明治生まれの機械系技術者と第一次世界大戦 | |||
川村 知一 | |||
はじめに 戦後の歴史教育では、明治以降の戦争の歴史について詳しく触れず、特に第一次世界大戦についての情報は少ない。 私の母方の祖父は明治15年生まれの機械系技術者で、大正3年(1914)、第一次世界大戦の青島作戦(ドイツ軍要塞攻略)で工兵隊少尉として実戦を経験した。 9年後の大正12年(1923)には、約4カ月間の欧米出張で、米国ではアジアの戦勝国日本を肌で感じ、ヨーロッパでは戦勝国イギリス、フランスを回った後ドイツを訪れると、敗戦国の落差、惨状を目の当たりに して驚き、同情の念さえ抱いた様子が、出張報告日記(77ページ)に綴られている。 (大正時代の欧米出張報告日記や太平洋戦争中の新聞の切り抜きなどを、このまま捨ててしまうには忍びないので紹介してみたい。) 昭和26年、祖父から聞いた戦争の話 昭和26年9月、小学4年生だった私は、日光の山奥から焼け野原が多々残る東京に出て来て、青山6丁目の祖父の家に1年間居候した。 夕食後、座敷で和服を着た祖父(69才)の肩叩きを5分間しては、ダチン5円をもらった。 ある晩、戦争の話になって「敵の弾が沢山飛んできて、塹壕の中で1週間動けず、飲まず食わずで、地面を掘って蟻を食った」話を聞いた。しかし小学4年生の私は「蟻を食った」話しか興味を持たなかった。 「戦時版よみうり」(昭和19年4月15日発行の新聞)の切り抜き 祖父は日本で初めて起重機(クレーン)を設計した人と聞いていたが、これといった物的証拠は残っていなかった。 昭和58年、母が亡くなり、遺品の札入れの中から「戦時版よみうり」の切り抜きが出て来て関連記事を発見した。 新聞の切り抜き記事の概要 大正3年9月、青島のドイツ軍が誇る要塞を巡る攻防戦で、戦争史上初の大規模な砲撃戦が展開され、戦況は膠着状態にあった。 横須賀から28cm径榴弾砲(台座式)が到着したが揚陸できず、名乗り出た祖父(鍵和田工兵隊少尉32才)が材木を使用した即製の起重機を設計、部下と共に一晩で起重機を製作し、戦況に貢献した話である。 祖父は京都大学機械工学科を明治30年代に卒業し、石川島造船所に入社、当時、日本の工場などで使用されていた起重機(クレーン)は全て輸入品で、かつ運転速度を変えられなかったため、可変速運転を可能にした新型電気式起重機を設計し、国産起重機を普及させた。 「戦時版よみうり」:巨砲を揚陸した、ほまれの起重機 |
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写真1.28cm径榴弾砲のモデル 写真2.青島戦場で据え付けの様子 写真3.青島戦場で砲撃の様子 (以上ネットより) |
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欧米出張日記抜粋:第一次世界大戦後のドイツの惨状 祖父はドイツ軍を破った青島作戦を経験した後、9年後の大正12年(1923年)米国、イギリス、 フランスを経由してドイツを訪れたが、かつて栄華を誇ったドイツの衰退ぶりを目の当たりにして驚き、同情の念さえ抱いた様子が日記に綴られている。 第10信 (大正12年)7月31日 7月17日 Parisまでの切符をThomas Cookから買って大陸に向かって出発した。Dover を越えてCaraisに着くと仏語だから少しも分からない、幸い荷物の大部分は郵船の榛名丸に積み込んで身軽になってきたので、税関も簡単に終わった。Parisに着いて、International Hotelという所に泊まった。 7月18日 日仏銀行の副支配人に会って、Schneiderの170の工場の一つであるSomuaというParis市外にある大きな工場を見学した。 戦争中はtunk、大砲、飛行機などを作っていたが、今はmachine tool, hydraulic press, tractor,caterpillarなどを作っている。 陸軍の当地武官に話を聞くと、今後の戦争にはtunkは欠くべからざるもので、戦術が全部変更せられ、現に過般仏国にて催された大演習では、大tunk隊の諸国連合演習があった。 多分、日本も大tunk隊が出来るだろうと思う。その場合には石川島あたりは当然作らなければならない物だと思う。(中略) 7月19日 Eiffel Towerおよび市内見物してThomas Cookに行って、Reims(ランス:ジャンヌ・ダルクゆかりの地でもある)地方の戦跡見物の切符を買った。戦跡110kmを自動車で走るのだ。 7月20日 朝8時半の汽車でReimsに行ってみると、実に惨憺たるもので、全市破壊されている。住民はいまだにBarrackに住んでいる、とても当分回復の見込みがない様である。 ChurchというChurchは目標にでもなったと見えて、いずれの市街でも全滅である。開闊地(平坦な野原)における独仏の陣地攻防の具合を見ても、いかに戦争が激しかったかが分かる。これで仏国がルール地方を占領して聞かないのも、無理がないと思わせる程である。 7月23日(21,22は土日) 8時10分の汽車でBelgium, Hollandを経て独逸に向かった。何故かと言うと、独逸に入国するには仏国国境から行くと非常に危険で、なかなか入国を許さないからである。 Amsterdamに着くとDutch moneyが無いので、tipに頗る困る。おまけにHollandという所は物価が非常に高く、porterなどは少しの金では動かない。これに懲りて独逸に入るにはmarkを是非持たなければならないと思って、早速German moneyに替えようと、one pound出したら、one million markくれた。新聞では1,200,000markと報じて居った。 7月24日 朝8時48分、Amsterdamを乗り出して愈愈独逸の国境に行ったらば、乗客は全部下車を命じられpassport検査が始まった。全て独逸語で英語は通じない。 (中略)午後6時5分,漢堡(ハンブルグ)に安着した。三井物産の出迎えを受けPalast Hotelに着いた。 7月25日 早速、三井に寄り独逸国内状況を訊ねた。目下非常に危険状態でmark相場は日に日に下落を続け留まる事をしらず、現にAmsterdamでは1poundに対して百万mark、漢堡着後は百二十万、翌朝は二百十万、午後には三百万という風に、頻繁に変動し、従って労働者は今日の労銀は明日には半減するという具合。 しかも流通はmarkに限ると政府より規定されているため、食事にさえ不都合で、食料全般に欠乏して、potato一袋買うにも列をして順に購入し、一時間半も要すると言う始末。 乞食は路上に泣き、婦人は道路上に散乱する木片を集めて燃料に資するを見ること再三、悲惨この上ない。各工場は支払うmark紙幣なく、来る土日は非常に心配されている有様。 この機を利用して所謂共産主義者(communists)の活動となり、来る29日の日曜日を期して大会を開き諸種の示威運動を起こさんとする形勢にある。 伯林(ベルリン)では金曜日に百人殺された報道が来る、Leipzigは焼かれ、hotel滞在の外国人は何れも逃げ仕度をなし、hotel waiterも逃げ出すという有様。 独逸着の翌日にNagel Kempeというcrane工場を見学、漢堡の港湾設備も三井の好意によりてgasolineboatにて巡回し詳しく見ることが出来た。(中略) 独逸の工業地はルール地方にあって、目下ルール地方は絶対に危険で外国人の入国を許さないと言うし、伯林にてはSiemensくらいなものであるから、汽車の切符は投棄して倫敦(ロンドン)に避難することに決めた。 殊に最早8月26日の出帆マルセイユ発の郵船の切符が買ってあるので、之に間に合わなくなる様な事が起こっては困ると思ったから倫敦行きを決行した。 第11信 8月2日 小生は漢堡より避難せるも倫敦着後、伯林より避難せる人の談によれば、26日午後より各旅館は全部武装し、各人皆外出を禁じ糧食を用意し、往来を通行う人なかりしとのこと。 ある避難者は27日夕伯林を出立したるが、その汽車が最後のものにて、hotelより避難を請求せられパンと茹で卵を持って、命からがら最後の列車にのりたるとの事なり。 独逸伯林日本大使館より倫敦大使館宛に電信来たり、独逸は目下非常に危険に付き日本人の独逸入国を禁ずる様にとの事なり。 また英仏両国間も頗る危険の状態にありて、何時暴発せんとも限らず欧州は再び騒乱の巷と化するかも知れない。 殊に目下独仏間の感情は殊に悪しく漢堡などの各商店、coffee house, dancing hall等では、次の如き掲示がしてある 「全てのBelgium人及びFrance人は商店に入る事が出来ない、そして物品を買う事が出来ない」 これらが至る所で見ることが出来るほど感情が疎隔している。其故独逸国内にて仏国貨幣等でも独逸人に見せようものなら殴られてしまう。(中略) 独逸人の感心な事はNagelあたりの技師長はじめ技師達の多くは、朝自宅にて保温瓶にcoffeeを入れて来て、昼はパンとcoffeeだけで客のいる前で食べながら昼を済ませている。実に感心すると同時に同情に値する。 これほど働いて粗衣粗食に甘んじていても、markの下落には及ばない。技師がシャツの一枚も買う事は中々困難であるという。これを戦勝国英国に比較すると感慨無量である。 可愛相なのは独逸国民である。戦前差しもに誇って居った独逸が其れ迄に衰滅にならんことを想像しなかった。第二の露国の如くなるのも遠くはないかもと思われる。 然し英仏のルール占領に対する解決次第によりて又再び独逸は起きるであろう。 (以下略) |
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まとめ(統計的比較) 青島作戦 日本軍 ドイツ軍 戦闘能力 29,000 4,300 重 砲 100 53 軽 砲 50 47 死 者 1,200 800 ヨーロッパ戦線 交戦戦力 連合国 中央同盟国 フランス ドイツ帝国 イギリス帝国 オーストリア=ハンガリー帝国 ロシア帝国 オスマン帝国 イタリア王国 ブルガリア王国 アメリカ合衆国 セルビア 大日本帝国 中華民国 戦死者 553万人 439万人 負傷者 1,283万人 839万人 行方不明 412万人 363万人 |
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平成25年3月5日 |