して、西欧人の軍隊に参加して、イナブ戦場で戦功を挙げたと伝えられている。しかしポワティエはこの戦いで敗れて戦死している。
 この時期のニザリ教団の暗殺記録は次の二つであった。第三代目首席伝道師バフラームは1128年ワーデイー ウッダイム領地(地図3参照)の所有権で、この領地の前首長バラク・イブン・ ジャングルが別件で逮捕処刑されたことをニザリがやったと誤解して激怒した彼の弟ダッハーク・イブン・ジャンダルがニザリ派に戦いを仕掛けて善戦し、ニザリ派が敗れて、バフラームはこの時の傷で没した。この報復としてアブ・ムハンマドは1149年ワーデイー ウッダイムの首長ダッハーク・イブン・ジャンダルを暗殺した。二つ目は先述したトリポリ伯国の伯爵レーモン二世の暗殺であった。この時期(1146-1168)におけるザンギー朝(アレッポ)、ブーリー朝(ダマスカス)とニザリの関係はこれも先に述べたフトバの件でアレッポの君主ヌール・アッディーンに対して戦った以外は、あまり大きな摩擦は起こされていなかった。

3.六代目 首席宣教師(1168-1193)ラシード・ウッディーン・スィナーンの歴史

3 .1 スィナーンのニザリ派への改宗とシリアへの旅

 
 満を持して登場するのがシリアのニザリ派教団の自治領国家建設を成し遂げたダーイー ラシード・ウッディーン・スィナーンである。バスラの近くでワースイトへ行く途中の街路上にあるアクル アル スダン村で生まれた。彼の父は錬金術師とか学校教師とか言われたが、彼自身の言によればバスラ市民の指導者の息子だと言われている。当時のシリア人著述家がスイナーンを訪れて直接会話した事柄を記述しているが、その中で彼の前歴、受けた教育、シリアへの使命の詳細を次のように語っている。「私はバスラで育てられた。父はそこの名士のひとりであった。このニザリ派教義が私の心に入り込んだとき、私と兄弟達との間に生じた何かが、私に彼らと別れることを余儀なくさせた。そこで私は食糧も馬も持たずに出てきた。私はアラムート(ニザリ派の聖地、ギーラン州のガズヴィン市の北東60㎞ほどにあるエルブールス山脈の南側に突き出た支脈ハウデガーンの先端の単独峰アラムート城)に向かって前進して遂にたどり着いた。その君主キヤー・ムハンマド1世であり、彼にはハサンとフセインという息子がいた。君主はスイナーンを息子と同じ学校に入れて、彼らと同じような扶養を施してくれた。君主が没し、息子のハサンがその後を継ぐまで、アラムートに留まっていた。ハサンは私にシリアへ行けと命じた。かってバスラを旅立ったように出発し、ほとんどどの町にも近寄らなかった。ハサンは私に幾つかの命令と書状を与えてくれた。私はモスルに入ると、大工たちのモスクで休息し、その夜はそこに泊まった。それからどこの町にも入らずに前進して遂にラッカに到着した。私はそこにいる一人の仲間に宛てた書状を持っていた。それを彼に手渡すと、彼は私に食糧をくれて、アレッポまで一頭の馬を借りてくれた。アレッポに着くとそこでもう一人の仲間に会い、彼にもう一通の書状を渡した。すると彼も私にのために一頭の馬を借りてくれた。そしてカーフまで送らせた。私に対する命令はこの城に留まる事だった。そして私はそこの伝道組織の長シャイフ・アブー・ムハンマドがこの山で死ぬ(1168年)まで、そこに滞在する事だった。彼の後はアラムートからの指示がないまま、一部の仲間の合意によって、ホージャ・アリ・イブン・マスードが継いだ。その後シャイフ・アブー・ムハンマドの甥アブー・マンスールとファフドの二人の幹部が共謀して、人を遣って浴室を出ようとしたホージャ・アリ・イブン・マスードを刺し殺させた。指揮権は結局彼らの合議に委ねられることとなり、殺害者たちは逮捕され投獄された。その時、その殺害者を処刑して幹部のファフドを釈放せよという命令がアラムートから届いた。それとともに、一通の託宣と、それを仲間に読み上げるようにという命令が届けられた。」
 アラムートでハサン二世が1162年に君主に就任した同じ年にスイナーンもシリアのニザリ教徒の前に現れた。

3.2 スィナーンはどのような人物だったのか

 スイナーンは人々に神秘的な印象を抱かせるために、いつも木目の粗いドレスをまとい、決してそれ以外の服装はしなかった、また食べる、飲む、眠る、つばを吐くなどの姿を他人に見せないように努めていた。
丁度キリストの山上の垂訓と同じように、スイナーンも岩の頂上に立って、日の出から日暮れまで、人々に説教した。そして次第に彼を人知を超えた人物であるという評価を領民に抱かせることに成功した。
彼は人々から好かれていたし、領民に接触する際にも思いやりについての幾つかの逸話がある。
 ある日スイナーンはある要塞の防御工事に従事していた領民の子供が予期せぬ出来事で怪我をしたので、彼の手助けが必要になった時、その領民をすぐに家に帰した。
スイナーンに関するより特徴的で神秘的な点は彼の高い精神感応、テレパシーまたは透視の事柄に現れることが多い。しかしそれが人の病を治癒したとか何もないところから何かを作るという事柄ではなかった。 
シリアのニザリ教団の歴代首席伝道師の中で、スイナーンは特に英雄視されていて、非凡な才能があり、それを領民は度々体験していた。
その中には次のような話が伝えられている。
 幾人かの仲間が言うにはスイナーンが私的な居住地アル カーフ城から本部のマスヤーフ城に向かっていた時、アル マジダルという村に入った。その村の人々は親切に彼をもてなすこと申し出て、村長は覆いを付けた食べ物を運んできた。スイナーンはその食べ物を少し離れたところに置いてください、そして誰もその覆いを取らない様にと申し出た。スイナーンが馬に乗って出発しようとした時、村長はなぜ我々の食べ物を召し上がらないのか、そして我々の心を慰めないのかと彼に尋ねた。
 スイナーンは村長さんに内緒で次のように伝えた。「貴方の奥様が料理を急いで作ったために鳥の内臓を取り忘れた、それを皆が知ってしまうことを望まなかった、なぜならそれは恥になるからな」。
村長は鳥をみて、スイナーンが言ったとおりだった。
 この逸話はスイナーンの透視能力があることを現している。
 スイナーンは動物に対してもやさしさを表わしたことは一度や二度ではなかった。
 一人の仲間が私に語ったところによると「スイナーンがマスヤーフ城に居た時 肉屋が一匹の雄の子牛を解体したいと思って屠殺場にロープでつないだ、ところが肉屋の手にあったナイフを小牛は自分の口でもぎ取ってロープを切って逃げだした。その後誰も小牛を捕まえることが出来なかった。スイナーンはこの場所では7回もすでに解体が行われていたから、もうこれ以上牛を解体してはいけないと肉屋に言いました。そしてスイナーンはその肉屋にそれを誓わせた。」
スイナーンはやさしさだけではなくて、畏怖を人々に吹き込むこともあった。
史家アブ フィラスはスイナーンという人は非常に神によって祝福されていたので、あらゆる田舎の人々もその偉大さ故に彼らにとって意に沿わない政策でも許してしまうようなところがあったと高揚感を持って語っている。
”一人の信頼できる仲間が我々に語ったところによるとスイナーンがアル カーフ城からマスヤーフ城へ下りて行って、そこで短期滞在した。ある日彼は同行者に言った、「ダマスカスから法律学者のグループ総勢40人ほどが私と論争や議論をするために、我々の方向へ向かってやってくる。彼らの中で最高齢者は幾つだとも言った。更に彼らは今夜ヒムスに泊まる、明日遅くにマスヤーフ城に到着するだろう。
彼らが到着したら、アル ジリシクの公園で滞在させよう、そして生きた牛と鳥、新しいスプーンに皿、ポット、お金をそこに届けよう、そしたら彼らが必要なものを買って、料理するだろうから、その理由は彼らが私達をイスラム教徒ではないと信じているために、私達の食事を取らないだろうから。」
実際に起こったことは彼が述べたとうりになった、スイナーンは彼らをアル カーフで迎えた。そこで彼らは前述した通りの待遇を受けたのである。
スイナーンは十分な教育を受けた人ではなかったが、いつどこでも自身の置かれた立場に応じて、自分の取るべき施策には確固とした信念を持っていたことは疑いない。
彼の宗教的な資質も明らかに際立っていた。それを暗示するのは歴史家が次のように述べているからだ。
もしスイナーンが若い時にアラムート城第四代君主ハサン二世と知り合って、いろいろなアイデアの交流があったならば、神聖な宗教集団の頂点を掌握するようなイマームや首席伝道師が抱くべき霊感の概念を彼はうまく説明して発展させていたであろうということが報告されている。シリアにおけるスイナーンの人間的な資質がまわりの領民や歴史家にも宗教的な頂点に立つにふさわしいと見られていた。スイナーンもシリアにおいてキヤーマ宣言に従った宗教規範を実践させたが、いろいろな矛盾が生じて教徒も混乱してハサンの死亡後スイナーンは独自の規範を打ち立てたとされる。スイナーンの支持者達は彼の宗教規範を正当化するために、アラムートニザリ派本部のイマーム ムハマド二世のかわりに、シリアのイマームにスイナーン立つよう求めた。しかしスィナーン自身がイマームを称したとする史実はない。
スィナーンはシリアをめぐる情勢で大きな役割を果たしたが、ニザリ派教義への貢献はあまり伝えられていない。ハサン二世の暗殺以降、スィナーンはアラムートからの伝令を取り合わず、彼独自の宗教規範と行政に基づいて教団を運営指導したために、アラムートニザリ派本部はスイナーン廃位を狙って、何度も刺客を派遣したが、ことごとくスイナーンに阻まれて失敗に帰した。
 後述するアイユーブ朝君主サラデインがマスヤーフ城を攻撃した時に、スィナーンが単独で警戒厳重なサラデインの寝所に侵入して、寝室の床に短刀を突き刺して去った話があったが、この時に起こった不思議な事柄が次のようなものであった。サラデインの兵士が少し離れて静止した状態にさせられてスイナーンに近づくことが出来なかった、一方スイナーンは監視の目に見えなくて妨害されてないので、容易にテントにいるサラデインに近づくことが出来た。
 イランの拝火教教主ゾロアスターも呪術、妖術を無力化するとか、ゾロアスターはみずからの教義の優越性を証明するために他の宗教、思想の提唱者と積極的に王宮などで王や為政者、賢者の面前で論争したが、その中でも有名な話として、チャングラガハーチャというバラモン僧との論争がある。数日に及んだ論争の中で、ゾロアスターはバラモン僧が述べる前に、彼の質問の内容が理解されて、それに答えたと伝えられている。これは仏教でも神通力として、見えないものを見る天眼通とか他人の考えていることを知る他心通と云われる超能力であるが、ここではいわゆる読心術にあたる。日本にも宗教家ではない超能力者が大正時代に現れた。名前は中井房五郎。彼は文化的な教育を受けていないが、四国霊場第81番札所白峰寺に幼少のころ入ったが、仏像を壊したり、いたずらが多くて寺を追い出されて、十二、三歳で裏山の洞窟で自活して十七か十八歳で下山してふもとの村に現れた。その時には既に超能力を身に着けていたという。山の中で鳥や獣を石を投げて捕獲して自活した。それは精神の集中力、筋肉の瞬発力、心と体のバランスなど持って生まれた才能が芽生えたのであろう。洞窟の中で村の古老に似た老人が出てきて次のような話をしたという夢を見た「そろそろ山を下りて世の中の悪と戦いなさい」と言ったという。この夢をキッカケに不思議な能力が出てきたという。お経を考えると、スラスラ出てくる。知らない歌も出てくる。しまいには予知能力が出てきた。後ろを見ないでも石を投げると目標に命中する。そして後に判るのだが、病理透視、病気治療のある種の超能力が出てきた。かれは無神論者で骨折や関節など現代のカイロプラテックのような治療を始めたが、金門製作所の社長との縁で援助を受けて東京で治療院を開き成功した。このような超能力を獲得する人物はインドのヨガの苦行僧の中によく現れている。だからスイナーンのような霊的な力を使って、見えないものを見る透視術、他人の考えていることを知る読心術などの能力を生まれながらに備わっていた人物がいても不思議ではない。

3.3 スイナーン時代(1168ー1193)のシリア政治情勢

 この時代の主要な権力国家は次の三つであった。大都市アレッポ、モスル、及び1154年にダマスカスと三つの大都市を統治したザンギー朝である。大セルジューク朝からこれらの地域の宗主権を委託されたザンギー王朝の二代目君主はシリア人でスンニー派規範を厳格に履行した宗教家ヌール・アッディン・ マフムードである。第二が1169年にエジプトのカイロのムスタアリー派ファーティマ朝の宰相に収まったが、その後ファーテイマ朝スルタンが没して、ファーテイマ朝が滅亡した。その支配権そっくり引き継いでスンニー派のアイユーブ朝を興して、そのスルタンに収まったサラデインである。第三が十字軍によって建国されたエルサレム国王、アンテイオキア公国、トリポリ伯国などの十字軍国家であった。 
 これらの国が渾然一体となって、お互いににらみ合い牽制し合って、是々非々で自己の権勢拡大に有利な相手と見なされると同盟して、昨日の友は今日の敵といった戦国時代であった。当然ピンポイントで敵の為政者を暗殺で亡き者にするという戦略武器を持つニザリ派教団には援軍依頼が多く、商売繁盛だが同時に怨恨や憎悪による反撃のリスクが高まったのはペルシャと同じであった。その中心に鎮座した人物がスイナーンで人呼んで”山の老人”であった。先のサラデインの話を細述するとアイユーブ朝はザンギー朝ヌール・アッディンとの主従関係の中から誕生した。その発端が1163年にエジプトのファーテイマ朝の宰相シャーワルが身内の権力闘争で追放されたので、政敵デイルガームとの戦いを有利に進めるために、事もあろうにスンニー派のザンギー朝ヌール・アッディンに援軍の要請をした。翌年の4月ヌール・アッディンはサラデインの叔父シールクーフ(昔バグダッドのセルジューク朝司令官)を司令官として、幕僚にサラデインを配した遠征軍を派遣した。遠征軍はデイルガームを首尾よく打ち負かして、シャーワルを再び宰相に復職させた。ところがシャーフルはシールクーフの力を恐れて、エルサレム王国のアモリー一世に援軍を仰いでシールクーフ軍をエジプトから撤退を求めた。8月シールクーフの遠征軍はエジプト軍とエルサレム軍によって包囲されて、11月に和議が成立して、遠征軍はエジプトから撤退した。1167年にも再度シールクーフとサラデインはエジプト攻撃するが不成功に終わっている。1168年にファーテイマ朝カリフ アーデイドは宰相シャーワルの執政に不満を抱いて、失脚させる計画を実行するために再びザンギー朝君主に援軍を依頼して、シールクーフとサラデインは同年12月にアレッポを発ってエジプトに向かった。1169年1月シールクーフ軍はエジプトに入城してアーデイドの命令でシャーワルを処刑して、シールクーフが宰相、軍司令官に就任するが、1169年3月に彼は急死するとサラデインは叔父の地位を継承してファーテイマ朝の宰相となった。1171年カリフ アーデイドが没するとファーテイマ朝は滅びて、サラデインはエジプトにアイユーブ朝を興して、そのスルタンにおさまった。そしてエジプトからシーア派を追放して、同地域の支配権を確立した。1174年ザンギー朝ヌール・アッディンが没するとサラデインはザンギー朝から自立して、ヌール・アッディンが1154年に獲得したダマスカスを無血開城して、シリア方面のイスラム勢力(ザンギー朝アレッポ、モスル)を取り込んで十字軍と対峙する戦力を確保しようとした。サラデインは十字軍やラテン国家やニザリ派教団は新しい侵入者として、主要な敵と見なしていた。
 一方ペルシャの状況は大セルジューク朝スルタン サンジャルは1153年中央アジアから逃れてホーラサン州に侵入して来たトルクマーン族が急増したために、この州を守るべく、彼らの反乱を鎮圧しようとしたが逆に捕虜となって、3年間を虜囚として過ごした後に釈放されたが、1157年に病没して彼が兼務していたホーラサン セルジューク朝、大セルジューク朝は事実上滅亡した。また1194年にはイラク セルジューク朝スルタン ドグリル三世はペルシャに進出して来たホラズム・シャー朝のテキシュとの戦いで敗死したことによってペルシャ、イラクのセルジューク朝は完全に滅亡した。大セルジューク朝に比べるとホラズム・シャー朝の政治、経済、戦力のスケールが小さくて、その結果ペルシャではその周辺諸勢力との関係は比較的平穏であった。シリアのニザリ派が全盛期を迎えるのもこの時代である。

3. 4 スイナーンの執政


 スイナーンはシリアへ入りアル カーフ城に7年間待機した後の1168年にシリア ニザリ派教団の首席伝道師に就任した。以降約25年にわたって、シリアのニザリ派を率いることになる。
 シリアは先述したようにザンギー朝、アイユーブ朝、ラテン国、さらには小さなイスラム教諸宗派の領主による社会集団が点在する錯綜した社会状況であった。群小勢力の一つムスタアリー派はシリアの旧支配国家ファーテイマ朝の宗派であり、シリアのイスラム教徒では最も多い人々であった。
 このような中でスィナーンが執った戦略は 平和を成し遂げるための外交と暗殺という武闘の組合せであった。その典型的な例が前半では敵対的なザンギー朝やアイユーブ朝サラデインに対しては十字軍と同盟し、後半はサラデインとの関係が改善されると対十字軍でジハードを宣言して戦っていたサラデインと同盟を結んで協力するというシリア諸勢力の政治状況に応じて優柔不断に合従連衡を組んで立ち向かった。それによってシリアのニザリ派教団の自治領の繁栄と教徒の安全と独立を確実にすることであった。
 最初に取り掛かった仕事はシリア中部ジャバル・バーラ山中の諸城砦をニザリ教団の現有領地を盤石にするためにルサーフ城とカワビー城、アル カーフ城(地図4参照)を補強改修工事を行い、特に1160年に獲得したカワビー城は西南方面からの敵の攻撃に対して他の要塞を防御する上で地理戦略的に重要な位置にあったためにスイナーンは要塞の出入り口に監視塔を建設したり、城壁を古いものから新たなものに置き換えたことにより、この城もニザリ教団の中心的な存在に改造された。また奪い取ったウライカ城などを改築して防御を再強化した。その他の領地にある既存の城も同様に補強した。これらの城は誰の目にも敵の接近を極めて困難にさせるものだったと伝記記者は述べている。
 この徹底的な防御体制を固めた背景には、このジャバル・バーラ地区の西側には地中海沿岸の十字軍国家が迫っており、常にホスピタル騎士団やテンプル騎士団が城や領土獲得で脅威に晒されるし、また東側はザンギー朝、アィユーブ朝のスンニー派イスラム国が追ってくるという挟み撃ちの位置にあった。
 事実スイナーン就任以前は十字軍に対して平和維持のためにニザリ教団は多額の年貢をホスピタル騎士団やテンプル騎士団に支払っていた。これらの年貢は後述する十字軍とニザリ教団の城をめぐる争奪戦で苦杯をなめた結果であった。
  これらの城の配置はペルシャの防御システムを参考にした可能性がある。それはアラムート城の場合侵入ルートに関して、南北側は急峻な山岳に阻まれるが東西側はシャールード川に沿って容易に侵入できるために、川沿いの山稜に多くの要塞を構築して、敵の動静を監視する機能、軍隊の駐屯、馬舎、狼煙による要塞間の通信機能などの役割を担った防衛ネットワークを構成した。スイナーンはこの防御システムを念頭に、教団本部をカドムース城とマスヤーフ城を政治状況に応じて切り替えていた。カドムース城の場合、この城を取り囲むように多くの要塞を建設して監視の機能を強化したと思われる。
 注目すべき点は要塞間の通信手段である。ペルシャでは狼煙であったが、スイナーンは伝書鳩とコード化された暗号文章という革新的な手段を導入した。
 防衛は上記の通りだが、スィナーンがニザリ派教団の強化策として、最も重視したのが暗殺という武器であり、それはフィダーイーの育成であった。フィダーイーとは「ある理念に忠誠を尽くし自己犠牲をも厭わない人びと」のことであり、判りやすく言えば刺客(アサシン)である。
 スイナーンの育てたフィダーイー精鋭部隊は過去のフィーダーイーとは一味違って、その勇猛果敢さ、大胆不敵さは十字軍に強烈に恐れられて、騎士や従軍記者によってヨーロッパに伝えられ、やがて「暗殺教団」伝説とその指導者スイナーンを「山の老人」の呼び名を生み出し、無限のバリエーションを発生させた。
 この精鋭部隊は単に金銭報酬や、城、施設の設置許認可などの見返り報酬のための暗殺請負のためだけではなく、ニザリ社会に脅威を及ぼす個人、グループの長などを排除するためにも危険な任務が与えられた。
  ニザリ教団の外交上の最も得意とすることは暗殺という武器であり、それには出来るだけ多くのニザリ教徒を彼らの敵の間に散らばらせて潜伏させて敵を露出させることであり、スイナーンはこの作戦にも多くのエネルギーを投入した。
 スイナーンはまた教徒への宗教規範の順守、教徒の伝道、説教活動の組織を再編成して強化した。
 スイナーンの個人的な資質に由来する組織運営の姿として、まずボデイガードのような個人的護衛組織は持たなかった。むしろ彼は自分の持っている独自の資質を前面に出して教団を統治したと言われている.
 十字軍との戦いでニザリ軍はウライカ城を奪い取った時も軍の規律が守られて、いかなる略奪も起こらなかった。また彼がある村や要塞から他の村に旅をする際には順番に各村から同伴者が同行したと歴史家が述べている。
本部には自分の嗜好に合う様な贅沢な施設を持とうとはしなかった、また多くの官僚を抱えて、それに任せて自分は動かないなどという怠惰な人ではなかった。
 一風変わった生活習慣が見られるのはスイナーンが滞留したアル カーフ城は1138年に所有者ムサからニザリ派に売り渡された城であるが、この城がよほど気に入ったのか教団の本拠地はマスヤーフ城やカドムース城だったが、身の安全を顧みずアル カーフ城から付け人を伴って通ったのである。
 その理由は何かコーランの中に、この城の名前に由来する神話があって、それにあやかる思いが働いたのかもしれない。それは若い数人の一神教信者が、その信条のために虐げられた生活を強いられていた。その時神は彼らを保護するために、ある聖人が現れて、彼らを一緒に都市から逃げて、アル カーフ即ち洞窟に案内して避難させて寝入りさせた。コーランで述べたとおり正確に309年の間眠ることになった。そして309年後に目が覚めると、一神教の神の存在を信じる社会に住んでいることに気づいた。この奇跡が起こったのはアル カーフという洞窟だった。
 そのご利益が効いたのか、彼はあらゆる難を逃れて生涯を全うして1193年にこの城で病没した、そしてこの城に葬られた。
 スイナーンの外交上の最初の執政は十字軍との幾つかの戦いをやめることであった。
 先述したように1129年のダマスカスでニザリに執られた大粛清後、ニザリ派教団首席宣教師アブ・ムハンマドは都市から離れて、要塞基地の獲得に専念した。その舞台は山岳地帯のジャバル バーラであった。(地図4参照)一方地中海沿岸にラテン国を持つ十字軍はジャバル バーラに自分たちの足場を構築をめざしていたために必然的にニザリは十字軍と衝突余儀なくされた。その歴史は繰り返しになるがベンジャミンの報告で1142年トリポリ伯国のレーモン2世がジャバル バーラの南の端にあるカラクの砦(地図3参照)の領有権の問題、1151年にもマニカ城(地図4)の領有権問題、1152年にはトリポリ伯国伯爵レーモン2世の暗殺、1157年シャィザルの町(地図3参照)の領有で十字軍の攻撃に応援軍の派遣などであった。
 このような対立を清算するためにスイナーンは和解金を支払って戦いを終わらせた。
 一方ザンギー朝君主ヌール・アッディンはニザリを十字軍以上の脅威とみなし、ニザリ派城砦の包囲・攻撃を繰り返していた。
 ザンギー朝の敵対的な攻勢に対抗する爲にスイナーンが採用した戦略は背後から足を引っ張られないために十字軍国家と和睦して不可侵同盟を結んだが、あわよくば共闘同盟に進んでザンギー朝と戦うということだった。そして1173年頃エルサレム国王アーモリー一世に正式な同盟の使者を送って、西洋人との連携進めた。この際テイルの司祭ウイリアムがスイナーンがキリスト教を奉ずる申し出があったという奇異な話を伝えているが、まさにこれは両者が緊急な親交を求めた証であろう。
 そのような中で、同じ1173年にアレッポのモスクが燃やされる事件が起こったが、それはニザリが放火したのではと疑われた。ヌール・アッディンは明らかにニザリを叩く口実を探していたらしい。そして彼はニザリに向けて遠征軍の派遣を計画していたが翌年没してしまった。
 一方先述したように1169年にザンギー朝の司令官の甥サラデインがファーテイマ朝を滅ぼしてエジプト カイロにアイユーブ朝を興した。一方ヌール・アッディン没後ザンギー朝の後継君主は11歳の幼少アル・マリク・アル・サーリフであった。ヌール・アッディンの死を契機にして、十字軍国家やザンギー朝のモスル君主はシリアの中心都市ダマスカスを占領すべく活発な動きが始まった。
 1174年にザンギー朝君主アル・マリク・アル・サーリフの後見人であるダマスカスの国政を担うアミール(総督、司令官)は安全のために幼少君主をダマスカスからアレッポに移した。しかしザンギー朝モスル君主やエルサレム国アーモリーが軍を動かしてダマスカス周辺の都市に活発な侵略戦争を進めたので、ダマスカスのアミールはサラデインに援軍を要請して、1174年10月サラデインは住民の熱烈な歓迎を受けてダマスカスに無血入城を果たした。
 幼少君主を迎えたザンギー朝アレッポの武将グムシュデキンはザンギー朝ダマスカスの無血開城に同調できずアイユーブ朝に対抗するという戦略を執った。その結果グムシュデキンは周辺の勢力に反サラディンを呼びかけて、まず兄弟君主の関係になる モスルのザンギー朝を初めとし、ニザリ派のスイナーンやラテン国トリポリ伯国にも呼びかけて反サラディン同盟を結成して、1174年末にサラデイン軍と対決した。この時グムシュデキンはスイナーンにサラデインの暗殺を要請している。
 それに対してスイナーンはそれまでザンギー朝を目の敵にしていたが、この新しく台頭してきたサラデインの脅威に直面して、この要請は渡りに船と引き受けたが失敗に終わっている。
 アレッポ、モスルの連合軍とトリポリの十字軍は当初優位に戦っていたが、翌年エジプトからアイユーブ朝の援軍が到着すると形勢は逆転、 アッバース朝カリフの仲介もあって和解に至った。
 当時のザンギー朝の執政やニザリ、十字軍とアイユーブ朝との環境を現したサラデインの書簡がバグダードのアッバース朝カリフ宛に送られていた。その書簡は概略次のようなことが書かれていた「モスルの君主(ザンギー朝)は異端派のニザリと同盟を結び、信仰心のない西洋人との和解に利用している。またモスルの君主はニザリに城や領地、アレッポの君主は伝道館までも与える約束をした。さらにスイナーンと十字軍に密使を派遣したことにも述べて、信仰心のない西洋人、異端派のニザリ、そして反逆するザンギー朝という三重の脅威に立ち向かう神聖なるイスラム教の擁護者サラデインの立場を正当化し強調した文面が綴られた」とある。
 スイナーンはサラデインの命を奪う刺客派遣の最初の試みが、上記の戦闘中に発せられた。それはサラデインがザンギー朝アレッポを攻囲していた1174年12月あるいは1175年1月に起こった。追い詰められた武将グムシュデキンが失地回復の最後の手段としてスイナーンのもとに使者を送ってサラデインの暗殺を要請し、その報酬として領地と金を提供するという申し出であった。これを受けたスイナーンはマスヤーフ城から刺客を12月末か1月の寒い冬にサラデインのキャンプに送り込んだ。ところがそこにはニザリの隣国人で将軍のアブー・クバイスに悟られて尋問を受けた。彼らはただちに彼を殺した。続いて起こった騒ぎの中で多くの人々が巻き添えをくって殺されたが、刺客は全員殺されてサラデインは難を逃れた。翌年スイナーンは再度サラデイン暗殺を決意した。1176年5月22日、サラデインがアンテオキア北側のアザーズを包囲していた時に、サラデインの軍隊兵士に変装した刺客は彼のテントに侵入して短刀で彼に襲い掛かったが甲冑のおかげでサラデインは軽傷で済み、刺客は異変に気付いて駆けつけた将軍によって惨殺された。しかしこの事件で数人の将軍が落命している。年代記者によるとこの二回目の試みもグムシュデキンの要請によるとされている。
  この事件をきっかけにサラデインは特別に建てられた木造の塔の中に眠り、彼の知らない者は一切彼に近づくことを禁止するという警戒態勢を敷いた。スイナーンのサラデイン暗殺はグムシュデキンの要請に応じて決行されたことは間違いないが、グムシュデキンからの要請で報酬も頂けるし自分の戦略にも合致したという次第であった。スイナーンが受けた同様なサラデイン暗殺要請話は1174年エジプトのカイロでサラデイン自らアッバース朝カリフに送った書簡の中で述べられている。「その年にエジプトで起こった没落したファーテイマ朝残党の陰謀は不成功に終わったが、その指導者はスイナーンに手紙を送り、彼等(ムスタアリー派)は共通の信仰(ニザリとムスタアリーの母体はイスマイリ派だった)を強調して、サラデインに対する行動を起こすよう促した(サラデイン暗殺)」。しかし共通の信仰という話には無理がある。それはペルシャの教団始祖ハサン サバーフが1094年にファーテイマ朝と袂を絶ってニザリ派を主導した際に、カイロのファーテイマ朝との主従関係を絶って独立していた。以来ニザリ派とムスタアリー派ファーテイマ朝との間柄は信頼感の欠如で、お互いに同盟したり、共同戦線を張ったりすることは全くなかった。1124年ごろファーテイマ朝カリフ アル アミールが自分の指揮権を受け入れるようシリアのニザリを説得したが、逆にニザリに拒否されてカリフは刺客に倒された。
没落したファーテイマ朝の残党がシリアのニザリに応援を求めたことはありうる話だが、一度失敗している彼らの陰謀に再度加担するほどスイナーンの戦略思考は甘くはなかったのだろう、その史実はない。
 1176年8月サラデインは報復のために、アイユーブ軍を進撃させて、ニザリの本拠地マスヤーフ城砦を包囲するが、にらみ合いも短期間で終わり、すぐに休戦に至りサラデインは撤退した。この戦いの早期撤退にはいろいろな異説がある。サラデインの書記で歴史家イマード ウデイーンによるとマスヤーフの隣の町ハマーの君主がニザリから停戦調停の仲介を依頼された、ハマーの君主とは実はサラデインの叔父であったのでサラデインは拒否できなかったという説。別の伝記記者はフランク人がビガー渓谷を攻撃して来たので、サラデイン自らそちらの地に転戦しなければならず、撤退を余儀なくされたというもっともらしい理由を挙げている。アレッポの史家はこの攻防戦ではスィナーンが単独で警戒厳重なサラデインの寝所に侵入し、その枕元に毒ケーキ・毒塗りの短剣・「どうあがこうとも、勝利は我らにあり」の警告文を置いて去ったエピソードがあり、サラデインはこれに恐れを成して兵を引いたという。この話は1117年頃ペルシャのニザリ教祖ハサン サバーフがセルジュークのスルタン サンジャルを威嚇するために起こした事件に類似している。それはハサンがサンジャル陣営に潜伏させていたニザリ派侍の一人に命じて、スルタンの睡眠中に、その寝台の前の床に短刀を突き立てさせた。サンジャルは目を覚まして、この刃物に気が付いたが、誰がこの犯人なのか判らなかったので、かれはこの事実を誰にも漏らすまいと決心した。ところがしばらくしてサンジャルはハサン サバーフから短い書付を受け取った。それにはこう書かれていた「もし私がスルタンに好意を抱いていないなら、床に突き立てられた短剣はあなたの胸に突き刺されていたであろう。この岩壁の頂上から(アラムート城)、私はあなたの周辺の人の手を遠隔操作していることを承知あれ」この行為はサンジャルの心に衝撃を与えたので、彼はニザリと和睦しようと心が傾いたとドーソン著 モンゴル帝国史に書かれている。前者はスイナーンが自ら仕掛けている点が異なるが、彼には予知能力、透視能力が備わっていたと言われていた。またニザリ側の説によるとサラデインはスイナーンの神通力に恐れをなして、彼の叔父のハマーの君主に停戦調停依頼をして、叔父がスイナーンに無事に撤退して立ち去ることを許すように要請した。スイナーンはそれを認めて彼に安全な通行を保証して、二人は最良の友人となったという。サラデインのマスヤーフ撤退後、ニザリへの公然たる敵対行動は一切聞かれなくなった。この背景にはサラデインがこれから展開しようとしていた十字軍国家エルサレムや地中海沿岸の諸都市の奪回をスムーズに実行するにはジハードを掲げてモスレム同士が結束していかなければならないとことだった。外交上には現れない暗黙の同盟の存在をほのめかす話も伝わっている。事実彼らはお互いに是々非々の対応で直接の衝突を回避している史実があった。 次の暗殺は1177年8月31日に行われた。アレッポのザンギー朝君主アル・マリク・アル・サーリフの宰相ヌール ウデイーン イブン ザンギーと前宰相ハーブ ウデイーン イブヌル アジャミーの暗殺であった。この暗殺はシリアの歴史家によればグムシュテギンの陰謀によるものとされている。グムシュテギンは刺客の派遣を依頼したスイナーンへの書簡にアル・マリク・アル・サーリフの署名を模造して押していた。この事件の真偽の根拠は刺客がだれの指示かと尋ねられた時、アル・マリク・アル・サーリフ自身の命令で実行しただけだと告白したことであった。伝えるところによると、グムシュテギンにとって、この二人の宰相の死は自分の権勢拡大の好機ととらえたらしい。この陰謀はアル・マリク・アル・サーリフとスイナーンと文通を通じて、主犯はグムシュテギンであることが明らかになった。その後グムシュテギンは新宰相アドルとの激しい権力闘争を展開したが、1178年8月アドルの依頼を受けたニザリによって暗殺された。
この二人の宰相及び武将グムシュテギンの死は過去の反サラデインの志望者たちだったので、彼にとって、大いに歓迎されたにちがいない。この様にお互いに共謀して事を進めていながら、ザンギー朝とスイナーンの対立は続いた。1179-80年に君主サーリフはニザリのアル ハジーラ城を奪っている。スイナーンの抗議は何ら効き目がなかったので、アレッポに運動員を送り込み、彼らの市場に放火して大きな損害を与えたが一人の放火犯人も逮捕されなかったという。この事実はその町においてニザリ派は今なお地方的な支持を集めていることが出来ていたことを示唆している。その後、シリアのニザリを巡る状況は、比較的安定的に推移するが、1187年10月2日サラデインがエルサレム奪還以降、十字軍国家はテイロス、アンテイオキヤア、トリポリなどの都市が残るだけだった。この窮状を救ったのがコンラード・デル・モンテフェラート侯であった。1187年末彼はサラデインにエルサレム国が奪われたことを知らずに海路でアッコンの港に近づいたが、この港は既にイスラム教国によって占領されていることを知り、事態の深刻を認識した。そしてそのまま海岸にそって北上して、まだ十字軍側に留まっていたテイロス城にたどり着いた。彼がテイロスに入城した時はサラデイン軍によって包囲されていた。降伏の瀬戸際に追い込まれていた防衛の責任を任されたコンラードは戦い方が上手で勇猛果敢にサラデイン軍に立ち向かい彼らの攻撃を跳ね除けて、テイロスを守り抜いた。しかしジハードを掲げてイスラム教諸国家の軍隊をまとめて立ち向かうサラデインの攻撃に孤立無援となった十字軍国家を救援するために1189年第3回十字軍の派遣が決まった。サラデインの捕虜から釈放されたエルサレム王ギー・ド・リュジニャンはテイロス市に入ることを拒否されて(王位は消滅)、行き場所を求めてアッコンの再征服に軍を進めて城を包囲していた時に、第三回派遣十字軍のフランス王フイリップ二世が1191年4月に、リチャードは1191年6月にそれぞれアッコンに到着して、両王の軍勢が参戦して7月にアッコンは陥落した。一方エルサレム王リュジニャンが失脚したので、テイロス市ではエルサレム王の投票が行われて、王位に選ばれたモンフェラ候コンラードが1192年4月21日エルサレム王に正式に就任した。このようなサラデインと十字軍の戦闘状態の中で、スイナーンの戦略はイスラム教の共通の敵・十字軍への対抗のためにサラデインと同盟関係を結んでいた。その背景には先述のマスヤーフ城攻防戦後に暗黙の休戦協定で、お互いの脅威さを認め合って無駄な対立を避けてきた。1192年を迎えて、生涯で最もドラマテックな戦果に繋がる大きな仕事がスイナーンに舞い込んできた。それがコンラードの暗殺であった。しかも彼がエルサレム王として就任した一週間後の28日に二人の刺客によって暗殺された。
 多くの史料には刺客はキリスト教の修道士に変装して巧妙に立ち振る舞って司教や侯爵の信任を得てテイロスに潜伏していたが、テイロスでの身辺警護は緩かったために、暗殺命令が届くと護衛の少ないチャンスが訪れた時すかさずコンラードに体当たりして短剣で刺したのだった。
 この暗殺の様子を次のように伝えている。4月28日の正午に近い頃コンラードの妊娠中の妻イザベラは夫と食事をするためにトルコ式風呂から戻る予定が遅れてしまった。仕方なくコンラードは親類で友人司教ボヴェの家で食事をするために出かけた。
 ところが司教はすでに食べたので、コンラードは仕方なく家路に向かった。
 この途中で二人の刺客に襲われて、わき腹と背中を少なくとも二回刺されてほとんど即死の状態だった。
彼の護衛は刺客の一人を殺害して、もう一人を捕えた。
ある歴史家はコンラードを襲撃の現場から近くの教会に運ばれて、そこで息絶えたと伝えている。
 この事件は相手がエルサレム国王とあって、ニザリにとって史上最大の戦果を成し遂げたことになった。これに関してザンギー朝の歴史家イブン アル アスイールによると、この暗殺はサラデインがスィナーンに報奨金を提示して要請したとされている。その計画ではリチャードとコンラードの両者をターゲットにしたが、リチャード(別な場所にいた)はすぐに不可能だと判明した。サラデインは成功報酬として、ニザリにカイロ、ダマスカス、ホムス、ハマー、アレッポの都市に伝道館の設立する権利、またその他の特権を認めた。また別な説として、この暗殺はキリスト教側内部の政治的な確執の中で起きた事件だったという。そのためにスイナーンに暗殺要請をした主犯は誰かという噂が西欧社会で話題を呼んだ。サラデインの事務方の報告によると捕えられた一人の刺客は質問に答えて、この仕事はイングランド王リチャードの要請によるものであると告白したという。
 当時コンラードはテイロス城の防衛を果たした十字軍の優れた将軍とみなされて、リチャードのエルサレム奪還の戦闘に参加を呼びかけたが、色いい返事がもらえずリチャードは苛立っていた。またリチャードがエルサレム王国の王位継承を速やかに自分の被保護者で甥にあたるシャンパーニュのアンリ伯爵に引き継がせるために画策したという説である。事実コンラードの死後ただちに彼の未亡人イザベラとアンリ伯爵は結婚して王位を継いだのである。この時のエルサレム国はサラデインの支配下にあったので、エルサレム領土を伴わない王である。
 サラデインの秘書イマード・ウッデイーンはコンラードがサラデインと内通していたとされ、この暗殺はサラデインにとって決して歓迎されるものではなかったと語っている。確かにリチャートの参戦要請に色いい返事をしなかった背景にはサラデインとの密約があったとされている。
 以前は1年以上に渡ってリチャードはサラデインと死闘を繰り返していたが、コンラード暗殺の4ヶ月後の1192年9月サラデインと休戦協定に調印していた。その中で十字軍側はテイロスからヤッファまでの海岸地帯を確保し、エルサレムを含む内陸側はサラデインの領土とされた。サラデインの依頼によりニザリの領地も協定に含まれていたという。それほどサラデインは義理堅い人物で、一旦同盟を結んだ相手には旧敵といえども気を配ったことを歴史が物語っている。
 そしてコルラード暗殺の翌年1193年恐るべき山の老人ことスイナーンはアル カーフ城で没して、そこに埋葬された。
 イスラムの英雄サラデインも長年の戦闘に疲れ果たしたのか病いがちになり、スイナーンと同年3月に世を去った。
 英国の現代イスマイリ派研究者ピーター・ウィリーはスイナーンを次のように評価している。「彼は最終的にシリアや海外において、敵にも承服させること、また不承不承の尊敬さえも勝ち取ることに成功した。また彼の優れたリーダーシップのお蔭で、シリアのニザリ派の信徒は勢力と名声の極限まで手を伸ばすことに成功した。」 

 3. 5 シリアの暗殺教団と山の老人の物語

 1175年以降ニザリ派教団の首席伝道師スイナーンは教団内に住む屈強な若者を集めて刺客養成機関内に極楽浄土ような宮殿と武道訓練道場や神秘的な信仰の講堂を造り、従来よりも高潔にして高いジハード(聖戦)精神を持ったフィーダーイー(刺客)を多く養成した。そしてスイナーンは教団を危機に陥れる敵の排除や暗殺請負の実行のために十字軍、周辺諸国の君主、司令官、領主らを狙った暗殺命令を実行した。しかしその暗殺手法が極めて巧妙で、多くの刺客は事前に敵の領内にタキーヤの宗教原理(信仰隠匿)に基づき相手の信仰に合わせて潜伏しているので、狙われた者は外から入ってくるのではなく、内部の者から突然襲われるので全く予知、予測が出来ないまま突然倒される。この凄まじい殺傷事件を被ったり、聞かされた十字軍、諸国の君主、司令官、領主はいつ自分に降りかかるか戦々恐々として恐れていたという事実が従軍記者や宣教師、旅行者の手記でヨーロッパに伝えられて、大きなセンセーションを巻き起こした。しかしこの恐怖政治だけなら、手法の違いはあっても、どこの国でも暗殺という手段は存在する。ヨーロッパの人々の好奇心に火をつけたのは二つあって、一つの道徳律の厳しいイスラム教で、予想もできない道徳を逸した生活習慣が奨励されたことであった。
 もう一つはスイナーンに対するフィーダーイー達の殉教の死をもって天国の楽園で復活できるという狂信的教義をもとに彼等に死も恐れぬ絶対的な忠誠心を抱かせる刺客養成に成功した。
 そしてこの異常な忠誠心を聞き知ったヨーロッパ人は恋人への永遠の愛の告白にアサシンの忠誠心を比喩として恋文に使うことが大流行した。

 このような現象は日本にも例があり、例えば9世紀の富士山の貞観大噴火や11世紀の長元、永保の噴火の時に流行った恋文を詠じた歌が古今集や新古今集に収められている。
      ふじの嶺の煙もいとど立ちのぼる 上なきものは思いなりけり
      富士のねをよそにぞ聞きし今は我が 思いにもゆる煙なりけり
      人知れぬ思いをつねに駿河なる 富士の山こそ我が身なりけれ
 一方アサシンの山の老人では次のような文言が流行した。
「我は御身の全き掌中にあり。山の老人の意の如く、彼の不倶戴天の敵の殺害に向かうアサシンより完璧に」
もう一人はこんな風に
「アサシンが山の老人に忠誠を誓って仕える如く、私は変わらぬ忠誠をもってあなたに仕えるだろう」
あるいは「我は御身のアサシン。御身の命を果たして、楽園を得んと欲する者」
 このように初期の頃はヨーロッパ人もアサシンを奇妙なおとぎの国の話ぐらいに受け止めていたが、コンラッド王の事件で現実に目が覚めて、アサシンとは殺人のテロ集団という本来の姿を再認識したのである。
 もう一つが次のような宗教的な改革が原因になっていた。
 スイナーンがシリアに到着してまもなく、本部アラムートではハサン二世によってニザリ派イスラム教の宗教改革が断行された。それは概略次のようなものであった。
 これまでの先輩教主はイマームの代理人として教団を指導してきたが、このハサン二世はラマダーン月(イスラム教徒は断食をする)の1164年8月8日、彼の命令で集められたニザリ教徒に向かって、次のようなことを宣言した。「自分はお隠れになったイマーム(ニザーム)の孫であると宣言して、イマームは宗教で課せられた義務を今後解除すること。みなさんは新しい世紀即ち復活の日を迎えたのであって、アラーの神を直感的に瞑想することに専念すればよいこと。そしてこれが本当のお祈りであること。みなさんはもはや一日5回の礼拝をする必要はなく、宗教によって規定されているその他の外面的な儀礼を守ることは必要ではないこと.」続いて食卓が並べられ断食を破るために民衆が招かれた。これより以降ラマダーンの月はニザリ派教徒にとって復活祭として祝われた。
これを歴史家は「キヤーマ(復活)の宣言」と呼んだ。
彼らは大いに酒を飲み、娯楽を興じて、この月を過ごした。当然シーア、スンニー派イスラム教徒はこれを恥知らずな行為として非難した。この時期からニザリ派教徒を”ムラーヒダ”(道に迷える者)と呼ばれるようになった。
 結局ハサン二世はニザリの孫であるという伝説を作り上げて、どこのイスラム国のイマームも行ったことのない常道を逸した宗教規範をニザリ派教徒に説得して、自由放任的な信仰生活をもたらしたが、信徒も彼の神性を認めるようになったと言われている。
 このような信仰規範が受け入れられた思想は次のようなものであった。「このハサン二世の行動はイスラム教ではキヤーマの宣言をしたということで、キヤーマとはイマームが救世主として再臨した、即ちハサン二世が初代ハサンが約束した隠れイマームが現世に再臨したのが私であると宣言した。救世主が現世に現れたということはそれ以降宗教規範を破棄してもよいことを意味する。ペルシャ、シリアのニザリ派教徒はハサン2世をイマームと認めて、完全に彼の主張を受け入れた。
 再臨したイマームの下でのニザリ教徒の現実の生活は限りなく神に近いイマームの発する指導、教義の実践は絶対的なものとして受け止められていたであろう。それはニザリ教徒にとって、次のようなご利益があったし、安心感にもつながったそうである。教徒はイマームによって選ばれた僕である。復活のイマームは彼らを罪から守ることができた。同じく復活したイマームは神に近いから、教徒を死からも救うことが出来た。復活したイマームの国は神の意向に基づいた国だから、法による支配は必要がなくなり、教徒自ら神の実在を観照できるようになり、また生きながら彼らは真理を認識することが可能になった。このように復活したイマームはニザリ教徒を精神的な楽園に導くことができた。またニザリ教徒は天国への切符を手にすることができた。」(The Assassins by Lewis,The Secret Order of Assassins by Hodgson)
 そしてこの宗教改革は他のニザリ領地にも伝達するために、シリアのニザリ教団へ使者を派遣した。
 しかしこの改革には真面目な信徒はついていけず、1166年にイマーム ハサン二世は自分の妻の弟によってラミアサール城で殺された。
 1164年のシリアではまだ首席ダーイー シャイフ・アブー・ムハンマドが健在だったので、彼がこの新しい信仰規範の実施に務めなければならなかった。そして1168年スイナーンはそれを引き継いで、どのような展開を目論んだのか明確な史実は残されていない。
 スイナーンもシャイフ・アブー・ムハンマドの敷いた新しい教義を踏襲したと思われる。そして一旦教徒に復活宣言を行って、法の終末により、ニザリ教徒に完全な自由が許されてラマザーンの断食免除、日に五回の祈祷免除、酒や飲食の自由などを実践させた。
 この習慣を観察したシリアのスンニー派伝記記者はキヤーマ宣言後のニザリ派教徒の生活を誇張した噂話を次のように伝えていた。
「スイナーンは法の終末を迎えて、教徒達に自分の母や姉妹や娘たちを汚すことを許し、ラマザーンに断食を免除したということを耳にした」とか「ジャバル アル スンマークの人々は自らを”純粋なる人々”と自称して、男女とも酒宴に加わり、男は自分の姉妹、娘と交わり、女は男装して、彼らの中にはスイナーンは神であると断言した」
この男女の乱交はアラムートのキヤーマの規範には見当たらないので、明らかに常道を逸した話であり、スイナーンも実態を調査したが、この話を否認していた。
しかしこれらの噂話や記者の現地報告がニザリ教団の楽園に関する後世の伝説の土台になったことは確かである。
 ヨーロッパではニザリ派教団をなぜアサシンと呼んだのか、教団をどのように捉えていたのかを知る彼らの記録を紹介してみたい。この話は本レポートシリーズ ”暗殺教団の城 アラムート”で紹介されているので、お読みの方はスキップしてください。
 最初にヨーロッパで現れた暗殺教団に関する文献はローマ皇帝フリードリヒ バルバロッサが1175年にシリアとエジプトに派遣した使節団の報告であった。それは次のようなものである。
「ダマスカスとアンテオキア、アレッポの国境の山中に、彼ら自身の言葉で”山の老人”と呼ばれるアラブ系モスレム人の一族が住んでいることに注目しなければならない。この人々は無法の中で生活し、彼らのモスレム教の掟に逆らって豚の肉を食べる。また彼らは自分の母親や姉妹も含めすべての女性と区別なく交わる。彼らは山中に住み、十分に強固に構築された城砦に潜伏しているので、ほとんど難攻不落である。彼らの土地はあまり肥沃ではないので、家畜によって生計を立てている。また彼らは一人の君主を戴き、その君主は隣のキリスト教国の君主だけでなく、遠方近隣のアラブ系の国の王様たちにも最も恐ろしい恐怖の念を与えている。なぜならば彼は驚異的な手段によって彼らを殺害する習慣を持っているからである。この手段とは次のようなことである。この君主は多くの山岳に美しい宮殿を持っているが、それらは高い城壁に囲まれて、何人も一つの小さなしかし充分防護された扉以外に中に入ることは出来ない。これらの宮殿で彼は支配下にある領地の農民の息子達を集めて、幼少の頃から養育し、彼らにラテン語、ギリシャ語、ローマ語、アラブ語その他多くの言葉を教えた。これらの若者たちは幼少の頃から成人になるまで、彼らの先生たちによって、次のように教えられた、君たちの国の君主のすべての言葉と命令には服従すべきこと、そしてそれが守られるならばすべての生ける神々に影響を及ぼす力のある君主はお前たちに必ず楽園の喜びをもたらすであろうと。
また何事においても、もし君主の意思に従わないならば救済は望み得ないとも教えられた。ここで注意すべき事は子供の時に引き取られて宮殿に連れて来られて以来、彼等は教師や師匠以外には誰とも会うことがなく、誰かを殺すために君主の面前に宮殿から呼び戻されるまで、他のことを一切教えられないということである。そして君主の面前で彼らは君主から楽園を授かるために自分の命令に快く従うか否か尋ねられる。
事ここに至っては彼らは教えられてきたように何の疑問も異存も抱かずに君主の足元に身を投げて、君主が命令するあらゆることに従うことを情熱を抱いて申し述べる。そこで直ちに君主は彼ら各々にひとふりの黄金の短剣を授け、彼が目星をつけた君主を殺すために彼らを送り出すのである。」
上の写真”シリアの楽園”の右側に立っている人物が山の老人ことスイナーンである。
またこの話の数年後にテイル(レバノンのスール市)の大司教ウイリアムが十字軍諸国史の中で次のように述べている。
「フエニキアとも呼ばれるテイル地区およびトルトサ(タルトース市)の司教区には十の堅牢な城砦とそれぞれの城に付属する村々を持つ一団の人々が住んでいる。(地図5参照)
 私が聞いたところによると彼らの数は約6万人かそれ以上である。首長を任命したり、君主を選ぶのに、世襲によってではなく、ただ美徳によってのみ行うのが彼らの習慣である。
彼らは自分たち以外のいかなる権威の称号も軽蔑して、自分たちの君主を”長老”と呼んだ。そしてこの長老に対して、この人々を結びつける服従や奉仕の絆は非常に強くて、長老が命ずるいかなる困難で危険な仕事でも異常な情熱を持って遂行しようとする。例えばこの人々によって憎まれたり疑われたりした君主がいれば長老は自分の部下にひとふりの短剣を与えて命令を下す。
命令を受けた者はその殺害の結果や自分の生死のいくえには一切考えることなく直ちに命令を実行に移す。仮に実行に時間を要しても命令実現への執念は衰えず、絶好の機会が訪れるのを執念深く待って確実に遂行した。
我々もアラブ系モスレム人たちも彼らを”アシシニ”と呼んでいるが、その名の起源は知らない。」
 暗殺教団には刺客養成機関があって、そこでインド大麻即ちアラビア語で”ハシッシ”を喫煙させていたという噂があった。
”アシシニ”とは多分”大麻を吸う人々”という意味だろうと思われるが、19世紀に英語のAssassin(暗殺者)の語源が大麻のアラビア語Hashimite”ハシッシ”に由来することをパリ国立図書館所蔵されるアラビア語写本からヨーロッパの学者によって断定された。
 暗殺という社会現象は昔から人類社会の権力者同士あるいはその兄弟同士で血みどろの戦いの中に見出された。しかしアサシンという言葉のルーツが11世紀にシリアのニザリ イスマイリ派教団にあったということは時代的に新しい言葉で、しかも大麻とイスラム教に関わっているという意外性に富んだ話である。
 もう一つ紹介しよう。ドイツの年代記記者アーノルドは次のように述べている。
「さて この山の長老についてのいろいろな事実を述べよう。それらは一見馬鹿げているようであるが、信頼できる証人たちの言葉によって確かめられている。
この老人は自分の国の人々をその魔力によって幻惑するので、人々は彼以外のいかなる神も崇拝したり信仰したりしない。また同様に不思議な方法で彼は永遠の歓喜を伴う快楽への期待と約束を持って人々を誘惑するので、人々は生きるよりも死ぬことの方を選ぶに至る。
 この老人が人々を最も祝福された者とみなすのは敵の血を流し、その殺害の結果自分も報復の犠牲になって死に至る人々である。
そこである者が永遠の歓喜と悦楽を享受したいと死を望む時、長老はこの務めに捧げられる短剣を手渡して、その後彼らを法悦と忘我の境地に没しめるために一服の薬で酔わせてその魔力によって快楽と歓喜に満ちた境地、いや実際は見せかけに過ぎない幻想的な夢を見せるのである。
そして彼らにはその行為の代償としてこれらの永遠の享受を約束するのである。」
 ”一服の薬で酔わせて”の一服の薬とは先に述べた”ハシッシ”即ちインド大麻を意味している。
イランではパーレビ朝時代に65歳以上の者には薬局で、身分証明書を提示すれば生アヘンを買うことが出来た。それはお金のない人が歯痛みや頭痛、老人の憂鬱症から解放される媚薬と見なされていた。従って大麻などは全く自由であった。送電線工事で採用したアメリカ、イギリスに留学したイラン技術者も時には大麻を吸っていた。彼らはまず大麻の種を植えることから始めて、成長すると丸い実のなる雌木だけを選んで、伐採し木の根元を紐で縛って、日陰で逆さに吊るして乾燥する。後は葉だけを収穫して、紙の上で手もみして細かくする、一方紙巻タバコから葉を取り出して代わりに大麻を詰め込む。後はタバコと全く同じように火をつけて吸引する。
 11世紀頃には紙巻タバコはなかったので、写真のようなキセルを使ったのだろう。
 12世紀後半の十字軍及びヨーロッパ人はアサシンがシリア地区のイスラム教宗派の一つだと認識していたが、その宗派が他のイスラム諸国家の宗教、宗派との関連性については全く知らなかった。
 しかし当時既にアサシンの起源がペルシャであるという事実を突き止めた旅行者がいた。その人はスペインのユダヤ人旅行者ツデラのベンジャミンである。1167年彼はシリアを経由してペルシャへ旅をした著述書の中で「ペルシャのムルヘトの地域で、そこの人々が山の頂上に住む異教徒集団であり、シリアの”山の老人”またはアサシンの長老との結びつきがある」と記している。ムルヘトとは土地の名前ではなくて、そこに住む人々の別称である。
ムルヘトはムラヒーダの間違いで、ムラヒーダとはペルシャ語で異端者あるいは迷える者という意味である。従ってシリアの山の老人はペルシャのルードバール地方に住むニザリ・イスマイリ派教団の長老との結び付きがあると述べている。
 その他にも、アッカ(黒海沿岸のヘファ市)の司教ヴィトリーのジェイムスはシリアのニザリ教団の発生地は彼らがシリアに来る前の住んでいた土地、それは遥か東方でバグダートやペルシャ諸州の東方に位置すると記している。
 しかし山の老人の本拠地がペルシャにあるという事実をヨーロッパが気がついたのは13世紀に入ってからだった。
 さて復活宣言のその後の成り行きは1166年にイマーム ハサン二世が暗殺されて、新イマームは五代目 ムハンマド 二世 (1166-1210)であった。 
 ムハンマド二世は復活の教義で父以上に熱心に取り組んだので、この教主も復活のイマームと呼ばれた。イマームの権限を強くするためにハサン二世の教義の洗練化に力を注いで、自分が紛れもないニザリの子孫であることを論証して、イマームとして振舞った。

4. スイナーン以降のニザリ教団の歴史

 1193年スイナーンが没するとナスルというペルシャ人が後を継いだ。
 この頃からシリアのニザリ派教団の自治領国家としての活動は時系列的な歴史記録が残されていない。以下断片的な話を並べることにした。
 この新しい首席伝道師もアラムートのニザリ教団五代目 イマーム ムハンマド二世によってペルシャから派遣された。従ってペルシャの指示命令は完全に無視してワンマンショウを演じたスイナーンとは逆に彼はアラムートからの指示命令を従順に守ったので、ニザリ教団本部の権威は回復された。そしてその強い主従関係はアラムートが1257年モンゴル西方遠征隊によって滅ぼされるまで続いた。
 ムハンマド 二世没後ハサン三世の時代(1210-1221)を迎えて、ペルシャでは政権交代が起こった。それは大セルジューク朝の滅亡後1197年にアッバース朝のカリフから正式にイラクとペルシャを支配するスルタンの称号を認められて、大セルジューク朝の後継者として認知されたホラズムシャー朝であった。この王朝もスンニー派のトルクマン系民族で、昔は中央アジアに本拠地を持つセルジュークの属国的な主従関係にあった。彼等はペルシャ、イラクの支配権を掌握して周辺地域に強大な軍事力を背景に急速に強い圧力を及ぼし始めた。その結果は政治の不安定な時代を迎えてハサン三世は前政権時代のようにホラズムシャーと徹底的な対立関係を維持することは難しいと考えて、最低でも自治領国家の存続を確実にするには周辺イスラム諸国からムラヒーダ(道に迷える者)と蔑視されている祖父ハサン二世によるキヤーマ宣言の教義、規範を廃止し、こともあろうに従来敵対していたスンニー派イスラム法学者を招聘して講義を行い、スンニー派シャリーヤ(規範)の実践を領民に命じた。すなわちニザリ派からスンニー派へ改宗を行った。ペルシャ人のようなアーリア民族はイスラム教誕生当時被支配民族だったために、マホメット死後彼を支援して共に戦ったアラブ系の資産家、メッカの商人、貴族の中からイスラム共同体の合議制で最高位聖職者カリフ(モハメッド血統に無関係)を決めるというスンニー派に対して同調できず、マホメット娘婿四代目アリーの血統のつながりがカリフ、イマームの絶対条件としたシーア派を選択した経緯がある。これはアーリア人の宗教は昔ゾロアスター教だったこと更にアラブ系に対する民族的な対抗意識が底流にあった。この流れは現在でも続いていることはシリア、イラクのイスラムIS,イエーメン政府(スンニー派)とフーシ派民兵組織(シーア派)との紛争にも現れている。
 この改宗にはニザリ教徒の抵抗が大きかったはずだ。国民を説得させた手段とはいつものニザリ教団の奥の手であるタキーヤの原理(信仰秘匿)によって、スンニー派への改宗を受け入れたと考えられる。従って社会環境が好転した時には速やかにニザリ派へ自然体で戻るのである。この改宗宣言によりハサン三世は1211年、アッバース朝と和平を結び、ニザリ領域の統治権をアッバース朝カリフの名において認められた。これはとりもなおさずホラズムシャー朝による認知されたことを意味した。この新たな宗教改革即ち法の終末から法の復活、スンニー派宗教規範の実施は1211年にハサン三世からシリアへ特使が送られて、首席伝道師や信徒たちにスンニー派の宗教規範の実践を求めて、当然酒、薬、その他の法の終末で自由にされた習慣はすべて禁止された。この新たな改革がシリアのニザリ教徒にどのような影響を与えたのか歴史的な記録は残されていない。しかしアラムートと同様に急転直下の信仰環境の変化は精神的にも実生活にも与えた影響は計り知れないことは確かであろう。
 この時代に入ると暗殺のターゲットはキリスト教国に向けられたが、不思議にもイスラム教国には向けられなかった。それは建前上とはいえ同じスンニー派を信仰していた国同志、しかもアッバース朝カリフからスンニー派イスラム教団というお墨付きをもらって、友好関係を維持しようというニザリ本部の戦略で、アイユーブ朝、その後マムルーク朝に対して徹底した平和の維持指令がアラムートからシリアに届いていたのかもしれない。またアラムートのイマームもセルジューク朝に抱いていた敵愾心をホラズムシャー朝にも同様に抱いていたかは疑わしい。
 ニザリによる最初の犠牲者は1213年ニザリ派刺客がトルトサ(現在タルトス)市の大聖堂でアンテイオキア公国の君主ボエモン4世の長男で十字軍将軍レイモンドを暗殺した。その報復のためにボエモン四世とテンプル騎士団の特殊部隊が1214年にカワビー城(地図4参照)を襲撃した。この頃のニザリ派本部はマスヤーフではなくて、カワビー城だったと思われる。その時ニザリ教団はアレッポのアイユーブ朝君主アザ・ザーヒル・ガージーに救援を要請しました、そしてガージーは次々と自分のライバルや叔父アル・アディルに連絡を取って救援要請を訴えた、その結果編成したモスレム連合軍は不運にもジャバル バーラ地帯で十字軍の待伏せ攻撃に遭遇して、ほとんど壊滅状態に陥ったとき、エジプトのアイユーブ朝君主アズ ザーヒルの派遣した救援軍の大活躍でカワビー城に接近中の十字軍を大きく後退させた。更に叔父アル・アディルの息子でダマスカスのアル ムアザムが、トリポリ伯国のボエモンの領地に対して幾つかの襲撃を開始して、その領域を完全に破壊した。その結果ボエモンはカワビーから撤退を余儀なくされて、アイユーブ朝君主アズ ザーヒルに謝罪を出すことを強要された。ボエモン四世はアンテイオキア公国と1,187年からトリポリ伯国の君主でもあった。
 ニザリ派教団はシリアにおけるマムルーク朝の初期統治時代まではカワビー領域に対する支配を維持していた。1260年ニザリ壊滅を目論んだモンゴル軍は遂にシリアに及び、その攻撃に屈してマスヤーフ城とその他三つの要塞を譲り渡した。
 しかし同年ラマザーンの9月3日に要塞を取り戻すためにニザリはマムルーク朝やその他のモスレム教諸勢力と同盟を結んで、シリアからモンゴル軍を追い出すべく画策した結果クトゥズ率いるマムルーク朝軍がシリア・パレスチナのアイン・ジャールート の会戦でキト・ブカ率いるシリア駐留のモンゴル帝国軍およびキリスト教徒諸侯連合軍を破り、彼らが失った四つの要塞をすべて取り戻すと同時にモンゴル帝国の西進を阻止した。 
 1270年2月にマムルーク朝君主バイバルスはマスヤーフ町(城も含む)を支配下に置いた。
 1273年にはマムルーク朝君主バイバルスはニザリ最後の要塞カワビー城に天守閣(Citadel)を造ったが、結局すべてを破壊してしまった。
 この時点からニザリ派教団は壊滅して、マムルーク朝の支配の下で服従を条件に信仰を許され、人頭税を支払ってコミュニティーを維持した。
 また解体されたカワビー城はもはや軍の目的には使われなかった。
 この城の残されたインフラ(使用可能施設)は農業用とか地元のニーズにあった目的で利用された。  この時代にシリアのニザリ教団とアラムート本部との情報交換、政策対応などが密接に行われていた証拠を示す史実が残されている。それは1238年頃シリアの山の老人が欧州へ派遣した使節団がヨーロッパに到着して、東方から新たに迫ってくるモンゴル族の脅威に対して英国、フランスに救援を要請してきたという記録がフランス国立図書館に残されている。
 実際にモンゴル軍がニザリ教団壊滅をめざして、西方遠征隊を編成して派遣した経緯が次のような歴史として残されている。1253年から55年にかけてフランス王の使節団としてフランドルの司教ルブルクのウイリアム一行がモンゴル帝国の首都カラコルムの大ハーンの宮廷に派遣された。
 彼はペルシャを通過した際に「アサシンの城砦がカスピ海の南側のカスピの山々に隣接している」と記している。
 また彼は「カラコルムに到着した際に、モンゴル帝国の入城に際してあまりにも厳重で厳しい警備体制に驚かされた。それは大ハーンがさまざまな変装をした少なくとも40名のアサシンが彼を狙って送り込まれたと聞き及んだためだ。そして大ハーンは近く彼の弟に命じて、アサシンの土地に向かわせ、彼らを皆殺しにするように命じたのである。」と記している。
 モンゴル帝国の西方遠征隊は皇帝モンケが弟フラグに命じて、1253年カラコルムを出発する。目的は三つあって、第一がペルシャで蔓延る危険なニザリ教団を壊滅すること第二はバグダートのアッバース朝を倒してイラクを支配下に置くこと、第三がエジプト、エルサレム、パレスチナ、シリアを支配下に置くこと。
 シリアの山の老人がヨーロッパへ派遣した使節団の援軍要請はモンゴル帝国の西方遠征団と符合する。この事実はモンゴル帝国の遠征の可能性を15年前にシリアの山の老人は察知していた。
 それはペルシャとシリアの教団同士が綿密なコミニケーションを行っていたことを意味している。 
 当時のペルシャのイマームは七代 ムハマッド三世(1221-1255)であった。
シリアのニザリ教団の本拠地がペルシャのアラムート界隈にあるとヨーロッパ人が認識したのはこの使節団の旅行記からであろう。
 1484年にマムルーク朝君主クァイトバイはカワビー地区や近くのアル カーフ地区の織機製品、靴の修繕、畜牛の屠殺などの掛けていた税金を廃止した。
 その後ニザリ教徒はマムルーク朝時代周辺のヌサイリー派との争いを続けながら、マムルーク朝、オスマン朝時代を生き延びた。
 そしてニザリ教徒として生きるのは非常に苦難を伴う人々はタキーヤによってニザリ派信仰を秘匿して、スンニー派や十二イマーム派、そしてイスラム神秘教団スーフィー教を装う者が現れた。アゼルバイジャンで没したニザリ派最後のイマームの血統はその後どうなったのか歴史的な史実はないが、ニザリ派からの発生として新たな宗派が二つ生まれる。一つは1375年ごろダイラム(ルードバール地方からカスピ海へ抜けるエルブールス山系の地帯ダイラム朝の里)地方で活躍していたムハンマド シャー派、もう一つがカースイム シャー派である。前者の血統は18世紀には完全に消滅した。カースイム シャー派のイマームは15世紀半頃から自分たちの本来の宗教活動の他にイスラム教神秘教団スーフィー教のタリーカ(教団)を形成して、教徒が神と一体になるための神秘的な修行を積み重ねることを指導するピール(長老)とかシャイフと呼ばれる師匠を務めていた。この頃のカースイム シャー派はニザリ派をタキーヤで隠匿しながら穏健なイスラム神秘スーフィー教団に化けているので、16世紀にはサファビー朝や十二イマーム派スーフィー教団の援助を受けて勢力を拡大した。援助の理由はまずスーフィー教というのは信仰を中心にした修行集団で政治的な意図は全く持たないこと、もう一つがサファビー朝の誕生に由来する。サファビー朝の生まれ故郷はアルダビールで、サファビー朝の王様の祖父がスーフィー教団のピールとして多くの奇蹟を起こしたために沢山の信者が集まり、それが大きな勢力に成長してサファビー朝に成長した。シリアのニザリ派は大部分ムハンマド・シャー派であったが18世紀には消滅してイマームの存在が確認されなくなると、インドへ使節を派遣してイマーム捜しをしたが果たせず、一部はカースィム・シャー派に帰依するようになった。その後カースイム シャー派は多くの歴史的な紆余曲折を経て、この派のイマームが19世紀のニザリ派のアーガー・ハーンの誕生に繋がる。現在のアーガー・ハーン四世がニザリの血統を継いでいると言われている。ご存知の通りイギリスの貴族として殿下の称号で呼ばれる彼はアーガー・ハーン開発財団を組織して、パキスタン、アフガニスタン、イラン、シリアなど第三世界各国で社会福祉活動を行っている。またシリアのニザリ派の有名なマスヤーフ、カドムース、バニヤース城の修復と歴史遺産として保護活動もしている。
 ヨーロッパの競馬界では最強の競走馬の馬主としても有名である。

5.あとがき


 ご存知の通りシリアはアサド大統領が統治するシリア政府、この政府に挑戦する反政府ゲリラ、そしてイスラムISの壊滅のために戦うイランの応援するシーア派教徒も含むイラク軍と混乱の極みを見せつけている。このような事態はアメリカが世界の警察官を降りたことが原因だという世評もあるようだ。 しかし国際的に誰もこの問題を解くカギを持っていないことは成り行きに任せている現状を見れば一目瞭然だ。今世紀最大の政治的な難問を世界に問いかけてきた。
 暗殺教団の話は十字軍物語などで欧州側から見た視点で興味本位に書かれているが、本稿ではペルシャ側からのアラムート本部の政治的、宗教的な変化がシリアの教団にどのように影響したのか、そしてそれが西欧にどう捉えられたのかを明らかにしたかった。また従来の歴史家が指摘してなかったハサンのエジプトの旅でセルジューク朝のシリア ダマスカス侵攻との邂逅や当時のシリアの民族、宗教、地理などの情報収集は私の憶測ではあるが、大いにハサンには役に立ったであろうと確信している。
 このレポートは下記の参考文献から時系列的に拾い集めて整理して編集したものであるが、シリアという国が如何に難しい宗教的な遍歴を辿っていたか。その一端をご理解いただければ幸いである。

参考文献

モンゴル帝国史             ドーソン著
The Secret Order of Assassins マーシャル ホジソン著
The Assassins        バーナード ルイス著
The History of the World Conqueror マリク ジュヴァイニ著 アンドリュ ボイル英訳
The History of The Assassins :Derived from Oriental Sources Joseph Hammer著
ゾロアスターの神秘思想   岡田明憲著
空海とヨガ密教       小林良彰著
世界の歴史 イスラムの時代 講談社
WIKIPEDIAで集めた城の情報
平成27年4月30日