日本連合艦隊司令部:トラック島とは?
川村 知一
はじめに
北島正和氏のホームページ、(6月19日)「青春の詩歌」展を読むと、金子兜太氏がトラック島の戦場体験に基づく、死者だけを残してきたという思いが伝わる句に心を引かれた、との記述があった。

    「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」

文学にはほとんど興味を持たない私は、もちろん金子兜太氏の名も知らなかった。
しかし私は昭和16年生まれで、戦争中を記憶する最後の世代であり、太平洋戦争の歴史には何かと興味を持ってきた。

昭和19年秋以降、夜中の空襲警報で消灯して、丹勢6条通り社宅庭の竪穴式簡易防空壕に、母と生まれたばかりの弟と入り(父はほとんど不在であった)、大谷川上空を西に進む敵の爆撃機編隊の闇夜のシルエットが脳裏に残っている。

たまたま光文社版(米軍による)写真記録「太平洋戦争史」ロバート・シャーロット編、中野五郎訳(昭和27年発行、上・下巻:真珠湾攻撃から原爆投下まで約1,000ショットの凄惨な地上戦を含む写真集)を所持しているので、トラック島について記述されている部分をスキャンして紹介したい。

次ページには、米国における航空母艦の効果に関する賛否両論が述べられているので、併せて紹介したい。
対商船では、航空母艦の航空機による戦果以上に潜水艦の戦果が多大であったとされ、昨今話題になっている学童疎開で犠牲になった対馬丸、日本軽金属社員多数がビンタン島から引き揚げ時に撃沈され、多数の犠牲者があった話などが思い出される。

備考;
金子兜太氏は東大経済学部繰り上げ卒で日銀入行、海軍主計中尉として敗戦色濃い中、トラック島に派兵された。
トラック島は20年近く日本連合艦隊司令部が置かれていた島で、米軍からすると秘密のベールに包まれて、日本の真珠湾と推測されていた。
戦艦武蔵などが停泊していたが、米軍偵察機の飛来をキャッチしたため、武蔵など主力はフィリピン、シンガポールなどに移動したが、天候で出港が遅れた護送船団が1日にして多大な損害となった。しかし米軍は見込み違いで、それ以上の戦闘は放棄した、とある。

私事であるが、妻の父親は昭和16年、東大法学部繰り上げ卒で大蔵省入省、陸軍主計少尉として満州ソ連国境守備隊に派兵され、半身沼に浸っていた体験などを聞いた。
金子氏とは何処かで接点があったかとも思われた。(以下、4ページ文献スキャン)

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 平成26年6月30日