昔の子供と下駄の時代
川村 知一

はじめに

あかがねHPに投稿していると、芋づる式にアレコレ昔のことが思い出される。

前回のアラカルトの投稿で、「清滝小学校2年生の遠足は中禅寺で、帰りは未舗装の旧いろは坂を徒歩で下った。」とサラリと書いたが、当時の履物は下駄で、時代の変化を感じる。

前段(遠足の様子)

当時(昭和24年)、清滝小学校は安良沢小学校に分離する前で、2年生は6クラス、300名の大所帯であった。

また当時のバス、トラックは木炭自動車がほとんどで、交通量は極めて少なかった。



とはいえ、満7才程度の児童が300人、いろは坂を下駄履きで下る姿を思い浮かべるだけで、時代の変化を感じる。中の茶屋付近では直線的に下山し、中には駆け下りる児童もいて教師が制止していた。


                           (写真.1)→

中段(履物は下駄の時代)

終戦直後は、ゴムなどの物資が不足して運動靴などは無く、子供たちの履物は下駄であった。(もっとも日光では伝統的に、小学生は下駄、中学生は高下駄だったのかも知れない:学校の上履きは藁ないし紐で編んだ草履であった。)
当時の丹勢の坂道は砂利道と階段で、砂利道には組合(生協)の荷馬車によって馬糞が散乱していた。(清滝の組合から丹勢の組合への物資の輸送は荷馬車で:米、麦、サツマイモは俵に入っていた。丹勢に着いて馬方が馬を休ませているうちに馬が逃げ出し、「暴れ馬」になって丹勢の社宅の中を駆け回ったことが23回あった。) 
                                               (写真.2)→

2か所の階段の脇には粘土質の直線的な坂が出来ていて、子供達は階段など面倒で、下駄履きで坂を得意気に駆け下り、駆け上っていた。

*考えてみると、下駄だったからこそ出来た業だった、と思われた。


後段(下駄の構造と効用)


下駄の構造は、山・坂の多い日本の地形に適した履物であった、と思う。



急な坂を上る時には、体重を下駄の前端と前歯に掛けると、しっかりエッジが効いてズリ落ち防止になり、下る時には、踵を後ろにズラして体重を下駄の後端と後歯に掛ける、という具合であった。
                      (写真.3)→

余談(日光下駄)

30年ほど前、本社から日光に転勤した時、日光下駄を数千円で購入した。
(写真
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日光下駄の特徴は、竹の皮で編んだ表面で熱伝導が低いため、冬暖かく、夏涼しいことに加え、クッション性も良く、摩擦係数が大のためスリップ防止にもなっている。*今では日光下駄は1万円以上の高値になっている。

平成22615