日生劇場「キャバレー」観劇と雑記
川村 知一
はじめに
1月19日、日生劇場で上演された「キャバレー」を観劇した。とは言っても、私はミュージカルに関して素人である。
出演者には藤原紀香、阿部力、杜けあき、木場勝己、諸星和己(元光GENJI)
などの顔ぶれ、演出は小池修一郎であった。
 
前段(ストーリーと時代背景)
第一次世界大戦後、疲弊したドイツの首都ベルリンは退廃的な世相で、1929年、ナチス台頭前夜のベルリンのキャバレー「キット・カット・クラブ」を舞台に、米国ペンシルバニアから来た作家クリフと歌姫サリーの恋を描いた物語。
 
ブロードウェーで初演されたのは1966年(昭和41年)で、米国では1964年に公民権法が制定され、法的に人種差別は終わりを告げたが、混乱の最中であった。1964年にはキング牧師がノーベル平和賞を受賞したが、1968年にテネシー州メンフィスで暗殺された。
アジアでは1964年、ベトナムでトンキン湾事件が発生し、1965年に米国が本格的にベトナム戦争に突入した。
ストーリーではナチスの台頭でユダヤ人迫害が始まり、下宿の女主人シュナイダーは果物屋シュルツと老いらくの恋から婚約までしたが、シュルツがユダヤ人であったので、警告を受けて破談になった。
人種差別がストーリーの背景にあったミュージカルで、公民権運動も関連して人気を博した、とある。
 
1972年、ライザ・ミネリのサリー役で映画化され、同年のアカデミー賞では主演女優賞が授与された。ただしストーリーは映画用にかなり脚色された。米国内ではベトナム戦争反対運動が持ち上がっていた。
 
中段(読売新聞、旗本浩二の評など)
旗本浩二の評では「一度聞いたら忘れがたいメロディーのタイトル曲で知られる。それだけに歌こそが肝心要。歌姫役の藤原紀香の何とも荒削りな歌いっぷりからは、女優としてもう一皮むけようと頑張る姿がひしひしと伝わってくる。場末のキャバレーならば、これくらいの方が似合っているのかもしれない。」とある。実際のところ、彼女は歌手であったのか?と思わせるほど、声量が豊かであったし、長身でナイスボディーから存在感があった。
「とは言え、下宿の女主人役の杜けあき、彼女に恋する果物商の木場勝己らベテランたちが聞かせる安定したハーモニーが下支えし、まろやかなミュージカルに仕上げられた。ステージの司会役、諸星和己に至っては、光GENJI時代を思い出させるローラースケートまで披露するなどサービス満点。暗い時代に生きた人々の哀愁を感情豊かに伝えている」とある。
藤原紀香と諸星和己の適役が日生劇場を満員にさせた一因と思われた。ちなみに客の約90%が女性であった。
 
後段(私とミュージカル)
私がミュージカルというものに出会ったのは、昭和30年ごろである。当時、中学生で、学校の中間テスト、期末テストが終わると日比谷の映画館街に直行するのが常で、映画館の看板を見て品定めした。日本映画に比べてアメリカ映画は総天然色で華やかなものが多く、その中に日の丸が付いたゼロ戦が飛んでいる看板があり、戦争映画と思って入った。ところがストーリーが理解できず、のんきに歌ばかり歌っていてチンプンカンプンのまま帰ってきた。ミュージカル映画「南太平洋」であった。(ちなみにゼロ戦は2,3機が飛来し、数秒の登場でガッカリした。)
 
初めてシアターでミュージカルを見たのはニューヨークで、タイトルは「42nd Street」であった。
これまた私の投稿に度々ある2003年のことである。タイムズスクエアー近く、42ndストリートにあるヤンキース公認グッズショップに、100周年記念グッズを買いに行った。(ヤンキース100周年ロゴ入り公式ボールは20ドルであったが、松井のサイン入りボールは900ドルで売られていた。)
周辺はシアターが立ち並んでいて、道路の向かいでは「ライオンキング」が上演されていた。人気がありチケットは無理との噂だったので、2,3軒隣りで翌日の「42nd Street」のチケットを購入した。
 
翌日、シアターに入ると3階席で、はぼ満員、驚いたことに観客の90%が男性客であった。
ストーリーは劇団のベテラン女優とニューフェイスの栄枯盛衰を描いたもので、さすがブロードウェー、と見ごたえのある脚線美豊かなタップダンサー30名ほどによる、見事なタップとラインダンスが堪能できた。(数年後、来日公演もあった。)
上演中にオチがあって観客の笑いが時々あり、ついていけなかったのが残念であったが、何はともあれ本場ブロードウェー・ミュージカル観劇であった。
(ミュージカルの選択は、行き当たりばったりの感であったが、妻は帝劇で元宝塚スター達による日本版「42nd Street」を観劇していたので、比較の意味で楽しんだようである。)
平成22年2月