第 4 2 7 回 講 演 録

日時: 2015年5月20日(水)13:00~15:00

演題: 吉田松陰の人の育て方 ~リーダーは教えない~
講師: 日本産業カウンセリング学会 特別顧問、元 法政大学 教授 桐村 晋次 氏

はじめに

物理、化学などの科学技術の分野では、実験によって理論や仮説の確実性を証明することができる。しかし、人間が何によって影響され、どのように動機づけられ、成長して行くのかを客観的に実証することは困難である。それを知るためには、個別のケースを積み上げて、共通項を引き出すという方法に依らざるをえない。私は古河電工を退職後、企業での経験を活かして神奈川大学、法政大学で行なってきた「キャリアデザイン」に関する研究は、多くの人とのインタビューを通じて、その人の経験を積み上げ、その中から共通項を引き出すという手法で進めた。大学での研究は、研究の定義や方法を厳密に定めることが要求され、発表の内容について徹底的な議論が交わされる。

古河電工入社後の教育配属で接した職場長、作業長などの仕事に対する姿勢、人の育成に対する考え方には大変感銘をうけた。また本社から平塚事業所総務課へ転勤後、独身寮で現場の作業者と、1週間ほどであったが、起居を共にしながらの付き合いから多くのことを経験し、学んだ。

私は下関で生まれ育ったが、空襲で焼け出されたため、近郊の長府に移り住むという戦後の混乱期を過ごした。中学時代も比較的自由な活動が許され、何かと制約の多い今の時代から見ると、かえって良い時代に育ったと思う。

古河電工ではその後長く人事・労務を担当したが、社員のメンタルヘルスの問題に係るうちに、心理学の勉強が必要と感じ、55歳になって、茗荷谷にできた筑波大学の夜間の大学院に通うことにした。修士論文では、会社の15人(技術系7名、事務系8名)の先輩の人達に、それぞれの方の入社以来のキャリア・ヒストリー(学び方や発達の履歴)を語ってもらい、それを分析した。今回著わした『吉田松陰 松下村塾 人の育て方』は、松陰自身のことよりむしろ、門下生の育ち方、キャリア・ヒストリーを調べ、それぞれがどのようなロールモデル(範とする人物像)を参考にし、どのような発達課題を抱いていたかについて書いたものである。

戦後の職業人の育つ環境の変化の過程をみると、戦前は農業、自営業の従事者が8割以上を占めていた。戦後の経済成長期の初めまでは依然として、産業別の就業者構造の中で一次産業・農業の従事者が多数を占め、自営業が多く、いわゆる「団塊の世代」が生まれた頃は、親たちの職業の中で「サラリーマン」は3人に1人程度であった。ところが、現在は「サラリーマンがサラリーマンを育てる」時代となり、分業と情報の氾濫の中で、社会や仕事の全体の仕組みを十分に把握できにくい状況になっており、サラリーマン世代の親が子を育てることによる困惑が生じている。今の若者や学生をみると、入学試験に通るためだけ、単位を取るためだけの勉強しかしない、効率中心の人も多く、人との議論を避ける、本を読まない、指示されたことしかしない、といった傾向が強い。近年の経団連調査によると、新卒採用・選考で重視する点で常に最上位にあるのは「コミュニケーション能力」である。彼らは“空気を読む”ことには長けているが、自分の周囲の“空気”や与えられた情報の中だけから自分の必要とする情報を選択する、いわば “ショーウインドウの中の自己決定”をしているに過ぎない。解答の選択肢が予め与えられていない問題には答えられない。選挙での若者世代の無関心層の増加はそのためである。

1.吉田松陰とその家族

松陰は、萩藩士で当時26石取りの無役の下士であった父・杉百合之助、母・滝の次男として生まれた。名は大次郎(幼名虎之助、のち寅次郎)。2歳上に長男・梅太郎、下に1男、4女(その四女がNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公“文”で久坂玄瑞の妻となる)がいた。松陰は、吉田家の養子となった父の弟・吉田大助が死亡したため、6歳にして吉田家の養子となり、その家督を継いだ。吉田家は代々、山鹿流兵学師範として毛利家に仕えた、家禄57石の中士の家柄であった。松陰・大次郎の教育は、父のもう一人の弟・玉木文之進が体罰も交えて極めて厳しく行なった。父、百合之助は松陰の良き理解者で、松陰との信頼関係は厚かった。半農半士の生活の中で、母・滝は子女の教育にも意を用い、松陰を常に温かく見守り、松下村塾の塾生の世話もよくした。妹・寿の夫・小田村伊之助(後に楫取素彦、玄瑞亡き後の文の再婚相手)は、幕末には倒幕・佐幕両派の調整役として活躍、新政府発足後は政府の参与となり、後に群馬県令として富岡製糸場の発展に力を尽くす。

2.松陰の幼少期と松下村塾の誕生

「松下村塾」は玉木文之進が松本村新道の自宅に天保13年(1842年)に開いた私塾が始まりである。乃木希典もこの塾で学んでいる。松陰は7歳の時に家学教授見習いとして藩校・明倫館に出、9歳で家学教授となり、年長の藩士子弟に家学を教えた。そして10歳の時、藩主・毛利慶親の命により、「親試」として山鹿素行の「武教全書」の戦法編を御前で講じ、一躍名声を得た。松陰は嘉永7年に米国への渡航を企てて失敗し、「野山獄」に投獄され、後に杉家に幽閉中に叔父の開いた「松下村塾」の名を継いで、杉家の敷地内に「松下村塾」を開塾する。

3.長州の人材輩出の風土と背景

幕末期には、朝廷と幕府の融和を画す公武合体派の穏健路線と、それを排する松陰らの尊皇攘夷派の急進改革路線の対立の末、後者が勝って、四民平等を目指した明治維新が成立した。明治維新直後から廃藩置県、小学校教育制度などの改革が急速に進められた。しかし、松陰門下の四天王といわれた、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿などの優秀な人物はほとんど維新前に死んでいる。うまく生き延びたのが桂小五郎(後の木戸高允)である。伊藤博文や山県有朋は家の位が低く、幼少期には藩校などでの正式な教育を受ける機会もなかった。しかし、当時の萩藩ではどのような身分の家の子弟でも才能があれば中士以上の家の「一時養子」として、御前に引き合わせることができるというユニークな習わしがあった。松下村塾では高杉のような上士の出でも、伊藤や松浦のような農民、商家の出でも、机を並べて年齢の差を超えて対等に議論に参加している。何でも“そうせい侯”といわれた藩主・毛利慶親の下にあった長州は、「幕末の四賢侯」といわれた山内容堂、松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬を擁した土佐、越前、伊予、薩摩に比べても、その自由な気風によって却って伸びる人材を輩出したといってよい。

4.松陰の思想の時代背景

松陰は嘉永3年、20歳の時九州に師友を求めて初めて旅立って以来、下田渡航に失敗して幽囚の身になる7年の間に、8度の大旅行をしている。それは長崎から青森まで、日本列島をほぼ2周するほどの距離である。当時は英・露などの外国の艦船の相次ぐ到来により、世情が騒然とする一方で、商品経済が進展し、長州、薩摩などの各藩の財政状況も逼迫して行った。松陰は山田亦介から阿片戦争で悲惨な状況にある中国の現状を学び、深く憂慮する。後に高杉晋作は上海に密航し、西欧人が跋扈し、中国人が虐げられている様をみて、「攘夷」の意を決したという。

5.日本における教育の変遷

ここで、百済の渡来人・王仁の伝承の時代から江戸末期・幕末までの日本の教育の変遷を振り返ってみる。

1)4世紀後半: 百済から「王仁(わに)」が渡来し、「論語」「千字文」を日本に伝えたと記紀に記されている。

2)701年: 大宝律令が制定され、官吏養成学校として、中央に「大学」、地方に「国学」が設けられる。これが国の統治機構となり、貴族社会へ引き継がれる。

3)武士の時代: 武士は戦場が教場であるから、教養としての「勉学」は重視せず、会津藩の「什の掟」のように、一族の長が「家訓」を掲げ、それを一族郎党が学び覚えることが中心となる。 武士の学び方は「素読(漢文読み下し)」「会業(テーマについて発表し、他の意見を求める、小グループ討議)」「会読(読書会)」「講釈(師の講義)」が基本として行なわれた。

4)庄内藩の藩校「致道館」の例では下記のような教育が行なわれていた。

①「句読所」:今の小学校に相当する。②「終日詰」:今の中学校に相当し、自習、会業が中心で年に数か月間は合宿をする。③「外舎」:今の高等学校。④「試舎生」:今の大学教養課程。⑤「舎生」:今の大学・大学院。これらの教育課程では、口頭試問に通れば年功に関係なく、随時進級できた。現代の画一的な基準による義務教育より、ある意味では平等な教育機会が与えられていたといってよい。

5)町人: 「寺子屋」は当初寺の付属物として作られ、公家,侍が入り、やがて町人も入り、読み書き,算盤などの基礎を学んだ。町人の子弟はある年齢に達したら、徒弟奉公に出され、丁稚、手代、番頭の途を歩んだ。女性は屋敷奉公に出され作法を習った。

6)幕末: 朱子学と軍学しか教えなかった藩校が限界に達し、代わって各地に私塾が盛んに作られ、大阪の緒方洪庵の「適塾」では大村益次郎、福沢諭吉が学び、江戸の佐久間象山の洋学塾では、松陰、小林虎三郎、勝海舟、橋本佐内、坂本竜馬などの人材を輩出した。幕末の倒幕の機運は、これら有名私塾で学んだ者たちの横の繋がりによって、高まって行ったものと考えられる。

6.松下村塾の塾生群像

“幕末の風雲児”高杉晋作は奇兵隊を創設し、正に「回天維新」の先頭に立ち、毛利藩・公武合体派の正規兵や幕府軍と闘う。村塾随一の秀才久坂玄瑞は長州藩を公武合体から尊王攘夷に転換させたが、禁門の変で自刃する(玄瑞は大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公“文”の夫)。伊藤博文は初代内閣総理大臣に就き、明治憲法を制定し、立憲政友会という政党を創設し、自ら総裁となり、初代韓国総監となる。山県有朋は奇兵隊の軍監、維新後は内閣総理大臣、枢密院議長、陸軍参謀総長などの要職に就き、明治政府の軍閥と官僚のリーダーであった。品川弥二郎は高杉らとともに尊王攘夷運動に奔走、戊辰戦争でも総督参謀として活躍、維新後は枢密顧問、内務大臣を歴任、錦旗と軍歌を作る。山田顕義(松陰を指導した山田亦介の甥)は高杉らと共に攘夷血判状に連署、戊辰戦争では陸軍参謀兼海軍参謀として勝利に貢献、明治政府では司法大臣、日本法律学校(日本大学)、國學院を創立する。前原一誠は長州征伐、戊辰戦争で活躍、新政府では兵部大輔を務めるも「萩の乱」の首謀者として処刑される。桂小五郎(後の木戸孝允)は明治維新の元勲として、「五箇条の御誓文」「版籍奉還・廃藩置県」「四民平等」「憲法制定」「三権分立」「法治主義」など数々の重要な提言を行い、実施させた。

7.吉田松陰の人の育て方~自立人材の育成を目指す

松陰の教育の基本思想は師匠と弟子が共に学び合う、「師弟同行・共学」である。松陰は下田渡海失敗後幽閉された「野山獄」で、同囚の11人に「孟子」の講義を始めた。その時、松陰は同囚の中にいた書の達人、俳句の師匠を先生と呼んで教えを請い、後にその他の囚人や牢番も含めて、互いに師匠となり弟子となって学ぶという形になって行った。相互に教え合うことで高い効果が得られることはここで実験済みであった。松陰や伊藤博文、山県有朋のリーダーシップの特徴は、他人の話を「傾聴」することにあった。松陰は自分から教える前に常に「君ならどう思うか?どうするか?」と問い、相手に考えさせた。その学習法は松陰の死後も塾生達に踏襲された。①「師弟同行」のほか、次のような特徴を持つ松陰の人の育て方は現代にも通じる。②少人数のグループ(小集団)による集団啓発。③現場、現物、現実の重視、師友を求め、ネットワークを作る。④自己理解を深め「何を学びたいか」を明確にし、自前の学習計画を作る。⑤若者の自己肯定感を高めて長所を伸ばす。松陰は実践的な個別教育を行なうことにおいて天才的な教育者であった。書籍を読ませる際には、各人の学力レベルに応じた本を与え、それぞれが大事と思う個所を抜き書きさせ、なぜその点が大事と思ったか述べさせ、自分の理解度を自覚させるようにした。ある時、木戸孝允が松陰への書状で、松陰が高杉晋作の頑質を正そうとしない理由を問いただしたところ、松陰は「人間の修行には気質の変化がある。晋作は、10年経ち自分が何かをやろうとするときに、必ず相談したいと思う相手に成長すると思う。今、頑質を改めさせれば長所が滅んでしまう。10年間待ちたまえ」と言ったという。若者の自己肯定感を高めるために松陰がやったことは、京や江戸に旅立っていく弟子に送序を与え、入江杉蔵(九一)に入塾以来の成長を褒めた激励文を与え、玄瑞には「晋作を放すな」と書き、晋作には「玄瑞を忘れるな」と書いて、競わせながらも人のネットワークの大切さを教えた。

8.松下村塾の人材育成方法を現代の企業と学校教育にどう活かすか?

今、声の大きさや議論に勝つことを競う傾向が強い。政府は「ていねいに説明する」というが「ていねいに聴く」ことは余りしていないのではないか。松陰やその周辺の人達は先ず傾聴を十分にした上で自分の考えを述べた。傾聴しないと智恵が集まらないからだ。今の若者はIT機器に拘り過ぎで、本を読まない。前述の「会業」「会読」もほとんどしない。自らの意見を考える前に解説者の論を待つ。解説者が間違えると、皆が一斉に間違えるということになる可能性がある。教育も企業もシステムが画一化している。答えのない問題の解決方法が見出せない。個性を発揮する幅が狭くなっている。学習適齢期も本来個人によって差があるにもかかわらず、画一的な学齢別カリキュラムが適用される。社会も限定された範囲内での椅子取りゲーム化している。資本主義の「自由」と社会主義の「画一的統制」の間でどうバランスを取るか、正解はないかもしれないが、考え続けなければならない課題である。与えられたもののみに反応するという習慣を改めて、他にも正しい解があるのではないかと、よく考えなければならないと思う。

 

Q A

Q1: 「松下村塾」と「松下政経塾」の人の育て方の違いは?政経塾出身の政治家が今少し上に行かないのは、育て方に問題があるのではないか?

A1: 政経塾のことはあまり知らないが、強いて違いを言えば、政経塾生が互いにライバル同士である一方、村塾は境遇の似た人達が、ほぼ共通の目的を持って学んだことにある。松陰は密航を企てて失敗して捕えられたが、国禁を犯したのに直ちに死罪とならなかったのは、松陰がペリーに宛てた手紙に、乗船したい目的は「自由と人権を認めているアメリカ合衆国の実情を見たい」からと書いていたので、ペリーは「この男は殺してはならない」と幕府に指示したからだという。幕府も松陰を持て余し、国元長州に送還する。長州藩主・毛利慶親は松陰を高く評価していたので、一旦親元に預けた後、旅の資金まで与えて10年間の諸国遊学を許す。その後再び危険人物とみなされて野山獄に幽閉され、後に自宅軟禁となるが、それが松下村塾を始めるきっかけとなった。

Q2: 松陰の教育法で「現場・現物・現実」重視とあるが、トヨタの「三現主義」とどのような関係があるか?

A2: 直接の繋がり、共通点は分からないが、松陰の思想は戦前から広く日本各地に伝わっていたと思われる。松陰の辞世の句『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂』は有名であり、度々引用される。また松陰を祭る松陰神社は萩と世田谷にあり、松下村塾を再現した建物も全国に何カ所かある。松陰は朱子学を教えたが、その行動は陽明学の「知行合一」に拠っていると思われる。陽明学は「知った以上は行動しなければならない」というものである。

Q3: 桐村さんの著書にある「機会遭遇理論」とはなにか?

A3: アメリカの学者Krumboltzの“Chance Encounter Theory”のことであるが、キャリアデザイン論でキャリアをどのように形成して行くかということに関連して唱えられている理論である。「ある人にとってはチャンスと思えることが、別のある人にはチャンスと思えないで通り過ぎて行く。人間には色々なチャンスが訪れるが、それをチャンスとして捉えられるかどうかが人生のキャリアの分かれ目になる」というものである。伊藤博文のケースをみると、博文は家が貧しかったので、幼くして奉公に出され、文字も読めなかった。しかし、その隠れた才能を来島又兵衛が見出して、読み書きを教えた後、桂小五郎に紹介しその才能を認めさせる。更に高杉晋作に紹介されて重用される。彼の才能は新しい人に会う毎に大きく開いていった。人との出会いの機会を生かして成長したのである。

Q4: 「機会遭遇理論」そのものは、何かを考えながらやれということか?

A4: 考えながらやるということと、自分で考えるための準備をしておけということである。日頃自分はこういう方向に進みたい、こういうことをやがてやりたいと思っていたら、それがチャンスと分かる。クランボルツの書いた本のタイトルは『その幸運は偶然ではないんです!』(“Luck Is No Accident”)となっている。ある人にとっての偶然は他の人にとっては偶然ではないことがある。そのためには日頃から生き方を考えておけということであろう。

C1: そのことに関連して、以前あかがね倶楽部で講演してもらったことのある元古河電工のサッカー選手で、不慮の事故でサッカーを止めざるをえず、車椅子バスケットボール選手となって、パラリンピック四大会に出場した京谷和幸氏の言葉を紹介したい。京谷氏は「人間は年をとっても、年齢には関係なく夢を持つこと、夢をもって事に臨めば、必ず出会があって、それに助けられ、感謝しながら、努力を続ければ、夢に近づくことができる」という。(詳しくはあかがね倶楽部ホームページの「講演録」を参照いただきたい)

(記録:井上邦信