大正12年、祖父が見た英国都市と企業の概要
川村 知一
はじめに
  この機会に残りの「英国」まで紹介させていただきます。
(仏蘭西、独逸については、アラカルト「明治生まれ――」で紹介済みです。)

  米国は好景気に沸いて工場は繁忙であったが、英国に渡ると、第一次世界大戦の後遺症か、その後の世界恐慌につながる過程であったのか、暇な工場が多く国内の失業者も何十万人かと書かれている。
それでも各地の各種工場を訪問、見学して20ページにわたる日記と技術的報告をしている。
米英両国とも機械設備の自動化が進んでいて、日本より生産性が格段に高い様子が述べられている。
当時、日本では関門海峡を橋にするかトンネルにするか検討していた時期で、トンネル掘削機を製造している工場を見学している。
王立の海軍造船所では、たまたま人気のない日曜日に立ち入って見学、写真を撮り、Vickers Worksでは大砲の製造などを見学し、息抜きに訪れた湖水地方では、その美しさを技術者では語り尽くせない、などと述べている。

技術革新でタービンが脚光を浴びる時期で、タービンブレードの製造工程を詳しく調べたスケッチ(文末に添付)が残されている。
同時期にスイスに派遣された土光敏夫氏(入社3年目で当時27才)は、タービンの製造技術を学ぶためで、石川島のタービン事業はもちろん、現在の日本の発電用タービン技術、ジェットエンジン技術、自動車用ターボチャージャー技術等の先駆者であったと考える。

本題
[米国から英国へ]
米国を六月二日に出帆して英国に着いたのが六月八日、Southamptonと云う町に夕方着いたので、倫敦まで二時間勝手不案内の事とて頗る間誤付いた、倫敦に夜十時頃着いて宿屋に落着いたのは十一時頃。

倫敦は米国と違って汽車の具合、宿屋の具合、人の対応振り、その他凡てにおいて米国と異なり大いに面喰わざるを得ない。
英国では宿屋等ではThank you Sir, Yes Sirで、elevatorに乗っても、郵便を持って行ってもboyがThank you Sirと云う、頗る異様の感じがする。
丁度倫敦に着いた日が金曜日の夜で、翌日は土曜で少しく眠坊をしたら、各officeは皆なcloseせられて訪問する事も出来ず、頼りにする三井高田の人は皆な郊外に運動に行ってしまって、一人宿屋にボンヤリせざるを得ない。
地図を買って市内を見物しようと思へば地図も売って居ない、仕方がないから一人で市中を歩いて見ても、市中は頗る寂しい、夫れでも聞き聞きLondon towerとparkとWestminster附近は通って見た。

(以下抜粋)
六月十一日~
各事務所を訪問して、三井高田、鈴木、郵船、領事館、海軍事務所、鉄道事務所、English electric Co. Clark Chapmanなどを順次訪問して、帰朝の船をreserveした。
郵船の船は大抵既にreserveせられて止むなく九月九日に仏国のマルセイユを出帆する加茂丸を予約しました。之迄に英国、独逸、仏蘭西を見るように大体の日取りを定めました。

六月十七日
倫敦を立ってBirminghamに来て早速Wolseley工場に来ました、ManagerのGrazebrookと云う人に遇ったが、非常に冷淡な人で工場を見せるにも本の義理一偏の態度で頗る不愉快であった。

六月十九日
Coventryと云う処のAlfred Harvard工場を見学

六月二十日(James Wattがやっていた工場)
午前Taylor & Challen工場、午後はAvery工場を見学した。
AveryはJames Wattがやって居た工場で、Coal handling machineのautomatic weighing machineを沢山作って居るから良く見てきた。
James Wattが作ったと云うgas holderが未だある、又仝氏が使っていたと云うdrilling machineも其儘未だ使って居る。

六月二十一日(弾丸工場)
BirminghamのWittonと云う処にあるKynochという弾丸工場を見た、press等も作って居った、弾丸の速度を測る器械等も見た。

六月二十三日(土)
BirminghamよりManchesterに向かう。

六月二十五日(タービンおよびブレード製造:米英の生産性について)
Manchesterより十二三哩距れたるMilnrowと云う処にあるHolroyd工場を見学せり。
仝工場はmachine tool makerにて、(中略)、steam turbineとbladeを作り、bladeを作る機械も併せて作って居る。
作る順序は大体次のようになって居る。(文末の図1.ブレード加工スケッチ参照)

英米両国では殆んど大抵のものがautomatic machineを使って居るから、機械四五台に付いて一人の職工が付いて居るから、其丈けでも四分の一の割合に人を減らすことが出来る。
機械がautomaticだから職工が休んで居られない、石川島の様な機械で仕事が遅れると云うことを要求しても無理ではないかと思われる点が沢山ある。
設計の方にしても仝じ様で、凡ての制度を余程改良する必要がある様に思わるる。

米国のみを見て居た時は、米国は特に新式を好む傾があると聞いて居たから、英国はどうかと思ったが、矢張り英国も斯う云う事は全く米国と同じ様である。大抵の工場に行っても1000人を越す工場は少ない。(中略)

六月二十六日(Liverpoolの港湾設備)
Liverpoolの港湾設備を見に行ったが、此設備は仲々大仕掛けで一寸報告書には書きにくいから、帰朝の後説明する。
兎に角英国の海陸連絡設備は米国に比べると余程金を掛けてある様で、craneを使って居る処が多く、其数も実に無数である、是位craneを使って呉れれば石川島も当分安心である。
午後、LiverpoolからPrestonと云う処に行って、電気機関車を作って居るDick Kerr Co.に行って見た。

六月二十七日(Vickers電気工場)
ManchesterのMetropolitanにあるVickers電気工場を見に行った。
英国はtransmission lineが無いから、私の方が余程良く知って居って、向こうの技師に教えてやる様であった。ここでも電気機関車を作って居った。

六月二十九日(英国の失業者)
有名のCraven Brother Co.を見学せり、目下英国は非常の不景気にて何れの工場も平常の1/3 ~1/2位の職工を減じて居る、現に此処Manchester丈にても70,000人からの失業職工が居ると云う事である、英国全部を合算すれば何十万人になるか訳らない。
多数の失業職工に政府から一日12sの手当金を与えて居ると云う事には驚いた。単に労働保険に登記してない職工には全部失業者と見做して此補助金を与えて居ると云う事である。
Craven Brotherも御多分に漏れず非常の不景気で――(中略)

六月三十日(土)
Manchesterを出て午後二時頃Edinburghに着いた、早速Arrol Co.で作ったForce bridgeを見に行った、市中から六七哩距れて居るが、乗合自動車が往復しているから飛び乗って行った。1883年製造であるが、そんな昔に良く斯様なものが出来たと思って感心した。

七月一日(日):海軍港湾設備
市中並に附近の景色を眺めて、午後Edinburghの港湾設備を見に行った。此港はImperial dockと言って海軍の有らしいが、日曜日だものだから余り人が居ない為めにドンドン入って行って全部其設備を見て来た。
石炭の船積みも見て来た、coal loading machine三台使って居る、何れもhydraulic craneで極めて大仕掛けのものである。(中略)

七月二日(関門海峡の鉄道の話題)
月曜日朝Grlasgowに向かって出立した、午後直にWilliam Arrolに行ってSir John Hunter(director)に会った、非常に悦んで十年前日本に来た時の話をするやら、知らず知らず親類にでも来た様な感じがした。
直ちに工場を案内して呉れた、Arrolも非常に不景気だとは云って居たが、仕事は沢山持っている、然しcraneは一台も作って居ない。
Tunneling machineと云って、隧道を掘る機械を盛んに作って居った、此機械は水圧で地面の内を切り取り、鉄等を敷設するもので地下鉄道に必要なものである。(中略)

下関の鉄道連絡、即ち目下問題となるtunnelにするかbridgeにするかと云う問題に付いて、特に日本に立ち寄るとの事である、殊に妻君が日本の景色に非常に憧れて居るから、是非東京にも行くと云っていた。

七月三日
午前Hugh Smithの工場に行ったら実に不景気で仕事は全くないと云って居った、職工はと問えば僅かに30人だと云う、hydraulic machineの小さな物を二三作って居った。(中略)

仝日午後、loading unloadingの装置を見る為にPort Glasgowと云う処に行った、汽車から下りたら道路は職工で非常な人出である、之れはstrikeに違いないと思って、日本の夫れとどう違うか多少好奇心にかられて造船所附近に行って見ると、附近の店は皆多くは戸を閉めて居る、一軒絵ハガキを売って居る店があるから、カード買いながらWhy they crowd in the street so many?とやったらIt is summer holiday in this city.と来た、Scotlandでは夏向きはsummer holidayと云うものがあって、二週間続けて夏期に工場全部休みになるとの事である。
職工等は何もする事がないものだから、市中を只ウロウロして居る事が無上の楽しみの様に感ぜられる、中には数人集まって道路でcardでバクチをして居る者も二三見当たった、何れに行っても職工等の生活は仝じ様のものであると思った。

七月四日(湖水巡り)
引続き工場見学などに努力した為め少しく疲労したから、四日は一日休養の意味でScotlandの名物の一つの湖水巡りを試した、朝Glasgowを立って汽車でLock Lomondと云う湖水に行って、其湖水を船で渡り、次の湖水の周りを自動車で巡る、此Lock Lomondは湖上の美人と云う小説の現地だと云う丈け夫れだけ風景は仲々良く、engineer等の筆に表わし得ない点がある、夕方Glasgowに帰って、荷物を整えてNewcastleの方に行く支度をした。

七月五日
朝Glasgowを出立してNew castleに向のであるが、New castleはRoyal showがあるのでKing Queenが出席すると云うので非常に混雑、晩のSheffield行きの汽車の座席をreserveして置いて、昼食を食おうとするが何れのrestaurantも満員で、仕方がないから立食いで昼を終わりClark Chapmanにと自動車を駆った、Clark Chapmanでは非常に悦んで大いに歓迎して呉れ、工場を隈なく案内してもらった。(以下、ボイラーの質疑で省略)

七月七日(Vickers Works)
前日Sheffieldに戻り、朝早くから起きてVickers Worksを見た、非常に大きな工場で大砲を盛んに作って居った、大砲のみならず之れに属するsteelは全部此工場で作って居る。
紹介状は持って居なかったが殆も東京商業会議所会頭、藤山雷太氏が仝じ宿屋に泊って居て、Vickersの社長がSheffieldの商業会議所会頭だ云うことで、丁度案内して呉れると云うから、藤山さんに頼んで急に藤山様の従者になって見せて貰った。
午後はDavy Brotherと云う大きなhydraulic pressを作って居る工場を見に行った、丁度大阪の砲兵工廠の3,000屯forging pressを作って組み立てにかかって居った、良く見せて呉れたがgear周りは仲々運動が混雑して居って良く訳らなかった。(以下省略)

あとがき
祖父は明治新政府の制度で人材育成された先陣として、先進諸国の先進技術を見学した。
その後、森コンツエルンの森総統にスカウトされ、昭和電工が大町に尿素(アンモニア高圧合成)プラントを創設するにあたり、設備設計に従事した。当時の祖父の手帳が残されていたが、日記は全てドイツ語で書かれていた。
祖父の口癖に「機械屋はツブシが利く」と言っていたが、機械技術者が不足して、7つの会社に勤務した話を聞いた。
戦争中は油圧式速射砲を設計し、故障が少ない設計で、戦後米軍が図面を持って行った。
戦後は昭和電工でパージを受けて隠居していたが、後輩の土光氏が「もったいない」ということで斡旋を受け、数社(小松製作所、荏原製作所、芝浦共同機械:東芝機械の前身など)に随時通い、自分が設立した日本起重機:「日起」の社長も務めていた。
祖父は昭和30年に亡くなったが、石川島社長であった土光氏が、お通夜で一晩中付き添って下さった、話を叔母から聞いた。
図.1

 
 平成25年7月3日