永田町小学校の二・二六(教職員による事変報告)
 川村 知一

はじめに
戦後占領下の昭和26年9月、日光出身であった1教師との運命的な出会いから、私は小学4年の2学期から、単身上京して永田町小学校に転校した。
先週、同級生だった女性が文芸春秋(H21年4月号)のコピーを送ってくれた。
ジャーナリスト中田整一氏の文「永田町小学校の二・二六」である。
内容は二・二六事件(1936年:昭和11年)で唯一反乱軍に占拠された永田町尋常小学校の教職員が、必死で学校を守り記録した、極秘印のあるガリ刷り版「事変ニ於ケル状況報告」に関する記述である。

前段(中田整一氏と二・二六事件研究)
中田氏は1966年、NHKに入局し、プロデューサーとして歴史ドキュメンタリー制作を担当、1979年放送「戒厳指令『交信を傍受せよ』二・二六事件秘録」、1988年放送「二・二六事件消された真実『陸軍軍法会議秘録』」などを手掛けた。
中田氏はNHKに残されていた二・二六関連のアルミ録音盤を発掘していた。
この録音盤は劣化していたが、ある大学で復元したという。
録音盤の内容は、ドイツ大使館(小学校の斜め向かい)の大使室の窓ごしに、反乱軍が占拠した、文部大臣官邸、鉄道大臣官邸(小学校の向かいで、現在自民党本部付近)の動きを日本の憲兵が監視してどこかに告げる、電話の盗聴録音であった。

中段(ガリ刷り版記録と録音盤内容の相関)
中田氏はガリ刷り版を、90歳の堀文子画伯(日本画家で花や自然を70年間描き、2007年にはNHK教育テレビ「日曜美術館」に出演)に頂いた、とある。
堀文子画伯は永田町小学校を出て、女学校に通っていたが、事変当日は休校になり、自宅の奥に潜んで反乱の恐怖を身をもって体験した、という。
中田氏がガリ刷りを読んで“アッと驚いた”のは、事変3日目の2月28日、残留して学校を必死に守る教師の記録と、アルミ録音盤の内容との、二つの資料の照合で、はじめて彷彿として絵像と結んできたことであった、という。

後段(教職員の奮闘と当時の教育現場の様子)
以下、文芸春秋H21年4月号、中田氏の文面より:
ガリ刷り報告の主題は、学校が直面した最大の心配事、奉安庫に安置する現人神たる天皇の御真影と教育勅語をいかに無事に守り通したか、にある。
26日、「タダナラヌ騒音、異常ナル激音ニ暁ノ夢を破ラル」と、銃声にたたきおこされた宿直教師の驚愕ぶりが伝わってくる。何事かと慌てて外にでると「武装着剣ノ兵迫リテ大喝、剣ヲ擬セリ其ノ声雷ノゴトシ」と、校門から一歩もでるなと銃剣をつきつけられ、教師は驚いて校内に戻る。ときに午前4時15分。
この朝、雪が霏霏として降るなか、夜が明けると教師たちがあらゆる手段をつくして反乱軍の警戒線を突破して全員が登校してきた。責任感あふれる教師たちのあっぱれぶりである。登校中の児童は、教師が途中で待ちうけて引率し家庭に送り届けた。
戒厳令がしかれた27日、永田町尋常小学校の不安と緊張は高まる。学校の区域を包囲するかのように鎮圧の軍隊が続々と集結してきた。
私(中田氏)がアッと驚いたのは、翌28日、残留して学校を必死に守る教師が見た、現在の自民党本部のあるあたりの道路を隔てた文部大臣官邸と鉄道大臣官邸にいる反乱軍300名余の動静の詳述である。官邸の東隣にはドイツ大使館(現在国会図書館のある場所)がある。そのとき大使館の大使の部屋の窓ごしに、官邸の反乱軍の動きを日本の憲兵が監視してどこかに告げる、電話の盗聴録音が今日に残っているからだ。
かつてこの録音盤を発掘した私の脳裏には、二つの資料の照合ではじめて戦闘準備の当時の現場の状況が彷彿として絵像を結んできた。
この日、天皇の討伐命令が下されて一触即発の緊迫の極をむかえた。学校は火災の危険にさらされる。午前10時37分、区長の指示を仰ぎ奉安庫の扉がおごそかに開かれた。
御真影と教育勅語を、校長が捧げもち、ふたりの教師が前後を警備して職員が最敬礼するなかを隣の番町尋常小学校への「奉遷」の儀式を行った。学校の重要書類は校庭に埋め、校長が命がけで守った御真影は警察官の警護のもと「御真影奉遷御車」と墨書きした紙を自動車に貼って「降雪霏霏タル中ヲ赤坂見附ヲ経テ番町小学校ニ向フ」と、緊張がみなぎる。
その夜永田町尋常小学校には機関銃を携えた反乱軍の兵士60名が押し入って宿営。彼らは死を決し軍歌を歌い別れの酒宴をもよおすが、やがて翌朝「兵に告ぐ」の放送で全員涙ながらに帰順していった。
3月2日、こんどは番町小学校で職員、児童が最敬礼で見送って御真影と勅語の「奉還式」が行われた。
やがて午前10時25分、永田町小学校の6年生の男女が校門前で最敬礼して迎え、「運動場ニ整列セル5年以下ノ児童職員ト共ニ君ガ代ヲ合唱ス、校長捧持シテ正面壇上ニ起立、全員最敬礼ヲナス」。御真影が無事に奉安庫に還ってきて「此ノ日授業平日ノ通リ」と、学校に安堵がひろがる。
記録は、この二・二六事件の裏に埋もれて奮闘活躍した教師と用務員ら全職員20名を銘記して終わっている。
すでに1993年、後身の永田町小学校も廃校となって久しい。  

(永田町小学校は2年ほど前が100周年であった。現在校舎は残っているが関東大震災後に建てられた3階建で、80年の時を経て芯の鉄骨の劣化が進み、今年中には解体される運命と聞く。100周年記念行事で学校を訪れ、最上階の講堂の隣にある資料室が公開された。
戦災でも奇跡的に無傷で残ったため、第一回卒業生からの名簿、卒業写真がガラスケースの中に整然と保管され、学校が長年にわたって発行した刊行物も保存されていた。ただし取り壊しになると、これら資料の引き取り手はない、という。)

追記
戦後、学制が変わって2年目の昭和23年に小学校に入学し、戦後教育で育った私には、戦前の教育現場について断片的ではあるが知ることが多かった。
あかがね会のメンバーの中で、戦前の教育を受けられた方には、当たり前のことであるかも知れない。

参考までに広辞苑で調べた単語:
奉安庫(殿):御真影、教育勅語謄本などを奉安するために学校の敷地内に作られた施設、1920年代後半から30年代にかけて普及、奉安所。
御真影:教育勅語発布前後より、申立てのあった一部の学校などに宮内庁から交付された、天皇・皇后の写真。1930年代にはほぼ全ての学校に普及。
教育勅語:明治天皇の名で国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示し、1890年(明治23年)10月30日発布。御真影とともに天皇制教育推進の主柱となり、国の祝祭日に朗読が義務づけられた。1948年、国会で排除・失効確認を決議。正式文書では「教育ニ関スル勅語」。

平成22年2月