ラオスに旅して  
稲葉 浅治  
 先月、受講申し込みをしていた美術史講座の先生が急病になられ、思いがけなく、 一週間の自由な時間ができた。これ幸いと海外旅行へ出かけようとしたが、急なことで通常のツアーは申込期間を過ぎて参加できないし、いつも夫婦で出かけているが、今回は急なことなので、1人で行こととして、航空券とホテルのセット旅行を探した。
いろいろ探した結果、ラオスなら空きがあるということで行ったことのない国なので、ラオスへの個人旅行へ出かけることにした。
 日本からラオスへは直行便はなく、ベトナム経由かタイ経由で行くしかない。今回、私が申し込んだコースは、成田からベトナムのハノイに行き、ここで乗り換えて、ラオスの首都ビェンチャンへ行くというものであった。
 成田からハノイまでは、ベトナム航空で約6時間かかり、乗継時間約3時間後に、ラオス航空でビェンチャンまで約1時間かかった。成田を10時10分に出発し、ビェンチャンに到着したのはラオス時間17時50分であった。日本との時差がマイナス2時間なので、日本を出発してから約10時間かかった。
 ビェンチャンのワッタイ国際空港に出迎えの男性ガイドが来ていたが、今回日本からの観光客は私一人だけとの事だった。
 まずはラオス通貨の両替(日本では両替できない)をすることにしたが、1万円が現地通貨で約80万キープになり、何だか急にお金持ちになった気がした。ラオスは硬貨がなくすべて紙幣であり、500キープ(日本円で約6円)から100000キープ(日本円で約1300円)の8種類である。
 空港から市内中心までは約6kmしか離れていないので、車で約20分位と近かった。2009年に東南アジアオリンピックが開催されたビェンチャンは、翌2010年に遷都450周年を迎えたラオスの首都である。到着した日はホテルに着いたのが19時だったので、ゆっくりとホテルで休むことにした。宿泊したホテルは古いホテルであったが、メコン川を望む旧市街地の中心にある大型ホテルであり、室内もツィンベットでかなり広かったが、バスタブは無く(ラオスではバスタブ無しのホテルが多い)シャワーのついた清潔感のあるホテルであった。
 翌朝、朝食付きということになっていたので、どのような食事かと思っていたら、パン、コーヒー、ジュース、サラダ、ハム、ソーセージ、タマゴ、果物等種類はそれほど多くなかったが、ビッフェ方式でまずまずの朝食を取ることができた。
今日は、昨日空港に出迎えてくれた男性ガイド(彼は小さな旅行会社の社長)が、自分の車で市内を案内してくれる事になっていた。まず最初に連れて行かれたのが、「パトウーサイ」であった。 
 
―――― 「写真①」(パトウーサイ) ――――
これは、パリの凱旋門を模して建てられた戦死者を慰霊する門である。1967年に建築が始まり、外観は完成しているが、内部はまだ未完成の処があるとのことであった。門の上は展望台となっており、ビェンチャン市内が一望でき、素晴らしい眺望である。門に登るにはすべて階段であり、各階毎に土産品店があり、売り子が熱心に勧誘するのでその分時間もかかった。
 
 展望台から見下すと隣接する首相官邸が良く見えた。 
 
―――― 写真②(首相官邸) ――――
 本日のガイドは日本の大学にも留学した事があり、首相官邸で行われるラオスと日本の公式会談で日本語通訳を担当している人で、その様子をスマホで見せてくれた。ガイドのお父さんはラオスの高級公務員との事だった。 
 次に訪れたのは金色に輝く塔が特徴の「タートルアン」である。 
 
―――― 写真③(タートルアン) ――――
高さ45mの黄金の塔はビェンチャンのシンボルで、中には仏陀の骨(仏舎利)が納められている。外壁の一辺は約85mの正方形で、その中の庭にさらに一辺約60mの正方形の土台を持った塔が建っている。内部に入る事は出来なかった。
 そろそろ正午に近付いてきたが、気温は30度を超えてきて、とにかく暑い。立っているだけで汗がタラタラ流れてくる有様である。ラオスは3月~5月が暑季で最も暑く、気温も35度位になり、6月~10月は雨季で気温は30度位。11月~2月が乾季で気温も25度位に下るそうだ。6月は雨季で、降水量も8月9月に次いで多く、雨に降られないかと心配したが、旅行中一度も雨に降られずラッキーであった。
 昼食をとることとなり、ガイドが案内してくれたのは、メコン川沿いのレストランであり、川面からの涼しい風にほっと一息つくことができた。食べ物はガイドにお任せにしたが、彼はまだ30才台と若い独身者で次々と料理を注文し、パクパクと食べるのでびっくりした。
私は魚が食べられないので、ラープ、ムー(豚肉炒め)、ピンカイ(ラオス風の焼鳥)、ヨーカーオ(ベトナム風春巻き)等がおいしかった。食後にやしの実のジュースを飲み、ガイドと二人で2時間程かけて昼食をした。かなり沢山食べたので、料金がどの位かかるかと思ったら、2人で25万キープ(日本円で3300円)と意外に安く、日本の半額位の感じであった。
 午後の観光は、「ワット・ホーパケオ」から始まった。 
 
―――― 写真④(ワット・ホーパケオ) ――――
 ビェンチャンに遷都が行われた時、エメラルド佛を安置する目的で1563年に建立されたお寺である。この寺は王様の保護寺院であるため、僧侶はいないとの事である。
 
 次いで訪れたのもお寺で「ワット・シーサケート」である。 
 
―――― 写真⑤(ワット・シーサケート) ――――
 1551年の建立当時そのままの姿をとどめるお寺で、本堂には2052体の仏像が並び、回廊に彫られた3420の穴には2体ずつ仏像が安置されていた。
 
この近くにラオス国の迎賓館があり、とても立派な建物であるが、門の外からのぞくしかなかった。 

 ―――― 写真⑥ (迎賓館)――――
 次に案内されたのが、ラオス最大のマーケット「タラート・サオ」である。生鮮食料品以外のあらゆる商品を取り扱っている。敷地内には2階建の旧館、3階建のモール、8階建ての新館が隣接しており、あらゆる生活用品、工芸品、繊維製品、貴金属、雑貨等を販売している。しかし、いわゆる工業製品はラオス製はほとんど無く、タイ産、ベトナム産などの輸入品が多かった。
  昼間の観光が終り、ホテルに戻り、少休止した後はホテルのすぐ前のメコン川沿いの空き地に、夕方から夜にかけて夜店が出るというので案内してもらった。その数は千店位あり、洋服、おもちゃ、靴、カバン、食料品等いろいろな物を売っており、地元のお客で溢れていた。

 その翌日は、ガイドを断り、自分一人で市内を観光することにした。やはり、知らない街、初めての街は自分の足で歩いてみるのが、その街を知るには一番だからである。地図を見ながら、迷いながら歩くのは楽しい。但し、安全には十分配慮しなければならない。
 まず、最初、目指したのはホテルから歩いて1時間以上かかるところにある「ラオス人民軍歴史博物館」である。 
 
―――― 「写真⑦」(ラオス人民軍歴史博物館)――――
ここはラオス国防省の博物館で、前庭にはソ連製の飛行機や大砲等が陳列されていた。館内の1階は軍用車両の展示、そして2階は小銃や無線機など、ラオス軍がこれまで使用してきた武器や装備のほか、1980年代の国境紛争で撃墜したタイの無人偵察機も展示されていた。
博物館を見学した後、近くにある「革命記念塔」や「国会議事堂」などを巡ったが、中へは立入禁止のため、外から見学した。簡単な昼食を済ませたのちに向かったのは「ラオス国立博物館」である。博物館に到着したのは12時45分位であったが、12時から13時までは閉館となっていた。仕方なく、入口付近のベンチで待っていたら、13時ジャストに入口が開けられ、時間の正確さにびっくりした。この時間に入場したのは私一人であったが、見終わる14時過ぎまで、他の入場者は無く、おかげでゆっくりと見学出来た。この博物館はラオスの考古学的な遺品、内戦時代、現代の社会、経済を展示していた。1階はラオスで出土した土器、石器等が展示されていた。2階はフランス植民地時代から社会主義革命にかけての展示が中心であった。再び1階に下りると、ラオスの経済や社会活動、生活などが解説展示されていた。 

 博物館の見学を終えて「ナンブ広場」や「国立図書館」「アメリカ大使館」等を経由して、向かったのが「ワット・シームアン」である。

この寺は通りのY字路に位置するお寺で、セーターティラード王の建立と伝えられる
寺院である。ビェンチャンの寺院で、最も参拝客が多いと言われ、特に女性の参拝客が多いという。寺に伝わる「シーの女性伝説」が広く信じられており、院内は女性の捧げる花束で満ち溢れていた。

 ホテルに戻り、小休止した後、メコン川沿いの露店へ行った。夕方5時頃は、どのお店もテントを組み立て、商品を陳列するのに大忙しであった。


                                           ―――― 写真⑧(ワット・シームアン)――――
どのお店がどこに出すのかが決まっていて、地元の人も、なじみのお店、なじみの店員がいるとのことであった。
露店のとぎれる辺りのメコン川の土堤から大音響の音楽が聞こえてきた。よく見るとエアロビックスのようで、正面の壇上に女性のリーダーが数人踊っており、そのリーダーが交代でひっきりなしにマイクで号令を掛けている。その号令に従い、何百人という人が一勢に踊っているのである。そのようなグループが3つあり、希望者は誰でも参加できるらしいが、参加費も必要で、係の男性がグループに入る人からお金を集めていた。このエアロビックスは休み無しに2時間位続くので、リーダーの女性は相当タフな人でないと務まらないとのことである
夜は宿泊したホテルの1階がラオス舞踏を楽しめるレストラン「サロンサイ」(ラオスで一番古いショーレストラン)があったので、そこでラオス料理、ラオスビール、ラオス舞踏を楽しんだ。

 翌日からは、ガイドがラオスの田舎を楽しむために一泊旅行へ出かけましょうと、誘うので、それもよいかと思いOKした。翌朝、自家用車でやってきたガイドは助手席に若い女性を乗せていた。まったく聞いていなかったので驚いたが、私には会社のスタッフに勉強させるために連れて来ましたと言っていたが、どうも彼女の様な感じだった。私のOKもなく進めているので、私もあきれたが、日本ラオス友好のためになるならと黙認した次第である。
一泊旅行の目的地は、ビェンチャンからルアンパパーンに向かう途中にある「バンビエン」という田舎町で、車で片道4時間掛かるところである。ビェンチャン市内は道路も完全に舗装されていたが、だんだん郊外へ行くに従い、ラオスNO1の幹線道路であるにも拘わらず、デコボコ道が多く、車に乗っていても、いつ身体がとび上がるか気が気でないような有様であった。
途中、いろいろな物を売っている所があったが、一番多いのは果物を売っている露店で、特にパイナップルはその場で切ってもらうと、ジュースがしたたり落ちる新鮮さで、日本ではとても味わえない美味しさであった。
 
――――写真⑨(果物売り)――――

「バンビェン」はビェンチャンから車で約4時間で行ける自然豊かな大景勝地である。この地は、ラオス内戦時代に共産軍を政撃するため、王国政府側についたアメリカ軍が飛行機やヘリコプターの基地として使用していた所で、現在でもその滑走路の跡が残っている。しかし、現在では、岩山の織り成す雄々しい山々、その下を流れるナムソン川の清流を求めて観光客が大挙して訪れるようになった。 
 
―――― 写真⑩(ホテルから見た山々とナムソン川) ――――

 ホテルで昼食を食べた後、「タム・チャン洞窟」へ向かった。町の中心から南へ約2km離れた「バンビェン・リゾート」の敷地内にある。洞窟の入口まで147段の階段を登らなければならない。 
 
―――― 写真⑪(タム・チャン洞窟) ――――
 洞窟の内に入るとライトアップされた幻想的な鍾乳石が連なっていた。天然の鐘乳石が織りなす造形美は見事なものであった。
夕方、涼しくなってからナムソン川の舟遊びを楽しんだ。往復約1時間で川の上流まで行き、雄々しい山々と渓谷美とを満喫した。川には観光客が大きなタイヤに乗り、ゆったりとした川下りを楽しんでいた。
夜は滑走路近くの屋台村に出かけ、ラオス料理の素朴な料理をあれこれ食べた。ガイドと若い女性はラオス語で話しながら楽しそうに食べており、私も功徳を施したような気分になった。ガイドが珍しい物を食べましょうと言うので何かと思ったら、コウモリの姿煮だと言う。私も中国でサソリのから揚げや南アフリカで芋虫の黒焼きなど食べたことがあるが、何事も経験と思いチャレンジした。コウモリが一羽、羽根を広げた形で煮られており、頭から羽根から足までまるまる食べられるようになっており、あまりおいしいとは思わなかったが、コリコリとして、多少苦いところもあったが、どうにか食べられた。   
 
―――― 写真⑫(コウモリの姿煮) ――――
 ごはんでは「カオニャオ」というもち米がおいしかった。竹で編んだおひつに入って出されるが、これを素手で食べるのである。どういうわけか、おはしよりも素手で食べた方が何倍もおいしいと言われている。
 翌朝のホテルの食事は、皿にフランスパンが丸々1本のっていた。コーヒーは、ステック入りのラオスコーヒーでものすごく甘かった。果物は、籠にドサッと入っていて、お好きなものをどうぞという。

朝食の後、滝を見に行くことになった。片道約1時間かかったが、その道は林道で、デコボコ道が延々と続いた。身体が上下左右にゆれ、車体が時々地面をこすり、めったに来ない対向車がたまたま来ると、すれ違うのにハラハラしながらという状態であった。でも、滝は涼しく気持ちよかった。
―――― 写真⑬(ビェンチャンの滝)――――

こうして、バンビェンからまた4時間かけてビェンチャンに戻った。日本へのお土産を買おうということでマーケットに連れて行ってもらった。繊維製品、竹製品などはラオス製があるが、お菓子類はほとんど輸入品で、ラオス製品はコーヒーか「タマリンド」という果実キャンデー位しか無かった。

 アジア最後の桃源郷と言われるラオスだが、やっと内戦も終わり、これから発展していく国に間違いないと思われる。ラオス人は日本が50年以上も様々な援助を続けてくれた事に感謝しているとのことである。日本からの直行便もなく、ラオス観光ツアーもほとんどない現状だが、ラオスには昔の日本を思い出させる所が沢山見られる。また、いつかはラオスを訪れたいと思いつつ、私にとっての通算77回目の海外旅行は終わりを告げた。