写真で見る昭和34年ころの日光
川村 知一

はじめに
稲葉浅治氏のアラカルト「日光湯元[晃元荘]の思い出」を拝見し、昭和34年、私が高校3年生当時の日光を思い出してみました。
私の場合、父が昭和35年まで丹勢社宅を拝借していましたので、夏休みなどは東京から日光に戻り丹勢社宅で過ごしました。
手元に東武鉄道が昭和32年に発行したパンフレット「日光」があり、なつかしい写真が多々ありましたので、ご紹介したいと思います。

東武特急ロマンスカー(写真1)
浅草―東武日光1時間57分(117分)、特急料金200円(記憶では運賃240円)。
まだエアコンなど無い時代で、夏場は窓をフルオープン、成人男性乗客の1,2割は乗車すると間もなく、上着、ズボンを脱いでステテコ姿になってしまい、私の母は「外国人観光客がいるのに、みっともない!」と常に文句を言っていました。
利根川を渡るとほとんどの家屋は茅葺屋根の田園風景で、8月下旬の帰路、鹿沼近辺は5分間くらい麻畑が続き、麻の背丈は車窓より高く、麻の林の中を抜ける走行でした。

東武駅前のハイヤー(写真2)
国産車のエンジンがまだ低馬力だった時代、ハイヤー(タクシーと言わなかった)は高馬力エンジンのアメ車でした。
夏休みの終わりにハイヤーを呼んで特急ロマンスカーで帰京しようとした時、ハイヤーが遅れて来て、(今では考えられませんが)東武日光駅に電話して、特急ロマンスカーの出発を5分ほど待ってもらったことがありました。


日光地区山岳用観光バス(写真3)
パンフレットには「お一人でも乗れる定期観光バス」の案内がありますが、団体貸切バスでは「一回に5,000名様までの大口輸送を御引受けできます」とあり、国立公園日光観光は人気絶頂の頃と思われます。




ケーブルカー(写真4)
馬返から1,250mの高地、明智平まで2分の1の急傾斜を僅か6分で上下する、とあります。




いろは坂(写真5)
1954年(昭和29年)10月に完成、大改修により48曲りから30曲りに整理され、「豪華なビルデングのバルコニーを幾重にも重ねたような急傾斜のヘアピンカーブはジェットコースター以上のスリル満点で、一名アベック道路ともいわれ日光新名所の一つ」とあります。
当時のボンネットバスはホイルベースが短く旋回に好都合で、下りのいろは坂ではベテラン運転手はかなりスピードを上げて走って、乗客はカーブで右に左に身を振られ「キャーキャー」言いながら下って行った記憶があります。
一度、ブレーキ故障でバスが止まらなくなる事故があり、その後、いろは坂下り終点に砂を敷きつめた緊急避難ゾーンが作られました。

明智平付近の航空写真(写真6,7)
写真6には画面中央の少し上に細尾社宅群が見られます。
写真7には、精銅所が見られます。











湯ノ湖(写真8)
岸辺の白い建物は「南間ホテル」、昭和34年、現在の天皇皇后がご結婚されて間もなく、南間ホテルに宿泊され、急遽作られたテニスコートでプレーされました。(南間ホテルはバブル期に、東京で投資に失敗して倒産してしまいました。)
★現在の天皇は戦争中皇太子時代、田茂沢御用邸に疎開していましたが、終戦直前、軍部の一部によるクーデター情報があり、ひそかに南間ホテルに避難され、南間ホテルで玉音放送を聞かれた経緯がありました。(避難には南間栄氏が貢献されました。)




丸沼付近の航空写真(写真9)
手前が丸沼、先が菅沼、右手が奥白根山、先が男体山と中禅寺湖

平成23年5月15日