第 4 3 6 回 講 演 録

日時: 2016年04月06日(水)13:00~15:15

演題: 21世紀を「文化の世紀」へ
       ~「行動する事務局長」としてユネスコ改革を主導した10年~

講師: 元 駐仏大使、前 ユネスコ事務局長 松浦 晃一郎 氏

はじめに

私が本日古河電工OBの集まりである「古河電工あかがね倶楽部」で講演することになったのは、1964年3月に古河電工会長小泉幸久氏を団長とする日本政府派遣の「北アフリカ経済使節団」の一員として外務省から派遣され、使節団のお世話をする機会が与えられたというご縁があったことによる。この使節団は小泉団長の他、財界人11名、学者1名で構成され、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、アラブ連合(エジプト)、スーダンの6カ国に3月4日から34日間にわたり派遣された。   使節団は各国で政財界の首脳と会談し、従来わが国と経済交流の少なかったこれら各国の経済の実態と将来性、わが国との貿易拡大及び経済協力の可能性などを調査した。当時私は外務省経済局中近東課(*)で総務班長の職にあったが、使節団同行中は英・仏語による通訳なども務め、使節団帰国後は古河電工本社内の社長室に専用デスクを置き、2~3カ月にわたり使節団報告書のとりまとめに専念した。この使節団への参加の前後から始まった私の50年以上にわたるアフリカ大陸との関係について、自著『アフリカの曙光』(かまくら春秋社、2009年刊)に詳述している。(*外務省経済局中近東課は英語では“Afro-Middle Eastern”といい、中近東だけではなくアフリカも担当していた。)

当時、1960年代の日本は池田内閣の「所得倍増計画」に象徴される高度成長期にあったが、対外的にはGATT35条援用による対日関税差別の撤廃、OECD(経済協力開発機構)への加盟などの重要課題を抱えていた。OECDは、米国のマーシャルプランを受けて1948年に設立されたOEEC(欧州経済協力機構)に1950年に米加も参加し、1961年にOECDに改組されたものである。OECDはその設立の経緯からして米加と西欧を中心とする限られた地域の国々による、アメリカと西欧の経済関係を軌道に乗せるために始められた経済協力体であったため、アジアの一国、日本の加盟には多大の困難が伴った。米国は日本の加盟を支援していたものの、仏は最後まで反対していた。しかし、1962年の池田・ドゴール会談が奏功し1964年4月には日本のOECD加盟が認められ、先進国の仲間入りをすることになった。因みに、当時ドゴール大統領が池田首相を「トランジスタラジオのセールスマン」だと揶揄したと報じられた。しかし、駐仏大使として着任前に当時の記録文書を調べて見たが、そのような記述は一切なかった。この年は、9月にIMF総会が東京で開催され、10月には東京オリンピックが開催され、新幹線や東京の経済インフラが整備された年として人々に記憶されているが、日本が先進国の一員としてOECDに加盟し、国際舞台へ華やかな登場を果たした記念すべき年でもあった。

まさにその年に、当時盛んに唱えられていた「経済外交」の一環として北アフリカ経済使節団が派遣された。民間の有力な経済人が中心となって世界各地に経済ミッションが派遣された中で、「北アフリカ経済使節団」は経済外交の一端を担う重要なミッションであった。北アフリカ6カ国と日本との関係がその後順調に進展する出発点となったのが小泉使節団の訪問であった。ただ現在の北アフリカ諸国は2010年末にチュニジアから始まった「アラブの春」による内政の混乱に見舞われ、日本との経済関係も停滞しているのは残念である。

. ユネスコの概要

1.ユネスコの活動領域

ユネスコは「“ユネスコ”と言えば世界遺産」、「“世界遺産”と言えばユネスコ」として一般に広く知られているが、むろん、その活動は世界遺産の選定・登録に止まるものではない。その正式名称は「国際連合教育科学文化機関(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization (UNESCO)」で、教育、文化、自然科学、社会科学、コミュニケーションの五分野にわたる広範囲な活動を行なっている。

2.ユネスコの「国連システム」の中の位置づけ

ユネスコは人類が生みだす文化と知識、その交流に関わる機関として、ユネスコ憲章前文の『戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない』とする平和理念の実現のために、「国連システム(広義の「国連」)」の中でも最も重要な役割を果たしているといえる。国連システムは、①政治・軍事を扱う安全保障理事会を中核とする「国連」本体、②経済・金融・貿易を扱うIMFWTOなどの経済関連の国際機関、③経済以外の人間生活の諸側面を扱う機関としての、UNESCOWHOFAOILOITUなど、三つの機能別カテゴリーで構成される。ユネスコは現在、国連システムに属する10の計画・基金、20の専門機関の中でも最多の195カ国が加盟し、職員数2,200人を擁する大組織であり、国際的にもその発言が重く評価されている。

3.ユネスコの組織

「事務局長」は“Director General”の訳語であるが、「事務局長」というとその上に総裁や会長の存在を思わせるので訳語として適切かどうか疑問があるものの、下図に示すようにユネスコの行政府の最高責任者である。ユネスコの立法府に相当するのは2年に1回開催される「ユネスコ総会」(General Conference)及び加盟195カ国の中から選ばれた58カ国で構成される年2回の「執行委員会」(Executive Board)である。

 

 4.ユネスコの歴代事務局長

昨年10月のニューヨークでの国連の70周年記念式典に引き続き、1116日にユネスコの70周年式典がパリで行なわれ、私も招かれて出席した。1113日にパリで同時テロがあった直後であったので開催が危ぶまれたが無事開催された。国連が発足したのは194510月で、その翌月11月にロンドンでユネスコの設立総会が開かれユネスコ憲章が採択された。ユネスコが正式に発足したのはその1年後の194611月であるが、ユネスコは伝統的に憲章採択の日を発足の起点としている。ユネスコ発足60周年記念式典は私が主催者となって、第8代の事務局長として在任中の200511月に行なったが、その際列席した第6代事務局長のセネガルのアマドウ・エムボウ氏、第7代スペインのフェデリコ・マヨール氏と第8代の私の3人と、既に物故されていた5代目以前の5人の事務局長の遺影と一緒に記念撮影をした集合写真が今もユネスコの事務局長執務室の入り口に掲げられている。

私の後任の第9代事務局長はフルガリアの外務大臣の経歴を持ち、私の事務局長時代にブルガリアのユネスコ大使を務めたイリナ・ボコバ氏であるが、同氏は次期第9代国連事務総長候補として手を挙げている。新聞報道にもある通り、次期事務総長候補として立候補している8人中4人は女性で、次は女性事務総長をという期待が高まっており、また選出地域グループのローテーションで東欧が次回選出グループに当たることから、ボコバ氏が有力視されている。他の女性の有力候補にはUNDPのヘレン・クラーク総裁が挙げられているが、UNDPUNHCRと同様に条約に拠らず、国連総会の決議の下に設立され、国連事務総長の指揮下に入るのに対し、UNESCOは独立した機関でUNDPより格上の存在であることから、ボコバ氏が国連初の女性事務総長として選出されることを私としては期待している。

               ユネスコ歴代事務局長(文部科学省ホームページ他資料より)

 代

     事務局長名

出身国

在任期間

ジュリアン・ハクスレー

イギリス

1946年12月~1948年12月

ハイメ・トレス・ボデー

メキシコ

1948年12月~1952年12月

代理

ジョン・W・テイラー

アメリカ

1952年12月~1953年7月

ルーサー・H・エバァンス

アメリカ

1953年7月~1958年12月

ヴィットリーノ・ヴェロネーゼ

イタリア

1958年12月~1961年11月

代理

ルネ・マウ

フランス

1961年11月~1962年11月

ルネ・マウ

フランス

1962年11月~1974年11月

アマドウ・マハタール・エムボウ

セネガル

1974年11月~1987年11月

フェデリコ・マヨール

スペイン

1987年11月~1999年11月

松浦晃一郎

日本

1999年11月~2009年11月

イリナ・ボコバ

ブルガリア

2009年11月~現在

. ユネスコと共に歩んだ10

1.ユネスコ事務局長選挙戦

ユネスコの事務局長選挙は国連事務総長選挙のように明確な選出地域のローテーションは行なわれていない。しかし、私が立候補した1999年の事務局長選挙の時には、他の地域はそれを認めたわけではないが、アジア・太平洋地域から選任されるべきとする期待が高まっていた。そのため全立候補者11人のうち私を含む5人がアジア・太平洋地域から手を挙げることになった。当選のためにはユネスコの58人の執行委員の票の過半数の30票を獲得しなければならない。国連の場合は安全保障理事会の15カ国が1人の事務総長候補に絞って推薦し総会において選任されるが、常任理事国の5カ国が拒否権を持っているので、候補者の選択範囲は自ずと限られている。一方、ユネスコは58カ国が候補者選びに関与するので多数の候補者が選挙戦に臨むことになる。

私のユネスコ事務局長立候補に当たっては、当時の小渕総理を初めとする政府、国会議員、民間経済界、学会、文化界などの日本の総力を挙げての応援をいただいた。私は1998年5月に、中学時代の親しい級友で当時は外務大臣であった小渕氏からの、橋本総理、町村文部大臣の意を体した上での直接の意向打診を受けて、事務局長選挙に立候補することを最終的に決意した。正式な立候補宣言は、行動計画を立て、選挙作戦を練り、主管官庁の文部省の全面的な支援、協力を取り付け、選挙綱領を作成した後、1998年9月に行なった。

選挙綱領(マニフェスト)策定に当たっては、国連の20の専門機関は、ILOWHOFAOなどのように大部分が特定の分野のみを担当するのに対し、ユネスコは担当分野が教育、文化、自然科学、社会科学、コミュニケーションの五分野と広範囲で、さらに3千人もの事務局スタッフの人的資源や予算の有効活用に至るまで、綱領に織り込むべき事項が多岐にわたり、加えて、ユネスコの使用言語が英仏の併用であるため、その完成までには相当の時間を要した。1998年5月の立候補決意から、翌年の10月下旬に執行委員会での選挙の結果が公表され、11月の総会で決定するまでの約1年半の間、1998年7月に総理に就任した小渕氏を筆頭に国を挙げての支援をいただいた結果、当選を果たすことができた。

選挙運動中は、執行委員会58カ国中支持を取り付けられる望みある大部分の国、3738カ国を精力的に訪問した。アジア、北米、ラテン・アメリカ、カリブ海諸国、サハラ以南のアフリカ諸国、西欧諸国などを重点的に回った。中でもブラジルの票の行方はラ米諸国の中でも特に注視されるので重要と考え、同国の支持を要請し、同国票の獲得に成功した。これは偏に小渕総理の依頼により三塚派領袖・三塚博議員が当時のカルドーソ大統領を直接説得し、支持の約束を取り付けていただいたお陰である。アフリカは当時の「アフリカ統一機構(OAU)」でエジプトの候補を支持する決議が既に出されていたが、大票田のサハラ以南諸国は日本との関係も良好であったので、日本への支持を増やすため積極的な運動を展開した。1999年初頭にタンザニアの大統領の訪日の際、小渕総理が直談判の末、OAUの決議があるにもかかわらず、タンザニアは松浦を支持するとの約束を取り付けていただいた。さらに、執行委員国であるタンザニアを訪問し、大統領と会談後の記者会見で、大統領が松浦を支持すると表明されたことを明らかにし、それがタンザニアの新聞の1面に写真入りで大きく報道されたことが、アフリカ票の切り崩しに効果的であった。また橋本元総理が同じく執行委員国のガーナを訪問された際、同国大統領から「第1回投票はエジプトに投じるが、第2回以降は松浦に投じる」との約束を得ていただいた。

ユネスコの事務局長選挙においては、ある候補者が過半数の票を獲得するまで複数回の投票が重ねられる。この選挙で、私は第1回で23票を得たが、事前に投票を約束してくれた国の34票より少なく、過半数の30票にも達しなかった。しかし第2位は9票で大差があり、第2回投票以降は松浦に入れるという事前の約束も得ていたので、あまり心配はしていなかった。第2回で得た票は27票で、依然過半数には届かなかった。この時点で選挙の達人・小渕総理から「選挙は最後まで油断するな」と檄を飛ばされたが、第3回投票では幸い過半数を超える34票を獲得し、当選を果たすことができた。事務局長就任の正式な手続きとしては、執行委員会から次期事務局長としての推挙を受けた総会の信任投票を経て選出されることになる。私は19991112日の総会において有効投票151票のうち146票の圧倒的多数で正式に事務局長に就任した。その3日後の1115日のユネスコ総会で第8代ユネスコ事務局長として就任演説を行なった。

私は事務局長に当選するまでの選挙運動期間を私の「ユネスコの第1幕」と呼んでいる。

2.ユネスコの抜本的な改革

199911月にユネスコ事務局長として着任するに当たり、当初は他の国際機関の例に倣って外務省から1人の優秀な後輩をキャビネ(補佐官室)の一員として呼び寄せることも考えていたが、最終的には単身で乗り込むことにした。当時のフランスの新聞、特に左翼系紙が「松浦が事務局長に就任すれば日本人を大勢連れて来て、それまで営々と築いて来たユネスコの伝統を駄目にしてしまう」という論調を繰り返し展開していたことに対抗するための決断であった。むろん、それに関わらず日本からは執行委員国の一員として私の在任10年間を全面的に支えてもらった。キャビネのスタッフ約40名、うち中核となる首席補佐官をはじめとする主要補佐官の15名もすべてユネスコ内部から任用したが、その中にも日本人は一人も入れなかった。ユネスコのNo.2となる事務次長も公募に応じた人の中から私を支持してくれたブラジルのカルドーソ大統領に近いブラジル人のバルボーザ氏を選んだ。これらの中核的スタッフ約1516人の支えによって、次に述べるユネスコの改革を成し遂げることができたと言える。

私の掲げたユネスコの改革の3本柱は、①行財政改革、②各分野予算の政策的重点配分、③人事・組織改革である。私の前任の事務局長マヨール氏は、途上国、中でもラ米諸国には評判が良かったが、金の遣い方や人事面で、「不正」ではないにしても、公平・公正さを欠き、西欧諸国からは不信を買っていた。そのため、人事もそれぞれのポストをすべて公募で募集し、採用、昇進させることを徹底した。またマヨール氏は余りにも多分野に散漫な予算配分をしていたため、充分な成果が上がっていなかったので、政策的に重要な分野への重点配分を行なうように変えた。

日本ではユネスコの事業としては「文化」、中でも「世界遺産」が余りにも有名であるが、実際には、「教育」に最も多くの人員と予算、すなわち文化の倍の人員と予算を割いている。「教育」は「文化」と違い、その成果を具体的に目に見える形で表し難いので、関係者には評価されても一般には余り認識されていない嫌いがある。

政策の改革で行なったことはいわゆる「選択と集中」である。組織改革で重視したのは現地・地域スタッフとその活動の拡充である。ユニセフは6千名の職員の内1千名が本部で、5千名が地方に配置されているが、ユネスコは3千名の内、本部が2千名、地方が1千名の体勢で、地方での展開が弱かった。本部職員は優秀な人材ほど地方、特に途上国への赴任をためらう傾向があった。これを改め、人員の再配置によるユネスコの途上国での活動の強化を図った。

これらの行財政改革は、1984年に当時のエムボウ事務局長のユネスコの運営で政治的偏向、情報統制、ミスマネジメントなどの問題があることに不信を抱き、ユネスコを脱退したままであったアメリカの復帰を促すためにも必要な改革でもあった。アメリカは私の行なった行財政改革を高く評価し、200310月に遂に19年ぶりにユネスコに復帰することになった。当時はブッシュ大統領の共和党政権に代わった時期であり、復帰に向けての米国内の審議の帰趨が危惧されたが、結果的には却って共和党政権になったことで復帰が実現したともいえる。共和党が多数を占める議会工作上大変プラスになった。

ユネスコでの10年は私の人生の中で、物理的にも精神的にも一番働いた10年であったといえる。パリにいるときは朝9時に出勤し夜8時までオフィスで働き、帰宅し夕食後9時から12時まで決済書類に目を通すという毎日であった。また各国公館のレセプションも、大統領、首相からの招待を除いて、一切辞退した。

行財政改革で重要なことは、予算執行後のチェックにおいては、会計監査に加えて、事業の目的を達成したかどうかの評価(Evaluation)が大切である。これを英語では“Oversight”という(日本語の適訳が見付からない)。ユネスコでは他の国連システムの模範となるようなOversightのシステムを確立した。またこれらのシステムの改革と同時にそのシステムを確実に運用する人材が必要である。そのために法務部門には、後に国際司法裁判所の判事に転出することになった優秀なソマリア人を採用した。

事務局長に就任して最初に直面した問題は労組問題であった。ユネスコにはフランス系の急進的な労組とフランス以外の穏健な労組の二つの労組があった。フランス系労組は私の就任直後から「反松浦運動」を始め、翌年にはハンガーストライキまで打って来たが私は譲らなかった。もう一つ苦労したのは、一部の人達からの私個人に対する誹謗中傷であった。ユネスコの歴代事務局長はそれぞれにユネスコの改革を唱えてきたが、私が一番強く改革を行ない、前任のマヨール氏に採用された能力的には問題のある親マヨール派の人達を枢要なポストから外したこともあって、彼等は私に対する不満を募らせ、怪文書を配るなどの種々の妨害行為を行なった。しかし、私もそれに屈しなかったので、長くは続かず1年程度で治まった。

事務局長の任期は私の前任者の時まで6年+6年であったが、前任者の2期目の後半に先進国メンバーの不満が高まり、憲章が改正され2期目は4年に短縮されたため、私は1期目6年、2期目4年の計10年を務めることになった。その10年間のうち最初の総会までの2年間の「第2幕」が一番厳しい時期であった。

. ユネスコの最重要分野「教育」に注力

ユネスコの政策で枢要な分野は教育であるが、中でも途上国の教育支援が最も重要である。途上国教育には、国連システムの傘下にある世銀も力をいれ、UNICEFも児童を対象とする保健と教育で現場で活躍をしているが、そのまとめ役を担うべきユネスコがその役割をほとんど果たしていなかった。途上国の教育に関しては、UNICEFは現場に強く、世銀は予算・資金に強いという特色を持つが、ユネスコは本部中心で現場でのプレゼンスが弱く、本来の調整力を発揮していなかった。ユネスコのフィールド・オフィス(現地事務所)も他の機関の出先事務所との交流も少なく、むしろ孤高を楽しむような傾向があった。私の着任後ユネスコが国連システム傘下で教育に関わる諸機関の取りまとめを行なう立場を明確にし、その方向で種々の改革を進めた。その努力が実ってユネスコが途上国教育で、一挙に主導的立場に立つことができないにしても、中心的な位置にあることが徐々に認められるようになってきた。ユネスコはUNICEFなどの他の機関と違い条約を制定し、施策を実行できるという強みを持っているので、それを充分に活かさなければならない。

私がユネスコで一番力を入れたのは「教育」、特に基礎教育すなわち初等・中等教育の徹底である。昨年2015年9月に国連で「持続可能な開発目標(SDGs: Sustainable Development Goals)」が採択され、その17の目標(Goals)のうち教育に関しては「質の高い教育をみんなに(Quality Education)」が挙げられている(ここで“Development”の日本語訳は「開発」ではなく「発展」とすべきであろう。ここで掲げられている「目標」は、発展途上国だけではなく先進国にも共通する目標であるから)。このSDGの前身として2000年9月の国連総会で「ミレニアム開発目標(MDGs: Millennium Development Goals)」が採択されている。MDGでは第1の目標「貧困の撲滅」に次いで「初等教育の完全な普及」が掲げられている。ここでは当時初等教育を受けられていなかった世界の児童の人口12億人を15年以内にゼロにするという目標が挙げられた。現在その人口は半減したがゼロ目標は達成できていない。2005年には「持続可能な開発のための教育(ESD: Education for Sustainable Development)」が発足し、続いて2014年には「ESDに関するグローバル・アクション・プログラム(GAP Global Action Programme on ESD)」が採択されているが、ユネスコはこれらのプログラムの推進で主導的役割を果たしている。

4.世界遺産について

「世界遺産条約」は1972年に成立しているが、日本では当初世界遺産に対する関心が高まらなかったせいか、条約の批准は遅れて20年後の1992年となっている。しかし、一旦批准した後は、世界遺産条約国の中で中核的役割を担っている。加盟初年度には文化遺産で法隆寺と姫路城、自然遺産では屋久島と白神山地が世界遺産に登録された。現在は登録件数が19となった。現在懸案となっている日本の世界遺産候補案件2つのうち長崎の教会群は落とされたが、上野の国立西洋美術館はル・コルビュジエの作品群の一つとして登録は確実であり、日本の世界遺産登録件数は20となる見込みである。

1954年のハーグ条約は戦争による文化財の破壊を防ぐため、保護すべき文化財のリストを予め国際機関に提出しておくと、それを攻撃の対象にしてはいけないとしている。私の在任中に発生したアメリカと同盟国の対イラク戦争では、ハーグ条約批准国であったイラクからユネスコに予め提出されていた文化財リストをアメリカの国務省を通じて国防省に渡し、該当する文化財への攻撃を回避させた。このハーグ条約を含めユネスコが採択している文化関係の条約で文化の多様性を保護するための中核的な条約は次の6条約である。

①武力紛争の際の文化財の保護のための条約(1954年ハーグ条約並びに第1及び第2議定書)

②文化財の不法な輸入、輸出及び所有権譲渡の禁止及び防止の手段に関する条約(1970年条約)

1972年の世界遺産条約

2001年の水中文化遺産保護条約(2009年1月発効)

2003年の無形文化遺産条約(2006年4月発効)

2005年の文化的表現の多様性の保護及び促進に関する条約(2007年3月発効)

(④~⑥は私が事務局長在任中に制定)

私は事務局長就任前の1998年に京都で開かれた世界遺産委員会の議長を務めたことがあるので、世界遺産の意義、限界を十分に理解している。事務局長就任時点で日本が批准していたのは上記6条約のうち③の世界資産条約のみであったが、その後、日本政府に働きかけてその他の条約の批准を促した。

世界遺産は現在1千を超えていて、そのうち8割が文化遺産、2割が自然遺産である。文化遺産は歴史的建造物・遺跡などのいわば不動産の文化遺産である。

⑤の「無形文化遺産」は、日本では能楽、歌舞伎、文楽などの伝統芸能であるが、日本国内では1950年の文化財保護法で保護の対象となっていたが、国際的にはこれを保護する体制ができていなかったので、私の事務局長選挙のスローガンで無形文化遺産を国際的に保護する国際的な体制を作ることを提唱し、就任後2003年に条約として採択・成立させた。当初西欧側は人類の文化遺産は建造物に限定し、無形の文化はそれら不動産に付随するものを限度として保全すればよいとの考え方で、最後まで無形文化遺産の条約化には反対した。しかし、日本、アジア、アフリカ勢が当初から賛成、最初は躊躇していたラ米も賛成し、最後にはフランスを含む南欧州諸国も賛成に回り、条約成立の運びとなった。現在では無形遺産条約の批准国は160カ国を超え、191カ国の世界遺産批准国と並ぶまでになってきたことは大変喜ばしい。

④の「水中文化遺産」は領海外・接続水域の海域あるいは国際河川の水中にある、主として沈没船の中にある文化遺産の保護に関するものである。私の説得時交渉が頓挫していたが、促進させ成立させた。そして時間はかかったが2009年1月に発効した。

⑥の「文化的表現の多様性」はそれ以外の条約が文化財の保全を目的としているのに対し、文化の「創造」も必要であるという観点から、フランス、カナダ(ケベック州が中心)が提唱したものである。この条約の審議では、アメリカはユネスコ復帰直後であり、イラク戦争に関わる米仏の対立もあって、この条約に反対していたが、これを押し切って2005年の成立に持ち込んだ。この条約とWTOのルールとの整合性に疑問を呈する向きもあるが、この条約では先行する他の条約と抵触する部分があれば、他の条約の規定が優先するとする文言が織り込まれているので、問題は生じない。

一方、私はこの⑥の条約の成立の難航を見込んで、2004年に「新しい文化の創造」というこの条約の趣旨と同じ考え方で「創造都市ネットワーク(UNESCO Creative Cities)」という条約に拠らない構想を提案した。これは新しい文化を創造する上で都市の果たす役割が重要であることに鑑みて、文学、音楽、食文化、工芸、映画、デザイン、メディアアートの創造産業7分野で、特色のある都市を認定し、都市間の連携によって、経験・知識を共有し、多様な文化の創造力を最大限に発揮させるというものである。現在世界116都市(うち日本は7都市)が認定されている。

日本は⑥の2005年条約採択に賛成票を投じたものの、未だ批准に至っていない。私も日本ユネスコ国内委員会の特別顧問として早期批准を推進している。

文化に関しては私が在任中に上記の6条約体制を作ることができたことに満足している。私の2期目の4年は1期目の6年の成果をしっかり固める期間(第4幕)であった。

この時期の次の重要テーマとしては「言語の保存」があった。専門家によると当時世界には6千~7千の言語があるといわれ、そのうち原住民の言語の2千5百が消滅の危機にあるとのことである(「世界消滅危機言語地図」-UNESCO Atlas of the World’s Languages in danger)。そのため世界で話されている言語について専門家による現状把握のための調査を任期中に2度にわたって行なった。その調査結果を踏まえて条約化へのステップへ進むことを考えていたが、時間的な問題とアメリカが反対を唱えたために任期中にはそれ以上先へ進めなかった。

1期目の抜本改革の3本柱のうち、行財政改革、重点施策・予算重点配分に次ぐ3本目のユネスコ組織改革で特に力を入れたのは地方展開、途上国におけるユネスコのプレセンスを高めることにあった。当時のユネスコのスタッフは地方に行くことを渋っていたが、最近はむしろ積極的に地方へ行くことを希望するスタッフが多くなった。

2011年、私が事務局長を退任した翌年に、パレスチナがユネスコに加盟した際、アメリカが認めていない組織が加盟した国際機関への分担金の拠出を禁じるアメリカの国内法があるために、アメリカはユネスコへ拠出金を停止した。そのためユネスコは予算規模を縮小せざるをえず、事業の縮小、引退した職員のポストの不補充、廃止などによる本部機構の縮小が行なわれている。経験を積んだ常勤スタッフが不足する一方で、本部での仕事より地方での仕事にやりがいを感じている若手スタッフが増えているのが救いである。

また私の後任の事務局長として立候補した9名の候補者は全員が「継続-Continuity」、つまり、私の敷いた路線を踏襲すると言ってくれ、中でも最も強く「継続」を主張したボコバ氏が事務局長となり、今や国連事務総長をめざしていることは大変嬉しく、心強い限りである。

Q & A

Q1: ユネスコを始め、国連システムの傘下の数ある専門機関には「国連」加盟国でないと参加できないか?またユネスコの分担金はどのようにして決められるのか?

A1: 国連の専門機関は「国連」とは原則独立しているので、加盟国について独自の選択権を持っている。「国連」はアメリカ他P5国が拒否権を行使するので、パレスチナなどの加盟を認めないが、ユネスコなど条約によって設立された専門機関には原則として「国連」に加盟していなくても加盟することができる。但しUNDPUNICEFなど国連決議に基づいて設立された機関は国連加盟国に限定されている。むろん「国連」メンバーであっても基金、プログラムなどへの参加は選択できるが、「国連」のメンバーでなければ入れない。分担金は当該国のGDPによって加算し、人口によって減算する方式で計算される。また分担金の上限と下限が設定されている。そのため中国はGDPが日本の2倍であるにもかかわらず、人口が日本の10倍あるため、人口ファクターの減算が効いて、分担金は日本より少なくなっているが、現在の経済成長が続けばいずれ日本を追い越すであろう。

Q2: 日本を長く離れられて10年、日本、アジア、欧米、それぞれ大きく変化していると思うが、それらの国々を外から俯観されてどのように見られたか?例えばヨーロッパとアメリカがそれぞれ違う道を歩み始めたのではないかと思うが?

A2: 帰国して既に6年経つので必ずしも外から見た日本ということではないが、帰国した2010年の時点での印象では、海外への留学生が減るなど日本が段々と内向きになっていること、デフレが継続していること、一方で10数年前と比べると日本の生活は鉄道の共通ICカードの利用などに象徴されるように遥かに便利になり、物価も円の購買力が強く、安定しており、過ごしやすくなってきた。その裏返しで若者が外へ出たがらないのも分かる。かつて1950年代は私が外務省を選んだように若者を海外に仕向ける「貧しい日本」という国内状況があった。今、再び日本の「存在感」が薄れつつあるともいわれる。日本は、中国、韓国との問題を抱えてはいるが、「礼儀作法」がしっかりしている国民性、ハイテク技術などの日本の良いところは世界によく知られている。悪い面は居心地よさゆえの内向き志向といえよう。ODA予算は1997年をピークに半減させたり、外国人留学生の就労・就職規制など、外国人労働力の導入に種々の規制を設けている。現状のままではとても「1億総活躍社会」は実現できない。難民の受け入れについても、国際的な難民条約の規定を非常に狭く解釈し、7千人の申請に対し20数名しか許可していない。20万人の難民受け入れで苦労しているドイツとは次元が違う。内に籠る姿勢が目立つ。次のサミットで議論されるテロ対策は難民対策と裏腹の関係にある。

Q3: 日本が経済モデルとしてきたアメリカは貧富の格差拡大が進行し、ヨーロッパも文明の衝突ともいえる異文化難民の問題もあって、格差と社会問題で悩んでいる。今や日本が目指すべきは北欧モデルではないかと思うが、日本の進むべき道は?

A3: 日本が先進国に追い付こうとしていた1960年代は欧米をモデルとしていればよかったが、1990年代以降は日本が目指すべき先行モデルはなくなったといってよい。パリの町も10年前と比べると治安が非常に悪くなってきた。日本も1964年の東京オリンピックは新しい日本の出発点となったが、2020年のオリンピックはそこをピークとして日本の凋落の始まりとなるのではないかと危惧している。

Q4: 先程見てきた目黒川の桜の花見客の話している言葉は、半分は中国語、1割はその他の外国語、日本語は4割程度のように聴こえた。彼らに日本人と同じような桜を愛でる感性があるのであろうか?その感性を共有できるのであれば、花見・桜鑑賞をユネスコの無形文化遺産にできるのではないか?

A4: 日本は経済効果を目的とする「観光立国」を目指して外国人観光客4千万人誘致する計画があるようだが、4千万人は受け入れ施設など物理的に無理かもしれないが、3千万人は難しい目標ではなかろう。世界で最も外国人訪問客の多いのはフランスで8千4百万人を受け入れている。しかし、パリの治安の悪化は、移民だけではなく外国人訪問客の増加も影響している。観光立国に伴う経済効果だけではなく、外国人増加によるマイナス面も覚悟しながらどのように対処するかよく考えなければならない。むろん観光による文化の共有という観点は重要である。

Q5: 世界記憶遺産に南京事件が登録されてしまった一因に、国際諮問委員会や登録小委員会のメンバーに日本人が入っていなかったことがあると聞いた。公募で選ばれる国際機関のスタッフの募集に日本人が応募したがらないことにも原因があるのか?イギリスのEUの官僚主義への不満からするEU脱退論とかアメリカのユネスコ脱退や拠出金不払いなどに見られる孤立主義的傾向についてどう思われるか?ユネスコの行財政改革などの改革はそのような各国の内向き主義の方向を変えさせる目的もあったのか?

A5: 日本の若い人達が内向きになる傾向があることは既に指摘した通りである。アメリカは大統領予備選挙で見られるように、共和党トランプ候補は極端な排他主義で、クルーズ候補も保守右派である。一方の民主党ではクリントン候補は中道であるが、サンダース候補は社会主義的左派であり、アメリカは両極端に分裂しているように見える。それぞれ貧しい白人層や若者の一部がそのように過激な発言をする候補者を支持しているに過ぎないと見られていたが、その後両者とも支持を拡大している。アメリカは元々内向きの国であるが、このような排他主義の予想外の拡がりは残念である。イギリスのEU脱退は賛否が拮抗していて予断を許さない状況である。世界の経済はIT化によりボーダーレスの方向に向かっているのに、人々のメンタリティーは逆に内向きになっている。この現象を食い止める包括的な解決策はなく、国別に見て行くしかない。大学や高校で講演する機会に若者に外に眼を向けるように説いているが、日本は1950年代に比べれば対外関係は遥かに緊密になっているにもかかわらず、内向き志向が強いことは残念なことである。

(記録:井上邦信