イラン病患者からのレポート 第十二話(2) 暗殺教団の城(ペルシャ篇)
アラムート城
北島 進  
2.本拠地ペルシャで活動

2.1 ハサンの布教活動と拠点探し(1081−1090)

   ハサンはイスファハーンに帰還すると9年間彼は布教活動の任務について広くペルシャ中を旅した。彼の自伝の中で、当時の模様を次のように語っている。“イスファハーンから私はケルマン、ヤズドへ向い、そこでしばらくの間宣教活動の指揮をした。” 現在のホーラサン、トルクメニスタンのメルヴ、ペルシャ湾方面にも及んだ。
   徐々に彼はペルシャの北部、ギーラン州、マーザンダラン州というカスピ海地方、特にダイラムとして知られる山岳地帯に注目した。カスピ海沿岸とイラン高原を南北に分断するのがエルブールス山脈である。このダイラムは、この山脈の首都テヘランより西側に位置するギーラン州の山中に広がる地域である。
   特に山岳高地ダイラムは地形的にも他の地方とは著しく異なって急峻な山並みに囲まれて容易に近づけない、またその住民も一般のイラン人にも馴染まない危険な人々とみなされていた。何故ならば彼らは好戦的な独立心の強い人々だった。また8、9世紀頃スンニー派のウマイア朝(注1の最後のところ参照)、アッバース朝の執拗な攻撃にも屈せず、独立を保った地域であった。
   そのような理由から、この地方は歴代の王侯貴族の末裔が生き延びる隠遁地帯だった。例えばシーア派の初代イマームでマホメットの娘婿アリーや二人息子もスンニー派のウマイア朝に殺されが、生き残った末裔はこのダイラムに避難し保護された。その結果この地方はシーア派活動の中心地となった。またブワイフ朝(932−1062)注12の誕生である。この王朝を興したのはブワイフというダイラム出身の豪族で、シーア派を信奉するブワイフ家の三兄弟である。10世紀初めに好戦的で屈強なダイラム人歩兵部隊を率いる軍人として、当時イラン北西部マーザンダラン州を支配した王朝に仕えて台頭し、932年にイラン南部のファルス地方に進出して、ここにブワイフ王朝を確立した。軍事力で勝るこの王朝は首都シラーズからイラクに進出して、バグダートのアッバース王朝からイラク地方の世俗支配権をもつ大アミールに任命されて、バグダートのカリフの後見人として振舞ったが、スンニー派のセルジューク朝が東からファルス地方に侵攻して、ブワイフ朝は1062年に滅びた。またササン朝ペルシャの最後の王ヤズドギルドの末裔は同じくこのダイラム逃げ込んで生き延びた後、13世紀その末裔の一人がアルダビールに呼び戻されて、スーフィー教団の長老として活躍した。その長老の孫が16世紀にサファヴィー王朝を建国した。
   この地方は紀元前1500年ごろからペルシャ人の先祖アーリア民族が南欧から南下して、カスピ海を渡って移り住んだ土地でもあった。エルブールス山脈の北側は降水量が多く、農耕が盛んで、その主なものはタバコ、お茶、米、桑などであった。
   経済的には恵まれていたために、豪族の墳墓が多く発見されている。その墳墓にまつわる面白い話として、松本清張氏の“ペルセポリスから飛鳥へ”という著書の中に次のようなことが述べられている、東京大学のイラク、イラン遺跡調査隊員が1964年ごろにテヘランの骨董屋に立ち寄ったところ偶然に村民の盗掘者による白瑠璃碗の持込があった。そしてこの種のガラス容器はギーラン州の州都ラシットから少し東よりのルードバール地方にあるデーラマン渓谷に散在するお墓から出土していることが知られるようになった。
   更に著書は続いている東京大学イラク、イラン遺跡調査隊が1956年から1965年までの10年間、このデーラマン周辺の考古学的発掘を行った。

   この白瑠璃碗が正倉院の聖武天皇御物として知られる有名な白瑠璃碗である。
   デーラマン渓谷はギーラン州都ラシッドとランブサール城の中間に位置する山岳地帯である。(上図参照)このような歴史的な背景を勘案するとイランにも日本にも見逃せない土地柄であるが、観光的には全く見過ごされている。
   さて本論に戻って、ハサンが旅した当時、ダイラム地方にもセルジュークの脅威が迫って来た。
そしてこの9年間の宣教遊説の旅を通して、彼は単に民衆のイスマイリ派への改宗の運動だけではなく、自分達イスマイリ派の活動拠点探しにも専念した。ハサンが拠点選びに一番配慮したのは次の3点であった
1. 住民にシーア派、イスマイリ派が浸透していること。 
 2. 都市から遠く離れて古い伝統的な生活習慣が残り、セルジューク朝に不満を抱く人々の地域。
都会人は宗教的に啓蒙されているので、殉教的な自己犠牲を強いる刺客の養成や武闘的で過激な教義にはなじまないとみなしたのかも知れない。この頃のハサンの主導したニザリ派(注5)の教義は革新的なイスマイリ派のそれとは相当かけ離れていた。 
3. 容易に接近できない急峻な山岳地帯で天然の堅牢な要塞の存在。
   そして彼は一通りペルシャ全土を旅した後、バグダードから中央アジアへの幹線道路シルクロード沿いのダムガーンで三年間滞在していた。そして三つの条件に適うところとして、ダイラム地方に着目した。
   セルジューク朝に対して戦いを容易に指揮出来る場所で、それでいて人里離れた接近困難な難攻不落の要塞を探すことに努めた。
   その結果行き着いたのがアラムートである。

2.2 イスマイリ派の教宣、自治領拡大戦略

   ハサンがアラムート城を獲得すべく活動を開始した時、セルジューク朝の中心都市イスファハーンやシーア派の宗教都市コム、レイでもイスマイリの宣教師が活動していたので、いつスンニー派との衝突が起きてもおかしくなかった。最初に起きた殺傷事件とはレイやコムからそう遠くないサーヴェと呼ばれる小さな町で起こった。十八人のイスマイリ派信徒が集まって独自の礼拝を行ったというので、警察署長に逮捕された。これはどうもイスマイリ派がセルジュークの礼拝に対抗して、従来イスマイリ派ではなかった礼拝を故意にやったらしい。
   これは彼らの最初の集会だったので、尋問の後釈放された。その後イスファハーンに住んでいたサーヴェ出身のスンニー派の礼拝召集係をイスマイリ派に改宗させようと試みた。だが彼に拒否されたので、彼がセルジュークに密告するのではないかと恐れて殺害した。これがアラブの歴史家イブヌル アスイールによるとイスマイリ派による殺害の最初の犠牲者だった。この殺人の知らせがセルジュークの宰相ニザーム アル ムルクに伝わり、彼はその張本人の処刑を命じた。このような状況下、ハサンはセルジューク朝に対抗するには速やかにアラムート城を獲得して、そこを根拠地としてルードバール地方全体をイスマイリ派教団の自治領とすべく、ダムガーンから宣教師をルードバール地方へ送って、好戦的で不満を抱いた住民に闘争的な宗教心情を強力に訴え続けた。
   このようなハサンの活動はセルジュークの宰相(ニザーム アル ムルク)の注目の的となり、レイの当局に彼の逮捕が命ぜられた。
   ハサンはルードバールでの宣教師による改宗活動の成果を受けて、更に彼らの活躍を強く指揮し援助する為に逮捕状の出ているレイや都市を避けて、山道を通って遊説に都合の良いガズヴィンに移動した。
   そしてガズヴィンから一人の宣教師をアラムート城に送った。その後の狡猾な手段によって無血で奪い取ることに成功した。詳しいことはアラムート城の項で述べる。
年代順に追っていくと次に狙いをつけた城郭はゲルドクーであった。
   この城はバグダートから中国長安に通ずるシルクロード上にあって、西からバグダード、ハマダーン、ガズヴィン、テヘラン、ダムガーン、ニシャプール、マシャッドという幹線道路のダムガーン市の近くに位置し、当市からエルブールス山脈を越えて、カスピ海方面のマーザンダラン州に通じる道路が伸びているという戦略的に重要な城であった。ハサンは1096年にこの城の略奪を計画した。この城はハサンが既に三年間滞在したダムガーンの近郊にあったので、この時既に詳しい情報は知っていたと思われる。
   あの時はダムガーンからアラムート攻略に宣教師を派遣したが、今度はアラムートからダムガーンに密使を派遣した。この略奪作戦はニザリ派の暗殺計画にも執られる常套手段で、無血で城の略奪に成功する。
   この城の特筆すべきことは近代に入ってから今日まで世界の歴史家、探検家の誰一人として、この城を訪れたことがないので、学会では所在が不明となっている。添付写真は古い出版書からのものである。
   詳細はゲルドクー城の章で述べよう。
   そして三番目に狙ったのが、ランブサール城であった。歴史家ジュワイニはハサンがこの村(現在はラズミアン)に来る前に度々ラミアサールの領主に譲ることを交渉したが、ことごとく拒否されたと伝えている。
   ハサンが編成した軍隊に彼の後継者を司令官に1102年9月に夜襲をかけて、城内の人々を虐殺して城を乗っ取ったと言われている。
  ただガズヴィン市のホテル“イラン”のマネジャーは外国人を暗殺教団の城に有料で案内してくれるが、彼の話では城の領主がイスマイリ派の教義に賛同して、譲り渡したと語っていた。
   しかし歴史家ジュヴァイニは次のように記している。“ハサンはアラムートに隣接する地域あるいは近傍を奪う為にあらゆる努力をした。可能なところでは彼は巧みな宣伝によって人々を味方に引き入れ、一方では甘言にも動じないような土地には虐殺、強奪、略奪、流血、戦争という手段を使って手に入れた。彼は取り得るだけの城を取り、適した岩を見つけてはその上に城を建てた”
   出来ることなら支配下に置く地元の民衆とは良好な関係を維持したかっただろうが、当時のセルジュークの脅威が迫ってくる中で、悠長なことは言っていられなかったことだろう。
彼が最終的に描いたルードバールのニザリ教団の自治領国家の全体像がどのようなものかは判らないが、現在イラン文化遺産局がアラムート城の調査修復をしている現場に掲示されていた13世紀のルードバール地方の教団地図にホテルマネージャーがランブサール城に行く途中で、説明してくれた、狼煙による情報ネットワークを記入したのが添付ルードバールの地図である。この地図から読み取れる重要な点はシャールード川が流れている平坦なルードバール地方は西側と東側からの敵の侵攻が弱点であるために、東のタラガン川や西のシャールード川の支配地域を出来るだけ長く伸ばして、そこの監視用の城や塔を建てようとした。東はこの図にはないが序文でも述べたとおり、タラガン川上流の工事現場の近くのジョエスタン村、パラチャン村にアフマド ラーシェ城更にカンダヴァントンネルの下のギャタデイ村にはドホタール城があった。また西側には1962年マンジルダムの建設で水没したサミラン城があった。
   南方のガズヴィン側からの侵攻には途中に高い山脈が横たわっているので、敵の動静は教団の城から容易に把握できる。城の背後からは3000m以上のハウデガーン山とエルブールス山脈が東西に横たわって、そこを越えて進入する事は不可能である。
   このようにして11世紀から13世紀にかけて、世界の君主や教祖、法官、宰相、市長などを恐怖のどん底に陥れた世界最初のテロの自治領国家の中心拠点の全貌が明らかになった。
   最盛期にはシリア、ペルシャ、トルクメニスタンなどに約300以上の暗殺教団の城があったといわれている。

3.暗殺の社会的背景と組織

3.1 ハサンは何故暗殺という手段を使ったのか

   ビイ ルイス著“暗殺教団”の中で暗殺という社会現象を次のように述べている“暗殺という殺人は人類誕生と同じぐらい古い現象である。だからニザリ派が暗殺という手段を編み出したわけではなく、彼らはアサシン(注13)という命名に利用されただけであった。
   洋の東西を問わず政治的な殺人は政治権力の出現に従って、権力が一個人に帰属していれば、その個人の除去が政治的な変化を敏速に且つ簡単にもたらす方法として歴史的に認知されていた。特に独裁的な王朝や帝国で頻繁に起こされてきた。だからイスラム政治史でも草創期から多くの暗殺という血なまぐさい事件で覆われている。“

   今でも骨肉の争いの象徴であるスンニーとシーアの怨恨の歴史を省みると次のようになる。
マホメットの後継者としてイスラム共同体から選ばれた4人のカリフの内、三人が暗殺されている。
   第二代ウマルは個人的な怨恨によって、奴隷のキリスト教徒によって刺された。三代目ウスマーンは注1で述べたようにウマイア家を偏重したために内部からの恨みをかって暗殺された。ウマイア家の一族だったシリア総監ムアーウイヤが王殺しの犯人の処罰をウスマーンの後継者アリーに要求したが、彼は対応出来なかったか、気が進まなかったので、放置した。
   この件でアリーの支持者(将来のシーア派)はウスマーンが圧制者であったから、彼の死は処刑であり、暗殺ではないと主張した。
   その後アリーは一人の狂信者によって倒されたのであるが、これと同じ論法で殺害されたことをスンニー派の支持者は正当化したのである。
   シーア派の二代目イマームで教祖アリーの長男ハサンはイラクのクーファでスンニー派ムアーウイヤ(シリア総監)とのカリフ継承で対立し結局ムアーウイヤの陰謀で毒殺された。三代目フセインもムアーウイヤの建国したウマイヤ朝によって暗殺された。
   これらのことから結論として、ビイ ルイス著“暗殺教団”の中で、概略次のように述べている。権力を掌握した者はそれを脅かす者を事前に摘み取るために、あるいは権力闘争中の相手を暗殺で排除することは常套手段だった。そして暗殺の正当性は常に勝者の権力者側によって、国民に容易に認知させることが可能であった。
   イスラム教の中でもコーランの次に重要な伝承
(伝承とはマホメットの言行であるが、それが宗教、倫理、法慣行の基準となった)では反逆の原理をある程度認めている。これは君主に対して独裁的な権力は認める一方、一旦その命令が正義に反して罪深い時は配下の者は服従する義務が消滅するという。これはイスマイリ派の誕生時にイマームは神の霊感によって行動し、絶対に誤りを犯さないものであり、言い直し、訂正などできないものである主張した教徒が後継者の変更を宣言して言い直したイマームに反対してシーア派から分かれた史実にも現れている。また神に敵対するような人物には服従してはならないとも規定している。だが命令の正当性を判断したり、罪深い人物への不服従の権利行使の具体的な手続きが規定されていないから、良心的な配下が頼りにする唯一つの手段は君主に反対して、彼らの集団の政治力で圧倒して廃するか、彼を暗殺して排除することであった。この古いイスラムの伝統によって、不当な人々やその手先を殺す為に刺客を送って暗殺するというニザリ派の行為を正当化出来た。

3.2 暗殺を実行する為の組織と思想

   ビイ ルイス著“暗殺教団”によると暗殺という“テロを持続させるには次の二つの条件が必須だった。
   それは組織とイデオロギーである。そこには攻撃を浴びせることと逃れられない反撃を切り抜けることが可能な組織であり、また刺客は死の間際まで自分を鼓舞し続ける信条の確立である。
それはギリシャ哲学を習合した洗練されたイスマイリ派の教義を徐々に捨てていき、友愛諸団体の間に普及した信仰により近い形態の宗教を採用した。”
一方イラン人歴史家ジョヴァイニは次のように述べている。“城の教主や司令官は在職している間は一人の女性も同居することはしなかった、ほとんど修道院の規約に近い規則を採用した。”しかしハサンも二代目ブズルグ ウンミートも息子を持っていたので城には住まわせなかったということだろう。更に同著ではその思想を次のように述べている“ニザリ派の宗教は神と人間との果たすべき契約の下で、それに伴う受難や殉教を正当化して、それに奉ずる人々に尊厳と勇気を与え、決して生きて帰れない自己犠牲を吹き込むことに成功したものであった。自分の教主のために死を賭けて、いや死を求めてさえいた刺客のこの忠誠心というか誓いの心というのは12世紀のシリアに於ける十字軍とニザリ派教団との接触でヨーロッパに伝えられ、アサシンという語源とともに絶対的な忠誠心、信義、自己犠牲を表す代名詞に使われたほどである。例えば恋文の筆者は愛人に次のような表現をした“われは御身のアサシン。御身の命を果たして楽園を得んと欲する者。”1095年以降のハサンの創り出したニザリ派の新教説による刺客養成に使われた教義では“殺害は単に神への敬いの行為だけではなく、神秘的な儀式の伴った聖餐の性格を持っていた。それはペルシャでもシリアでもすべての殺人に、常に一本の短剣を使い、毒薬や飛び道具の方が簡単で安全な場合でも決してそれを使うことはなかった。
   刺客はほとんどその場で捕らえられ、また逃げることもほとんど試されていなかった。使命の終わった後まで生き残ることは恥ずべき行為であったとされたのである。
   政治的な武器としてテロを計画的、組織的、且つ長期にわたって使用したのはイスマイリの暗殺団が歴史的には最初であった。
   アサシンには狂信的な情熱だけではなく、冷静な計画が敷かれていた。まず難攻不落の城は安全基地の獲得であったし、伝統的なタキーヤの原理(それは自分の信仰が同信者の生命や財産を危険に曝す場合自分の信仰を隠蔽して、都合の良い宗派に成りすますこと。それによってスパイのように敵の懐に侵入するのがニザリ派の常套手段)を応用した秘密の厳守規則は安全と団結に役立った。
   そしてテロリストの仕事は宗教的活動と政治的活動によって支えられていた。
    しかしハサンは布教がいくら進んでもセルジューク朝の武力に対抗して、それを負かすことは不可能だと判っていた。それで彼は訓練された献身的な小部隊が圧倒的に優勢な敵に対して、効果的に撃ちかかることが出来る方法として暗殺というテロリズムを採用したのである。
   このテロリズムは個人的で一時的な忠節に基づく集権的、独裁的権力支配の下で、特に有効な手段であるとハサンは看破していた。この君主政体の弱点を看破した彼の行政的、軍事的才能は非凡なものであった。

   この非凡な才能も実はシーア派はイマームの継承の絶対的な条件を預言者マホメットの血統を受け継ぐ者とされるので、敵対するスンニー派からは常に限られた血筋の継承者が暗殺の標的になり、イマームの不在が度々生じる原因になったと筆者は考えている。だからハサンはこのシーア派と集権的、独裁的権力支配国家の持つ共通する弱点を認識していたのではないかと思われる。
   一方テロイズムが通用しなかった例として、シリアに於ける十字軍との戦いで、ニザリ派の教主はテンプル騎士団とホスピタル騎士団に貢物を支払った。それは彼らがアサシンを全く恐れなかったからだ。(むしろ暗殺教団の方が無駄な摩擦を避けたい為に貢をしたと思われる。)何故ならばテンプル騎士団とホスピタル騎士団の司令官が殺されても、速やかに別の適当な人物かそれにとってかわるのが常であったからだ。この二つの騎士団は制度化された構造と階層と忠誠によって統合された団体であり、暗殺という攻撃を無力化する組織であった。

3.3 刺客養成組織

   ペルシャの刺客養成に関する信憑性の高い資料は残されていない。しかしシリアに於ける暗殺教団の活動の実態が十字軍の年代記作者によって記録されている。
それによると次のように述べられている。“イスマイリ派の長老は山岳地帯に多くの美しい宮殿を持っているが、非常に高い城壁によって囲まれている為に、小さくてしかも堅牢に守られた正門以外には誰も宮殿に入ることは出来ない。この宮殿に於いて長老は支配下にある多くの農民の息子たちを幼少時代から養育し、ラテン語、ギリシャ語、ロマンス語、サラセン語その他多くの言葉を教え込んだ。彼らの青年期から成年に達するまで、教師から自分達の国の長老のすべての言葉や命令に服従すべきこと、そして彼らがそのようにするならばすべての生ける神々を支配する彼らの長老によって楽園の歓喜が与えられることを教授される。また彼らが何事に於いても長老の意思に従わなければ救済は望み得ないことも教えられる。ここで注意すべきことは、子供のときに引き取られて以来、彼らは教師や師匠以外の誰とも会うことがなく、誰かを殺す為に長老の前に呼び出される時まで他の事は一切教えられないということである。そして長老に呼び出されて、彼の面前で彼らは楽園を授かるために長老の命令に喜んで従うかどうか尋ねられる。ここにおいて彼らは教えられてきたように何の異存や疑問も持たずに長老の足もとに身を投げ出して、長老が命ずるあらゆることに従うことに熱意をこめて申し述べる。
   そこで長老は彼等に一振りの黄金の短剣を授けて、長老が目星を付けた君主を殺す為に彼らを送り出すのである。“
 写真右側に立っているのが山の老人ラシード ウッデイーン スイナーンである。
   わが国で広く知られている物語は1270年頃マルコ ポーロがペルシャを旅した時に村民から聞いた話として東方見聞録の中の“山の老人”として紹介された。
   それは次の通りである“ムラヒダ地方には、昔山の老人が住んでいた。ムラヒダとは異端の棲家という意味である。私は土地の人からその話を聞いたから、詳しく話をしておこう。山の老人はアロアデインといったが、彼は山の谷間を囲い込んで、今までになかったほど大きく美しい庭園とし、いろいろな果樹を植えた。中には想像も出来ない様な綺麗な楼閣と宮殿を建てた。
   すべて金箔を張り、鮮やかな色を塗った。幾つかの川には葡萄酒、牛乳、蜂蜜、水がそれぞれ溢れるように流れていた。妙齢な美女が楽器をかきならし、上手に歌い、見事に踊った。マホメットは楽園について、そこには葡萄酒、牛乳、蜂蜜、水の流れる暗渠が走っており、入園者を喜ばせるために多くの美女が居る、と述べているが、山の老人はこれを基にして庭園を造ったのだが、この地方のイスラム教徒はこれこそが楽園だと信じていた。
   彼はアサシン(刺客)に仕立てる人を除いては、誰も庭園には入れなかった。入り口には世界を相手に出来るほど強固な要塞があり、他に入り口はなかった。彼の宮廷には、この辺の12歳から20歳までの武術の好きな少年を多くおいてあった。彼らは老人からマホメットの言う楽園のことを話される。その後一回に4人、6人、10人ずつ庭園に入れられるのだが、まず一服をもって深い眠りに落とした上で、運び込む。目が覚めると庭園にいたことになる。彼らは周囲の素晴らしい光景を見て、これこそ楽園だと信じ込む。美女たちは満足のいくまで接待し、青春の喜びを満たし、彼らはここから出たいなどとは考えなくなる。
   山の老人と呼ばれている君主は、宮廷を豪華にし、素朴な住民に、彼こそ偉大な預言者だと信じ込ませている。彼が何かの目的でアサシンを送ろうとするときは、前と同じように、庭園内に居る少年の一人に一服盛って眠らせ、宮廷に運び込む。目を覚ました青年は、自分が城に居るのに気づき、面白くないと思う。
   老人は彼を呼び出し、何処から来たかと聞く。彼が、楽園から来ました、そこはマホメットが述べている楽園とそっくりですと答えるのは当然である。そこで老人は「これこれの人物を殺して来い、帰ってきたら、天使がお前を楽園に連れて行く」という。青年は楽園に帰りたいという希望から、死の危険をも犯して、この命令を遂行することになる。こうして山の老人は意のままに誰でも殺すことが出来た。またこれによってすべての君主たちの恐怖心をかきたてたので、老人に平和な態度をとってもらいたいばかりに、彼らはその臣下となった。山の老人は何人かの部下を持ち、かれらはこのやり方をまねて、全く同じ事をやっていた。その一人はダマスクス領内に、一人はクルデスタンに派遣されていた。“
   マルコが1270年に旅したペルシャでは1256年にアラムート城がモンゴル遠征軍のフラグ司令官によって壊滅した事件の後、丁度同じ1270年にゲルドクー城が14年間の篭城の末モンゴル遠征軍に投降した事件が重なった。だからこの物語は現地の生々しい情報を元にヨーロッパに伝わった伝記と融合してドラマテックに創作したのではないかと推察される。
   ムラヒダ地方とはニザリ派の人々をムラヒダと呼ばれていたので、彼らの住む地方ならばルードバール地方であるが、マルコは当時のこの地方の名前を知らなかったのだろう。
   アロアデインという名前は歴代の暗殺教団の教主には見当たらない。
   “山の老人”という言葉は十字軍伝記作家によってシリアの暗殺教団の長老に付けられた名前で、当時ペルシャにはない言葉であった。
   シリアの山の老人は教団を最も繁栄させた長老ラシード ウッデイーン スイナーンを指していると伝えられている。
   また“その一人はダマスクス領内に、一人はクルデスタンに派遣されていた。”この文章は1100年頃にハサンがシリアやイラク、イラン、トルコの国境の接するクルド族の住む地域へ宣教師を派遣したとジュヴァイニは語っているので、マルコの話はアラムート城のハサンの布教活動と一致する。マホメットが描いた楽園を山の老人はアラムート城に再現して、そこにレイやコム市から屈強な若者を馬で連れてきて、この極楽園で青春を謳歌させるのだが、楽園に連れて行く前に一服盛って眠らせる、また楽園から連れ出す前に同じように一服盛って眠らせるという風景は千一夜物語に出てくる謎めいたアラブ風な儀式を連想させる。
   一服盛ったというのは注13アサシンで述べたように、それはインド大麻である。
   イギリスやアメリカの研究家が出版している書籍に使われる大麻吸引の様子が次の写真である。
   イランではパーレビ朝時代に65歳以上の者には薬局で、身分証明書を提示すれば生アヘンを買うことが出来た。それはお金のない人が歯痛みや頭痛、老人の憂鬱症から解放される媚薬と見なされていた。従って大麻などは全く自由であった。送電線工事で採用したアメリカ、イギリスに留学したイラン技術者も時には大麻を吸っていた。彼らはまず大麻の種を植えることから始めて、成長すると丸い実のなる雌木だけを選んで、木の根元を紐で縛って、日陰で逆さに吊るして乾燥する。後は葉だけを収穫して、紙の上で手もみして細かくする、一方紙巻タバコから葉を取り出して代わりに大麻を詰め込む。後はタバコと全く同じように火をつけて吸引する。
   11世紀頃には紙巻タバコはなかったので、写真のようなキセルを使ったのだろう。

3.4 暗殺執行の仕組み

   この話を始める前に暗殺教団が1256年にモンゴル帝国のペルシャ遠征軍によって滅ぼされたが、そのキッカケを作った話題から始めよう。
   ドーソン著モンゴル帝国史によると1253年にモンゴル帝国の皇帝モンケはペルシャ遠征に弟のフラグを司令官に任命した。その時モンケは何よりもまずニザリ派教徒を根絶するように命令した。話は溯るが、モンケは昔トランスオクシアナ出征中だったある日、ペルシャのガズヴィン市の大法官が鎖帷子(鎖カタビラ:鎖の陣羽織のようなもの)身に着けて自分の前に現れたのに驚いたことがあった。モンケはこの法官にその理由を尋ねた。彼はニザリ教徒の短刀から身を守る為に、常に衣服の下にこのような鎧を着けているのであると答え、さらにこの機会をとらえて、彼はこの大胆不敵な教派の陰謀についても詳しく述べたので、この話がモンケの心に生々しい印象を刻み付けていたのであった。実際にこの法官のガズヴィン市はニザリ教国とは僅か一つの山脈で隔てられていて、この山脈の北の裏が彼らの本拠地(アラムート)であった。この都市の住民は彼らの攻撃にさらされて、常に警戒して生活していた。
   この話から推察するとハサンが使った暗殺執行の仕組みはアラムート城におけるイスラム教のコーラン、伝承を厳格に守った彼自身の厳粛な信仰生活者からはかなりかけ離れた冷酷で狡猾なものであった。
   その仕組みを歴史の中から拾っていくと次のような多くの話題が出てくる。まずハサンの最初の暗殺事件を再びビイ ルイス著“暗殺教団”から引用すると、“1092年に大セルジューク朝の宰相ニザーム アル ムルク(レイ市の当局にハサンの逮捕状を出させた)がネハーバンド地方のサフネという町に設けた謁見所から婦人たちの居るハーレムへ御輿で運ばれていた時スーフィー(注10)僧に変装して近づいた刺客によってナイフで刺されて殉死した事件だった。
   ドーソン著モンゴル帝国史によると“防備を施された岸壁の頂上(アラムート城)からハサンはその敵の生死を自由にし、彼の友人が殺そうと欲していた人々を殺した。というのは、彼は大セルジューク朝宮廷の有力な人物たちと密かに共謀して、刺客たちに恐るべき短刀を自由に使わせて、ハサンは共謀した相手の功に報償を与えたからである。”この一連の共謀はセルジュークの遠征軍によってアラムート城が攻撃された時にも、使者をセルジューク宮廷に送って、攻撃を中止させることに成功している。
   ハサンの戦い方は、“いたるところに(敵の内部に)タキーヤの原理を使って刺客と秘密の縁故者やニザリ派教徒が潜伏していたが、これらの者は彼らの敵に対しても、またその友人と考えられている人々にとっても危険な存在であった。敵と思っていた者はいつも脅かされる思いを抱いて警戒して生きていたし、友人と考えていた者も常に疑惑を持たれ捜査されて、場合によっては拷問にかけられ殺された。
   自分の敵を破滅させようと欲する者は誰でも、それがニザリ派の一味であると言って非難すればよかった。
   その結果密告が増えて、あらゆる人々が嫌疑をかけられた。大セルジューク朝マリク シャー一世(1072-1092)は最も親密な臣下さえ疑っていた。そして悪意ある者は彼のところに容疑者を届けようと努めていた。ニザリ派の教義に賛同したことを非難されて、その臣下に虐殺されたキルマーン王(ケルマーン州を統治したセルジューク朝の王らしい。トウーラーンシャー一世(1084-1096)ではないか)の運命を目前にした彼がニザリ派を攻撃する方策をとったのは、彼自身がニザリ派とぐるになっていると疑われるのを避けるためだった。マリク シャー一世の子バルキヤールク(1094-1105)はその即位のはじめに、一人のニザリ教徒に刺されたが、その傷は治した。当時彼の幕営には多数のニザリ教徒がいた。彼の将軍たちはすべて日中、鎖帷子を身に着けて、夜は天幕の中でも安全な状態だとは思っていなかった。
   大セルジューク朝スルタン バルキヤールクがハサンの宗派に対して好意を抱いていることを非難する風評があった。
   この噂に驚いたバルキヤールクはその軍の中で厳しい捜索を行うよう命令したが、はたして多くのニザリ教徒が発見され、彼らは処刑された。また諸州で発見されたニザリ教徒はすべて処刑にするよう命令が発送された。バルキヤールクの弟でその後継者ムハンマド タパル(1105-1118)の治世にスルタンの命令によりアラムートとランブサール城への食糧を断ち切るためにルードバール地方の農作物を七年間引き続いて破壊させたが、ついに1117年に城を包囲することに成功した。アラムートは長く持ちこたえられないだろうとみられていた。ところがムハンマドは偶然にもその年に死に、その子のアフマド サンジャル(1117-1157)の治世の下で、その宮廷の要人たちは密かにハサンと内通して、敵対行為を中止させた。
   しばらくしてホーラサーン州にも君臨していたスルタン サンジャルはニザリ派によって占領されていたクーヒスターン州の諸城塁を奪い返す為に軍隊を派遣したので、ハサンは彼に使節を送って和睦を求めた。
   しかしこの企ては失敗したので、ハサンはスルタンの廷臣たちを買収して、自分のために弁護させた。さらにハサンはスルタンの待者の一人に命じて、スルタンの睡眠中にその寝台の前の床に一本の短剣を突き立たせることさえやらした。サンジャルは目を覚まして、この刃物に気がついたが、誰にこの疑いをかけたらよいのか判らなかったので、この事実を誰にも漏らさないことに決心した。やがてサンジャルはハサンから短い書付を受け取ったが、それにはこう書いてあった。「もし私がスルタンに対して好意を抱いていなかったとすれば、床の上に立てられたこの短剣は貴下の胸に突き刺されていたでしょう。この岸壁の頂上(アラムート城)から私は貴下の周辺の人の手を遠隔操縦していることを承知あれ」と。
   この行為はサンジャルの心に非常な衝撃を与えたので、彼はニザリ派と和睦しようと心が傾いた。そして彼はその長い治世の間、もはやニザリ派の討伐のことに心を煩わさなかったので、彼の治世こそニザリ派の勢力が最大化した時期だった。
   皇帝モンケの法官とは別の話として、1108年にはイスラム法学博士(法官)が法の解釈について下す判決書をガズヴィン市に提出した。その中でニザリ派教徒は背教であって、彼らとはいかなる関係も持たないように勧告して、こう述べた。“何となれば彼らは狡猾な人々である。もし貴方たちが彼らと交渉を持つならば、彼らは貴方たちの仲間を誘惑して、その結果貴方たちの仲間同士で不和が起こり悩まされるだろう。”それで彼らは勧告に従って、ニザリ派(ルードバール)の地方から来た人々をすべて殺した。しかしこの法学博士が地元に帰るや、刺殺された。
   またニザリ派の第五代教主ムハンマド二世(1166-1210)の治世に正統派(スンニー)の著名な法学博士が地元レイ市で神学の教授をしていたが、彼は聴衆に対する講義の中でニザリ派の教義を論駁する機会があれば、ニザリ派を口にする度に“願わくば神が彼らを呪い滅ぼしたまわんことを”と付け加えた。
   これを聞いたムハンマドは自分の腹心の刺客をレイ市に派遣して、学生の服装に変装して、博士の講義を聴講し続けて、好機を見計らって、住家を襲おうとした。そしてついにこの刺客は博士が居室に一人で居るところを襲い、門を閉め短刀を引き出し、これを博士の胸の上に置いた。博士は恐怖の念に陥り、自分は何をしたというのだと問うた。刺客は博士に“なぜ貴方は絶え間なくニザリ派を呪うのか”と言った。博士はもう二度と彼らの事は話さないと誓約をした。刺客は博士が本気でこの誓約書を守る気があるのかと尋ねたら、博士は襟を正して厳粛な態度で約束を守ると言ったので、短刀を引いて、博士にこう言った“私はまだ貴方を殺せとはとの命令は受けていない。そうでなければ誰も私を妨げるものはいない。私の主君ムハンマドは貴方に挨拶を伝え、そして主君は俗人の演説なら恐れるに足らないが、貴方のような著名な法学者の口から出た言葉は人々の脳裏に長く残るから、貴方の言葉を恐れるものであると伝言している。私の主君は貴方が来訪されることを願っており、貴方自らがその高い尊敬を示されることを希望している”と。博士はこの申し出を辞退した。しかし博士は今まで主君を侮辱するようなことは決して言わなかったと弁解した。刺客はそこで1200グラムの金貨の入った袋を彼の前に置いて、毎年これと同額のものを差し上げると言って、刺客は姿を消した。しばらくして門弟の一人が博士に対して、なぜニザリ派をもはや呪わないのかと尋ねた。博士は“どうもしようがない。かれらの議論ははっきりしているのだ”と答えた。冷酷無比な暗殺教団と思っていたが、こんな温情な手心で待遇したこともあった。またこんな話も伝えられている。
   1198年ごろニザリ派はガズヴィン市から少し離れた高山の頂上に建つアスラーン グシャーイ城を占領した。この危険な隣人に苦しめられたこの都市の住民は数人の王侯に救援を嘆願したが、無駄だった。それで彼らの長老達の一人で聖徳の誉れの高いイオニア人のアリーという者がホラズムのスルタン テキシュに申し入れをして、この王侯が救援に来させることが出来た。この城はすぐに包囲されて、城中の人は降伏し、強力な駐屯部隊を受け入れた。しかしホラムズの軍隊が撤退するや否や、ニザリ教徒は敵の知らぬうちに開いておいた地下道を通って、夜間に城中に入り、駐屯部隊をなぎ倒した。長老アリーは再びホラズム シャーの救助を嘆願しに行った。テキシュはその軍隊とガズヴィン市民の連合軍がアスラーン グシャーイ城を攻撃して包囲した。二ヶ月間の抵抗の後、ニザリ教徒は開城降伏を乞い、退却の許しを得た。彼らは二つの部隊に分かれて撤退するが、第一部隊がつつがなく撤退させてくれれば、第二部隊もこれに続いて撤退するが、もしそうならない場合には防衛を継続すると声明した。その結果、彼らは城を降りて、スルタンに敬意を表して、遠ざかった。人々は第二部隊の撤退を待っていたが、影も姿も現さなかった。ようやく人々は全部隊が同時に出城していたことがわかった。スルタンはこの城を徹底的に破壊することを命じた。しかしニザリ教徒は自分達にこの妨害を行った長老アリーに間違いなく復讐を行った。1205年に長老はメッカへ巡礼に赴いたが、その帰途にシリアを訪問した。彼はダマスカスのイスラム寺院において、公衆礼拝の終わった後に、群衆の中で刺殺されたのであった。ハサンの後継者ブズルグ ウンミード(1124-1138)の治世では、他の君主や有力者はニザリ派の敵であると公言して、彼らの短剣に身を曝すより、彼らと仲良く共存した。そして君主や有力者は自分たちの敵を刺殺するためにニザリの教主に便宜をはかってもらい、その代償を支払った。しかしこれらの犯罪はニザリ派の住民に対する残酷な仕返しとなり、ニザリ派の住民が虐殺され、本当の刺客が駆除された時に彼らと一緒に住んでいた住民、ニザリの仲間と疑われた多くの人々が巻き込まれた。大セルジューク朝のスルタン サンジャルの宰相ナーシイルはニザリ派の地方を劫掠させたが、翌年宰相は暗殺された。サンジャルはその報復に一万人以上のニザリを殺戮した。アッバース朝の二十九代カリフ ムスタンシドは1135年にマラーガ市で、三十代カリフ ラシードはイスファハーンで1138年それぞれ暗殺された。この殺傷事件以降アッバース朝のカリフは公衆の前には姿を現さなくなった。
   ここまでにみてきた様に、ニザリ派の敵はスンニー派であり、その犠牲者は第一のグループが君主(カリフ)、将校(司令官)、宰相(大臣)、第二グループが法官、聖職者、知事、市長などである。