表参道ヒルズと昭和20年5月25日東京大空襲など
川村 知一
[今回は、少々暗い話が含まれます]
3年前の2007年2月11日に表参道ヒルズがオープンし、表参道の歩道が溢れるばかりの人で賑わい、しばらく続いた。
オープンから3,4週間後、野次馬根性で雑踏に参加したところ、45才位のご婦人5,6人のグループが立ち話して、表参道ヒルズの東端にある同潤会アパート部分(再現したもの)を見て「ここは(戦争で)焼けなかったのね」と気になる会話が耳に入ってきた。 (写真1,2)
私の叔母は、終戦間際の東京大空襲(5月25日)で、表参道の惨状を体験していたので、帰宅後さっそく叔母に電話をして、当時の状況をあらためて詳しく話を聞かせてもらった。
              [写真.1]
叔母は、私の母の妹5人の真ん中で、当時20才であった。家は青山6丁目の都電の停留所から20mほど入った所で、現在の国連大学(旧都電の青山車庫前)の青山寄りにあった。
(私は渋谷の日赤で生まれ、父がドイツに出張中だったので、時々母の実家で過ごし、平屋の間取り、昔の壁掛け電話器、祖父に背負われ青山学院の隣にあったパン屋に行った、など3才頃の記憶がある。)
すでに82才になった叔母に電話したところ、あまり話たくない(思い出したくない)、とは言いながら話をしてくれた。
「5月25日、家族のほとんどは須走(富士山の麓)に疎開していた。空襲が始まり、父(63才)と私(20才)の二人で青山6丁目から表参道に逃げた。すでに代々木方面からは『代々木は猛火でダメだ』と多くの人が逃げてきた。                     [写真.2]
父とハグレ、一人で仕方なく、同潤会アパートに入り階段に一人ションボリと座っていたところ、日本の将校が現れて『水を被らなければダメだ!』とバケツで頭から水を掛けてくれた。
同潤会アパートの中は全焼で、空襲が終わって表参道に出ると、黒こげの死体だらけで、隣組の主婦は座ったまま、学校の先生は安田銀行(表参道の入り口)の壁に寄り掛かったまま、都電の電車の中でも人が立ったまま黒こげになっていた。

多数の黒こげ死体を越えて家に戻ると、家はもちろん、庭にあった防空壕も跡形なかった。しばらくすると父が現れて、二人とも顔はススで真っ黒、白目は熱でやられて真っ赤だった。父は表参道にあったトラックの下に潜って助かった。同潤会アパートの裏にあった小学校のプールに逃げた人のほとんどは焼死した。」

インターネットで調べると、3月10日の東京大空襲は下町中心で、死者8万3千人、被害戸数26万戸に対し、5月25日の東京大空襲は山の手中心で、死者3300人、被害戸数22万戸とある。死者が少なかったのは疎開が徹底したものと考えられる。
5月25日の空襲は25日深夜から26日未明にかけて、飛来したB29は464機、3300トンの焼夷弾が投下された。日本の迎撃機はV式飛燕、撃墜26機、撃破86機、とある。

私の父は昭和19年元旦に、2年半滞在したドイツから帰国して、各地の軍関連で、「ドイツにおける防空」について講演していた(小冊子、西日本軍事新聞に連載された)。
父の話では、「ベルリンとハノーバーで100回以上の空襲を受けた。初めのころは爆撃機が支援戦闘機もなく単独で飛来し、ドイツ人も『敵ながらあっぱれ』などと言っていた。
そのうち1回の空襲で、ソ連の空襲は1時間で500機程度が飛来し、ドーバー海峡を渡ってくる連合国の空襲は3,4時間続き2000機程度が飛来した。
対空砲火はドイツらしくサーチライトがゾーン・ディフェンスで次々と追跡し、約10%を撃墜していた。
ドイツの家屋には地下室があり、公共のシェルターも完備されていたので、爆弾1トン当たりの死者は1人と言われていた。しかし1トン爆弾の至近弾があると、シェルターの中のご婦人が、映画のシーンのように気絶するのを度々目にした。」

「従来、空襲は軍事基地、軍需工場が標的であったが、連合国側はイタリアのムッソリーニが常駐していた都市ミラノを徹底的に空爆し、国民を厭戦気分にさせ、早期降伏させたことで、ドイツでも同様に都市が空襲の標的にされた。
しかしドイツ国民は第一次世界大戦の敗戦で、屈辱と苦しみを十分思い知らされたので、しぶとく耐えていた。またゲルマン民族の教練という名目で、青少年の疎開を開始していた。日本でもいずれ都市の空襲が予測されたので、疎開の重要性を説いた。」

「ドイツの軍需工場は地下にあるのか?と良く質問されたが、そのようなことはなく、ハノーバーのVLW工場でも空襲を受けたが、設備をどこからか補充して1週間くらいで復旧し、ドイツの工業の懐の深さに感心した。
空襲後の消火活動では、消防自動車は瓦礫で動けず、お神輿のように担ぐ消防ポンプが大活躍した。」
(そういえば日光電気精銅所の消防にも、陳腐なお神輿式消防ポンプがあったような気がする。)
 平成22年5月18日