イラン病患者からのレポート 第十二話(1) 暗殺教団の城(ペルシャ篇)
アラムート城
北島 進
序文

 1090年に始まって1256年にモンゴル帝国のフラグが率いる西アジア遠征軍団によって滅ぼされる約166年間にわたり、東はトルクメニスタン、西はモロッコ、シリアへ刺客を送り、敵対する国家や宗教団体の君主や教祖を暗殺するという省エネのピンポイント作戦を履行した恐ろしい宗教的な集団があった。この団体の城が、1978年3月契約したイラン400KV架空送電線工事プロジェクトの工事ルートの近くに点在していた。今回はその城の中でも最も重要で難攻不落な城だった、アラムート、ランブサール、ゲルドクーの城の構造や活躍した歴史などを現地で撮影した写真をもとに少し詳しく報告したい。
   右図で見ると架空送電線工事はネカ発電所からカスピ海沿岸のエルブールス山脈の北側山裾を西に向かいチャルース市を通過してハッサンキーフ変電所にいたる。ここで南に折れて海抜3500mのカンダヴァントンネルへ向った。トンネルの頂上付近で再び西に折れて、タラガン川に向って降下した。そしてルートはタラガン川の源のアザルドバー村からギャラブ、ギャタデイ、ナリアンという村まで川沿いの山裾を縫うようにして西に向って進んだ。ジョエスタン村から南に折れて終点カラジ変電所だ。アザルドバー村の南斜面には暗殺教団のドホタール(娘)城があり、監視塔の遺構が聳えていた。ジョエスタンから更に西にはパラチャン(旗という意味)村があり、この裏山にもアフマド ラージェ城がある。これらの村の名前は工事現場の人々には懐かしいだろう。パラチャンから送電ルートを別れてタラガン川沿いに更に進むと、図に示すように一本北側の山脈を越えるとギーラン州(白点線が州の境界)である、その谷あいをアラムート川がタラガン川と同じように西に向かって流れている。タラガン川がアラムート川と合流して、シャールード川と   名前がかわる。このギーラン州のアラムート川からシャールード川一帯をルードバール(川岸という意味)地方と呼ばれている。この地方はエルブールス山脈の南側に広がる土砂漠である、だから年中灼熱の太陽が降り注ぐ。そこにシャールード川からの潅漑水を引き込むのだから、暗殺教団の本拠地ルードバール地方は肥沃な土地が広がり、農業が盛んな土地柄である。
   これらの川の源は冬季にエルブールス山脈、例えば3500mのカンダヴァントンネルあたりでは10月初めから降雪があり翌年の5月頃までは雪で工事が出来なかったほど降雪量が多い。そしてこれらの降雪が夏季には融雪して伏水となって岩帯の窪地に蓄えられる。気温の上昇と共に時間をかけて岩の隙間から漏れ出して小川になり、それが集まってタラガン川やアラムート川になった。
   そのためにイランではパーレビ王朝時代には農業用潅漑ダムの建設に熱心だった。1977年10月にイラン送電プロジェクトの件でパーレビ王朝のイラン電力省との交渉仲介役を担った名古屋の潅漑ダムのコンサルタント“三祐コンサルタント”が1960年代に海外でイラン農業省とダム建設のコンサルタント業務を初めて受注して完成したタラガンダムが送電線ルートの少し西寄りにあり、当時のテヘラン支社長だった故柿崎氏の苦労の足跡が偲ばれる所でもある。
   暗殺教団の宗派はイスマイリ(注4)と呼ばれているが、1090年にハサン イ サバーフという長老がエルブールス山脈の支脈ハウデガーン山の麓の単独峰アラムート山に強固な山城を築き、地下には貯水池や穀物、ワイン、蜂蜜などの膨大な貯蔵庫、さらに寺院、図書館などを構築して、セルジューク朝(注8)の強敵を相手に数ヶ月に亘る篭城で耐え忍んで生き延びたという自治領国家が誕生した。
   ハサンはイスマイリ派の宣教活動を通して、自治領の拡大と安定した国家の維持運営に努めていた。
   しかしハサンがアラムートに自治領を確立した頃、スンニー派(注1)のセルジューク朝とバグダードのアッバース朝(注9)の支配がペルシャ全土に及んで、シーア派(注2)やイスマイリ派の人々が多く住んでいたペルシャの中心都市イスファハーンやシラーズ、コム、レイなどで、両派の宗教的な対立が激化して事件に発展したために、セルジューク朝のカリフや宰相はイスマイリやシーアに対して、極端に不平等な執政を行った。そしてアラムートを殲滅するために度々軍隊を派遣した。これに対して、少数の僧兵や領民の蜂起、戦力には限界があり、いつも多勢に無勢なハサンは暗殺というテロを国家的なスケールで組織化して対抗したのが暗殺教団の始まりである。
1256年モンゴルの司令官フラグの陣容に参加を求められたペルシャ人の著名な歴史家アタ マリク ジュヴァイニは暗殺教団の本拠地アラムート城の落城した際、城内に残された財宝の分析と図書館に収蔵された書籍の取捨選択の権限をフラグから与えられた。彼は図書館を検査した際にアーミラリ天球儀や部分的な天体観測儀のような天文学の道具などを貴重な財宝として選んだ。
   更にギーランとダイラムのことが書かれている本、更に重要なものとして、ハサンが約22年間多くの有名な学者を呼び寄せて住まわせた結果,この時代には多くの天文学、哲学、神学の論文が生まれた。ハサンの神学論や経歴書が書籍になって、残されていたのだろう。
   これらの書籍からジュヴァイニはペルシャ語でイスマイリ派の歴史を、モンゴル帝国史の著書“世界の征服者の歴史”のフラグ汗編(13世紀後半)に詳しく述べられている。世界の歴史家が最も信頼している史料の一つである。これから述べる多くの話はこの本から引用している。

1.暗殺教団の初代長老 ハサン イ サバーフ

1.1 生い立ち
   暗殺教団の初代長老とはどのような人物だったのか
   名前はハサン イ サバーフ(Hassan I Sabah)である。ハサニ サバーフとかイランではハサン サバーフと呼んでいる。(本稿ではハサンと略称する)
ハサンの父はイエーメンの前イスラム時代のヒムヤル王の子孫であったと伝えられているが真偽の程は判らない。父の名はアリーというアラブ人であった、イラクのクファ出身であるが、ペルシャにおける最初のアラブ人の居住地で、イランの十二イマーム派(注3)(シーア派とみなす)の聖地コムに移り住んで彼を生んだ。ハサンの出生年代は不詳だが、11世紀中頃と思われる。彼が子供の頃にテヘランに近いレイに移り住んだので、レイで父と同じシーア派の宗教的な教育を受けた。
   ハサンはレイ時代の自分の事を次のように言っている。“私は少年時代から、さまざまな分野の学問を好み、宗教学者になりたいと思った。17歳まで私は知識の追求者であり探求者であったが、私の祖父の十二イマーム派の信仰に深く帰依した。”

1.2 ハサンがシーア派からイスマイリ派へ改宗した経緯

   イスマイリ派がなぜハサンを改宗させるほど魅力的な宗派に成長したのか。
その要因の一つがドーソン著“モンゴル帝国史”の中で、概略次のように指摘している。9世紀初期アッバース朝のカリフの命令で、ギリシャ哲学の著作がアラビア語に翻訳された。その結果精神探究やその評論の多面的な思考体系がイスラム界で認識された。更にアリストテレスの著作はイスラムの異端者(イスマイリ派など)がその抽象的観念、その討論方法、定義の方法を汲み取る豊かな源となった。彼らは単に空しい神学論争にしがみついたのではなく、武力にも訴えた。その狂信性は多くの血を流させた。そして伝統的なスンニー派に対して不満を抱く啓蒙された民衆が増加していた。イスマイリ派はこのギリシャ思想を習合した教義を取り入れて、極めて洗練された宗派に進化した。この派が過激派とか異端派と呼ばれるのは武闘派という意味ではなく、自由に他の宗教を習合するので、保守的なスンニー派にとっては過激で、急進的な宗教と見なされた。
   二つ目の要因はイスマイリ派の繁栄である。それは次のような背景があった。969年にイスマイリ派ファーテイマ朝(注7)第4代ムイッズは内紛で衰弱していたイフシード朝の支配地エジプトに侵攻して、それを倒しカイロに都を建設して移転した。ムイッズはエジプトに住むスンニー派の住民との融和をはかる一方自分の建てたアズハル モスク内にイスマイリ派の最高教育機関となるアズハル学院を開校して、ここでイスマイリ派の教理を学んだ宣教師をファーテイマ朝の版図に留まらず、イスラム世界の各地に散らばって布教した。現在シリア、イラン、パキスタン、インド西部で信仰されるイスマイリ派は、こうしたファーテイマ朝の積極的な布教によるものである。
   この広がりはレイにも及んで、10世紀ごろから宣教師の活動が活発になった。

   ハサンは当時の宣教師との邂逅を次のように語っている。
   “ある日、私はアミーラ ザラーブというファーテイマ王朝のカリフの教義を説く宣教師に出会った。
   ザラーブは度々イスマイリ派の奥義を懇切丁寧に説明したが、私はシーア派の信仰理念に一切の疑問も抱くことなく生きてきたので、このザラーブが語る「真理はイスラムの外に求められるべきである」という考え方は思いもよらないことだった。私はイスマイリ派の教義は哲学(敬虔な信徒の間では嘲弄の語)であり、エジプトの支配者は哲学者ぶっている者だと考えた。しかしザラーブは立派な人格の持ち主だった。二人が言葉を交わし出すと「イスマイリ派の教義はこれこれしかじかである」と言うので、私は彼に「友よ 彼ら(イスマイリ派)の言葉を口走らないでください。彼らは異端者であり、彼らが言うことは宗教に反するものだから」と言った。彼と私の間に宗教の議論と論争が起こり、そして彼は私を論破し信念を打ち壊した。私は彼に対してこのことを認めなかったが、これらの言葉は私の心の中に大きな影響を及ぼした。最後の別れ際に彼はわたしに「今まで議論したイスマイリ派の教義について、貴方がベッドの中で考えている時、貴方はきっと私の言葉に納得することになる」と言われた“
と語った。ハサンはザラーブの話にも納得できるものと出来ないものがあったので、多くのイスマイリ派の文献を読み漁った。そして、その中にイスマイリ派のイマームの教義に多くの納得させられるものと不満を抱かされるものを見出した。そして彼の心に奇妙なことが起こった。その模様を次のように語っている“私の心に隠れイマームが現れたので、私は驚いた、そしてうろたえていたら、告げられた「このイマームの権威というのは後継者の神の力で導かれた啓示と教えに依存するのだ」しかし私はこれらのことが何を意味するのか判らなかった。
   このような状況の中で、私は厳しい危険な病に陥った。その病の中で、神は私の肉体や皮膚に何か異なったものになるように望んだ、それは「神が私の肉体や血液をもとの自分のものよりもっと良いものに変えることだった。」そして神はそれをハサンに施した。その瞬間から私はこのイスマイリ派が確かに真実であると確信した、今までシーア派に抱いていた信仰に対して、根本的な変更を迫るということに極端な恐怖を抱いていた私はイスマイリ派を認めようとしなかったのだと悟った。今や立ち上がる時が来たが、この病で自分は真実を成就することなく、死ぬのだろうか“

   しかしハサンは病気から回復した。この病は恐らく“宗教的な覚醒”に伴う精神かく乱状態を意味していたのだろう。それはハサンが神秘体験をしたことを意味し、彼の宗教心を推し進める自信に繋がったと筆者は判断する。
   彼はイスマイリ派宣教師を探して、本格的なイスマイリ派の信仰への準備に入った。そして宣教師アブ ナジム サラジに出会った。彼の指導によってこの宗派のことをいろいろ学んだ。彼は、私が知りたいと思っていたイスマイリ派の秘義の難解なポイントや最終的な信仰の目標などを説明と分析を交えた解釈で教えてくれた。この段階はイスマイリ派の秘義の概要を学んだのだろう。(入信に関わる具体的な教育内容は複雑な為次章で細述する)
   ハサンの次の段階はファーテイマ朝イマームに対して、忠誠を誓うことであった。その宣誓はペルシャ西部およびイラクのイスマイリ派の布教組織の管区長から認可を受けた宣教師によって行われた。宣誓の内容は次章で細述する。宣誓が終わるとすぐに管区長はレイに現れて、新会員のハサンに会い彼を承認して、ハサンを布教組織の管区長の代理人に任命した。そしてカイロの宮廷に出頭しなさいと告げられた。

1.3 ハサン エジプトへの旅とイスマイリ派の秘密教義

   ハサンは1077年にイスファハーンを発ってエジプトへ向った。
   旅行中彼の頑固で勝気な気性から、トラブルに巻き込まれたが、例えばアゼルバイジャン経由してマイヤファリキンに来た時、彼は宗教解釈における唯一つの権利を有するのはイマームであって、スンニー派のように神学者が行うべきではないと公の場で論争をしたために、スンニー派の法官によって町を追放された。ダマスカスではトルコ人のキャプテンの騒乱でエジプトへの道が閉ざされて、少し遠回りをしたが海路を回って、イマームのいるカイロに到着したのは1078年であった。
   ハサンはエジプトに1年半、最初はカイロ、それからアレキサンドリアに滞在した。
   この間にハサンはイスマイリ派の秘義を伝授されたが、それは一般に慎重に進められた。カイロで入信者を引き受けるのは神聖な秘義の最高の権威の保持者である宣教長であった。
   ハサンが宣教長によって伝授された秘義とは次のようなものと思われる。
   ドーソン著“モンゴル帝国史”の中で、主要な部分を抜き出して、且つ意味不明な翻訳には筆者が解釈して、補足したものが次のような内容である。入信には9つの段階があり、入信者が各段階で秘義を十分に理解されなければ次の段階には進むことを拒否された。しかも第一段階に進む前に、宣教長は入信者に伝授されるあらゆる秘義は厳重に外部に漏らさないこと、イスマイリ派の同胞を裏切って、他の宗派に寝返る事のないこと、イスマイリ派の信徒を辞めて、イスマイリ派の敵の側に就かないことを自ら誓わせて、もしこの誓いが破られた場合この世における最大の災禍と来世における最も重い懲罰を受け入れることを誓約しなければならなかった。
   第一から第四段階までは、次のように説かれた。神はこの宗教を設立して、保持する任務を、選ばれた者、即ちイマームに委任したのであり、イマームは信者の唯一つの案内人でなければならない。神は天地創造で7つのものを造ったように、イマームも7人と定めた。それがシーア派始祖アリー、長男2代ハサン、弟3代フセイン、第4代アービデイーン、第5代バーギル、6代サーデイク、7代イスマイール(就任前死亡)で実際の7代は息子ムハンマドの計7人である。前の6人はシーア派のイマームであったが、7代目ムハンマドはシーア派から分派したイスマイリ派の初代のイマームになった。そのために次のように賞賛して権威付けしている。秘義では彼を神秘的な事象の学問、可視的な事象の神秘的な意味に関する知識の点でも、先輩の6人イマームよりすべて凌駕していた。入信者からの質問に対して、ムハンマドは自分が神から直接受けた入信の神聖な秘儀を説明し、また宣教師やイスマイリ派の学者にもそれを伝授した。
   既成の古い宗教を新しい宗教に替えるために現れた預言者たち、即ち言葉を授けられた崇高なる立法者の数もイマームと同じ7人であった。各々の預言者は在世中にその輔佐をして、預言者の死後は宗教を広めた代理人を伴っていた。代理人は預言者とは反対に言葉を授けられていないので沈黙した者と呼ばれた。なぜなら彼らは伝授された通りの道をたどることしかないからである。この7人の代理人がこの世を去った時に新しい時代が始まる。この新しい時代とは第7代預言者の出現が既存の一切の宗教を廃止した。
   第一の預言者はアダムであり、その子セスが代理人であった。第二の預言者はノアであり、彼の子セムが代理人で、これを助けた。第三がアブラハムであって、その子イスマイルが代理人であった。第四代の預言者がモーゼであり、協力者、代理人として、兄アランを持ち、アランの死後ヌンの子ヨシュアであった。モーゼの最後の後継者はザガリアの子ヨハネであった。第五代預言者はマリアの子イエスには協力者としてシメオンがいた。第六代預言者マホメットであって、その協力者はアブー ターリブの子アリーであった。
   さてアリーの後マホメットの宗教の6人の沈黙の代理人が相次いだが、これがハサンからイスマイールまで列挙したイマームである。イスマイールの子ムハンマドは第七代の最後の預言者であり、
(ムハンマドはイマームであり、なぜ預言者になったのか?)彼の出現とともに在来のすべての宗教は廃止された。神聖な秘義の説明を求める為に頼らなければならないのは普遍的な知識に恵まれているムハンマドだけである。すべての人間は彼に服従する義務がある。すべての人間が救済の道程をたどることが出来るのは彼を案内人として承認することのみである。
   第五番目の段階において、最高聖職を執行するイマームは世界を周歴する伝道師を持たなければならない。伝道師の数は神の知恵によって、一年が12ヶ月の如く、イスラエルの十二部族、マホメットの十二使徒の如く、十二という数字に定められた。
   第六番目の段階では秘伝伝授者はまず、祈祷、喜捨、巡礼、清浄その他に関係のあるイスラム戒律の神秘的な意味の説明から始めた。彼はこれらの励行が人々を悪から遠ざける目的を持っていることを教えた。かれは入信者にピタゴラス、プラトン、アリストテレス及び彼らの門人たちの著述を研究することを勧めたが、盲目的に伝承を信じないこと単純な引証を信じないこと、それとは反対に合理的な論証のみを承認するように入信者に忠告した。
   第七、八番目の段階では秘伝伝達者は宗教の創始者の戒律を理論的に伝達する手段として、論理的な概念が必要であるということを教えた。戒律には常になんらかの根源になるものがあり、戒律を守ることによって派生したことが理解される。それはまさに原因が先にあって、結果が後についてくる関係を説く。
   この秘義の中の復活、報償、刑罰について述べられているが、それは人間の生まれながらにして持っている霊魂の宇宙的な循環現象として捉える新しい宗教観の始まりである。
   最後の第九番目の段階では宣教長が教えたことをすべて再び繰り返して入信者の心に十分教え込み、彼らが秘儀を十分知ったと確信した時、自然科学や形而上学を扱う哲学者の著作や理論神学と、その他の哲学の諸部門に関する著作に関心を向けさせた。

   このようなイスマイリ派の秘義を通して、見えてくるものはドーソンが指摘しているように世界の終末と復活、宇宙的な空間での神と霊魂の存在、報償と刑罰、自然哲学、形而上学などは、彼らがギリシャ哲学、ユダヤ教、ゾロアスター教などから、その教義を汲み取っていたことがわかる。
   ハサンがエジプトに滞在した時の政治状況はファーテイマ朝の8代目ムスタンシル(統治1036年-1094年)がカリフであり、宗教的にはイマームであった。しかし第6代カリフ ハーキム(996-1021)以降実力のないカリフが続き、行政官庁の宰相の権力が肥大化した。当時の宰相には有能なトルコ、ユダヤ系、キリスト教系人物が改宗して就任した。その結果様々な思惑があって政治が不安定になった。その為11世紀後半以降は軍人出身の有力者が宰相に就任するようになった。当時の軍にはマムルークと呼ばれる奴隷身分の出身者、黒人、ギリシャ人、スラブ人、トルコ人の傭兵が採用されていた。そんな中から1074年に軍司令官バドル アル ジャマリが国の安定のため宰相に就任して高齢で統治能力を失ったムスタンシルの代行として執政を行った結果、社会の安定の回復に成功した。一方ムスタンシル後の王位継承問題は実際には1095年に起こったが、ハサンのカイロに滞在した1078年ごろには、現カリフの統治が32年続いており、そろそろ次の後継者問題が取りざたされていたらしい、宰相ジャマリは政治的な行動が執りやすいカリフとして弟のムスタアリーを目論んでいたが、ハサンはシーア派の教義通り長男ニザールを支持したので、宰相との間に確執が生じて投獄されて、エジプトから北アフリカへ追放された。その時乗っていたフランク人の船が難破したが、運よく救われてシリアに連れてこられた。そしてアレッポとバグダードを通って、1081年6月イスファハーンにたどり着いた。

噂話1(注11).ハサンがエジプトへ旅たった理由を次のように伝えられている。
   ハサンと当時の有名なペルシャの詩人オマル ハイヤーム、セルジューク朝(スンニー派)の宰相ニザーム アル ムルク(ハサンの最初の犠牲者)は同じ教師の下で学んだ同門の生徒であった。この三人は、互いに最初に成功して富を手にした者が必ず他の二人を援助するという約束を交わした。やがてニザームが最初に宰相になったので、二人は彼にそれぞれ要望書提出したが、ニザームは二人に知事職を提供したが、オマールは官職の責任を嫌い年金と安泰な生活が享受できるものを求めた。ハサンは地方のポストでごまかされるのを拒み、宮廷の高位の職を求めた。望みをかなえたハサンはやがて宰相の地位をねらう地位に達した。ニザームは自身の地位を危うくする競争相手の出現に、それを阻止すべく陰謀を企てた。陰謀とはカリフの面前で面目を失わせるものだった。そしてこれに成功して、ハサンは侮辱を受けて、怒り心頭に来た彼はエジプトへ逃れて、そこで復讐の準備をした。
この問題点はニザーム誕生が1020年頃、ハサンは1050年前後である。