明治三陸地震による津波(1896年):伝承の難しさ
川村 知一

はじめに
   3月11日、東北関東大地震が未曾有の災害をもたらした。いまなお被災者の救出救援活動が懸命に行われ、福島では複数の原子炉が制御困難な危機的状況に陥り、命がけの復旧作業が行われ、固唾をのんでTV報道を見守っている。

読売新聞・気流(2005年:平成17年1月7日)

   どういう訳か、地震の数週間前に部屋の片づけをしていたところ、私が6年前に読売新聞・気流欄に投稿し、記念に取っておいた古新聞が数冊出てきて、床に置きっ放しにしてあった。
タイトルは「津波の実体験を後世に伝えよう」で、ちょうどインドネシア・スマトラ島沖の地震による津波被害に関連したものであった。

           写真.1 インド洋津波→


文中には「明治三陸地震による津波では、犠牲者が22,000人近くになった」とある。(写真1,2)
 ← 写真.2 読売新聞 気流
          (2005.01.07)

私が「気流」に投稿したきっかけは、チリ津波の翌年、九十九里の現場で津波を経験した漁師から直接話を聞き、強く印象づけられていたのと、多くの若者にチリ津波の話をしても(NOVA英会話で)、ほとんどの若者が知らなかったからであった。


伝承の難しさ
   投稿文面で実態を伝えることは、なかなか難しいと思い知らされた。
 NHKの調査で、最近のチリ地震による津波警報で、避難したのはわずか3%足らずであった、との報告があった。
今回の巨大な津波はビデオカメラの普及で、航空映像を含めて多くの映像が残された。映像から、「すぐ逃げろ」では済まないことも判明し、強固な防波堤の構築が必要であることも判明した。
   先の事業仕分けで、数百年に一度の可能性を想定した河川の「スーパー堤防」がやり玉に挙がって廃案になった。難しい判断であると再考させられた。

追記
2008年3月外房を旅行して、在校した高校が所有する寮がある興津海岸を訪れた。オフシーズンで人影のない綺麗な白砂の海岸を散歩していたところ、数か所に「元禄地震の再来想定津波高さ」という標識が数本あった。
当時は標識の高さの所まで避難すれば良いかと思っていたが、今回の映像を見て認識を新たにした。(写真3,4)










            写真.3  元禄津波高さ標識                              写真.4 興津 守谷海岸

平成23年3月16日