霧雨に包まれた丹勢社宅跡探訪
川村 知一


6月25日午後3時半、つれづれなるままに、東北道を宇都宮インターで下り、ひぐれどき日光に向かって、丹勢社宅跡を探訪することにした。

宇都宮―日光高速に入ると霧雨模様となり、沿道の木々は緑濃く大きな枝が高速道路に張り出して鬱蒼としていた。
日光口から一般道に出て市内を走ると、神橋は霧でかすみ、入町クラブ跡には何やら新しい建物(ハコモノ?)が建っていた。

丹勢の坂に入ると、こちらも木々の枝が道路を覆うように繁っていて、道幅がより狭く感じられた。
霧に包まれた社宅地域に入り、2条通りから左折し、突き当たりを右折して5条通り(写真1)を下り第3広場(写真2)で車を止めて散策した。














     写真1. 5条通り          写真2. 第3広場

社宅の整理は徐々に進み、高台の社宅、ブロック社宅(写真3)、部長宅、集会所(写真4)が消えていて、社宅地域に人影は見られなかった。














   写真3.ブロック社宅跡         写真4. 集会所跡

 6条通り一番上の社宅(写真5)は、まだ健全で?私の両親が昭和15年新築で入居し、昭和22年に2条通りに引っ越しするまで、7年間住んだ社宅であった。
第3広場から第1広場(写真6)に移動して散策し、丹勢坂を下り帰路についた。














 写真5.6条通り(戦争中住んだ社宅)      写真6. 第1広場

その昔
 第3広場は、戦後間もなく第2紫明寮が建てられた跡地、ブロック社宅の土地は戦争中に開墾され、各家庭に配分されて畑とした。
 集会所は戦前からあったが、戦後は丹勢子供たちの水彩画教室、日曜学校(キリスト教)、海外出張された方々の報告会(スライド)、社交ダンス教室などが行われた。
 第1広場の西南端には戦後間もなくまで、4本柱の屋根付き相撲の土俵があった、
広場の半分は戦後しばらく畑として使用されていた。広場の南には細い道があり、昭和30年ころテニスコートが作られた。
 第3広場の南東角には、現在鉄塔が立っているが(写真7)、戦争中は電柱で、てっぺんにサイレンが付いていて、空襲警報発令(断続音)、解除(単発音)が鳴らされた。
併せて警防(保安)の人が軍服姿で(紙製の)メガホンを持ち、「空襲警報発令!」と叫びながら
社宅内を回った。「空襲警報解除」も同様。   写真7.戦争中サイレンが鳴った所
(また古い話になった)

平成23年6月30日