日光湯元「晃元荘」の思い出 
稲 葉 浅 治 
   いつもゴールデンウイーク(G.W)は、混雑する、旅行代金も高い、その割にサービスが低下する等の理由で、G.Wに旅行に出かけることはほとんどしたことがなかったが、今年は孫達と老夫婦で国内旅行に出かけた。
 というのは、孫達の母親である長女が、 連休を利用して、東日本大震災の被災地である宮城県に、ボランティアとして大学生150人を引率して出かけることになり、 孫達の面倒をみることを頼まれたことが発端である。
 ならば、自宅で孫達の相手をするよりも、どこか旅行にでも行った方がよいと考えた。私は知人が数名いる仙台方面に行きたいと言ったが、交通事情もあり、また被災者のことを考えると観光というわけにもいかないだろうと反対され、断念した。
 たまたまテレビを見ていたら、今回の大地震でほとんど被害もなく、また、放射能の心配もない大観光地の日光のことが報道され、観光客が激減し、旅館や土産物店等が困っている風景が映し出された。日光は私が50年以上前に初めて勤務し、木造の旧紫明寮、鉄筋の新紫明寮で独身時代を過ごし、その後結婚してから、安良沢25条社宅、丹勢ブロック社宅で新婚時代を、途中長女も生まれての三人家族で過ごした思い出の土地である。(この間、私の職場は、日光伸銅工程課、日光会計課、古河アルミ日光会計課と変った)このようなことで、日光に少しでもお役に立てるならと思い、旅行目的地を日光湯元温泉に決めた。
 東北道はG.Wの影響で車が混雑し、湯元に着いたのは午後2時過ぎとなった。遅い昼食を済ませてから、まず湯の湖のほとりを通り、湯滝を見物に行った。この頃には朝、東京を出る頃五月晴れだった空も曇ってきて、  湯滝観瀑台に着いた頃にはG.Wというのに雪がちらついてきた。やや強い風に吹かれて舞い散る雪は春を告げるように舞いながら、地上の花となり、すぐに溶けてしまう状況であった。
 再び湯の湖畔に戻り、日光湯元ビジターセンターを訪れた。
その時、ふと、日光時代によく利用した「晃元荘」のことを思い出した。
「晃元荘」が古河電工の手から離れ、それに伴い、当然のことながら古河電工の保養所でなくなっているということを噂で聞いていた。
 昭和34年から昭和40年まで、6年間の日光勤務時代に延べ何十回も利用したことのある「晃元荘」は、現在どうなっているのか、突然、興味をそそられた。
 G.Wといいながら、付近にはまだ雪が残っており、その雪を踏みしめて「晃元荘」と思われる建物に近付いていった。そこには昔の面影をそのまま残した昔ながらの建物が立っていた。玄関の入口の上にはちゃんと「晃元荘」という看板も昔のままに残っていて、とても懐かしい、とてもまぶしい気持ちになった。玄関横には寒暖計がぶら下がっており、水銀柱は4度をさしていた。
 「晃元荘」は、日光在住の前半である紫明寮独身時代には、山歩きの拠点として、仲間でよく利用した。ここを拠点として白根山(2578m)、湯泉岳(2333m)、男体山(2484m)、太郎山(2368m)、大真名山(2375m)、小真名山(2323m)等を登山したものである。
 また、金精峠から奥鬼怒方面(加仁湯、八丁の湯等)、切込湖、刈込湖から山王峠を経て光徳牧場へ、戦場ヶ原や小田代原へのハイキングにもよく訪れた。
 湯の湖では解禁とともにマス釣りに挑戦し、その模様(小生が湯の湖の中に入っているところ)が毎日新聞に掲載されたこともあった。
 また冬にはスキーを楽しむために毎週のように「晃元荘」に宿泊し、新入社員同志で競い合ってスキーバッジテストを受けたことも思い出した。その頃のスキー板は木製で、ストックは竹製で、スキーウェアは普通のジャンパー姿であったが、皆、夢中になってスキーをやったが、一番下手だったのは紫明寮在住の大卒新入社員だった。
 入社後3年目の昭和37年に結婚してからは、軽目のハイキングを主体とするようになり、翌年、長女が誕生してからは、温泉を主体としてのんびりと過ごすために「晃元荘」を利用させてもらったので、特にお風呂は楽しい思い出の場所であり、あの独特の硫黄泉の臭いは今ではむしろ懐かしさを感じさせてくれる。
 「晃元荘」は、現在、日光湯元ビジターセンターのすぐそばにあり、職員の宿泊寮となっており、昔の姿をとどめた形でまだまだ十分活用されていると聞き、ひとしお嬉しさがこみ上げてきた。
 このように、私にとって、日光の心の故郷ともいえる「晃元荘」に出会ったことは、今回の旅行の大きな収穫となった。孫達にも昔話を聞かせながら、私も妻も新婚時代に立ち帰った気分を十分味わうことができた。
 来年が昭和87年であり、私達夫婦にとり、満50年の金婚式にあたるので、それまで元気に生きて、お互いをねぎらい合うことが出来ることを望んでいる。               以 上
 2011年5月9日