第 4 2 3 回 講 演 録

日時: 2014年12月24日(水)13:00~15:00

演題: 黒田官兵衛 ~戦国の世に独自に光る軍師:官兵衛とは~
講師: 東海大学 エクステンションセンター 講師、吉見歴遊会 主宰 吉見 周子 氏

1.軍師とは

丁度戦国時代の終わりに、信長・秀吉・家康という歴史上、大変な英雄達が現れる。黒田官兵衛もその中の一人であった。官兵衛も天下人の夢を見たかも知れない。官兵衛というと、知略と軍略の人という像が浮かび上がる。今回のNHKのドラマは、相当史実に基づいて描かれているとは思うが、すべて史実の通りということではない。

軍師とは何か。戦国時代は覇権の争いであり、食うか食われるかの時代であった。その中で軍師は、天下を目指す主君の為に忠誠を誓い、身も心も捧げた。参謀が重要視された時代であった。今の時代と違い、当時は情報を得ることが一番重要なことであった。情報を得なければ、先の方向性を見出して行けない。

軍師に必要な能力とは何だろうか。一つには兵法を見極めた戦術を描ける能力が必要である。戦争を戦っている他国と同盟を結ぶなど交渉能力も必要である。それに敵を破滅に導く謀略が必要になる。さらに時には主君に代わって指揮を執る統率力がなければ、軍師は務まらない。武田信玄に仕えた山本勘助だとか、上杉景勝に仕えた直江兼次だとか、信長や秀吉に仕えた半兵衛などがおり、半兵衛と官兵衛は両兵衛と言われ軍師として活躍と、テレビでは描かれていた。

軍師は大きく二つに分けられる。一つは占い師的なもので、初期のころは呪術的な軍師で、陰陽師の系統がある。占いをしたり、儀式を用いて戦勝を祈るという形のものである。もう一つは官兵衛の様な参謀型の軍師である。官兵衛は孫子の兵法を学んでいた。孫子の兵法の重要な特徴は、戦わずして勝つのが一番良い勝ち方であるという事である。官兵衛はそれを実践した人である。秀吉が天下統一を実現するが、官兵衛の働きがなければもっと血が流されていたと言えるかも知れない。秀吉が得意とした戦いは、水攻めであり兵糧攻めであるが、秀吉は軍師のいうことを聞いていたと言えるだろう。

2.官兵衛の生い立ち

黒田官兵衛は、天文151546)年に御着城の出城である姫路城(現在の姫路城とは違う)で生まれている。家系図にあるように父は職隆(もとたか)で、官兵衛は孝高(よしたか)である。そんなに大きな豪族ではない。幼名は万吉と言い、当時の慣習に従い、お寺で修行している。幼い時から非常に聡明であったと言われている。母を早く亡くしたこともあり文学に心をひそめていたが、15歳のころ円満坊の言葉に感悟し、武道に精励をした。

播州は織田と毛利の両勢力の中間地域で、いつも攻められる地域であり、戦乱の世の中で小さな豪族は孤立しては存続していけない。常に揺れ動いていなければいけない。主君の小寺政職(まさもと)に嘱望され80石を賜り、御着城に出仕した。少し遅めであるが、17歳の時に初陣をはたしている。156722歳の時結婚し、父より家督を継いでいる。武将としては珍しく側室をおかなかった。

3.信長、秀吉との出会い

官兵衛が家督を継いだ頃、織田信長が力を持ってくる。信長が尾張・美濃を領有し、天下布武という印文を使い始めたのもこの頃である。永禄111568)年足利義昭を擁して第15代将軍につけるが、やがて義昭は浅井長政に助力を働きかけりして、織田信長と対立する。信長は石山寺とも対決し、一向一揆が広がり始める。中国地方では毛利元就が1571年に亡くなり、輝元が家督を継ぐが、二人の弟吉川隆景・小早川元春と力を合わせ順調に領地を拡大し、毛利勢が播磨の近くまで進出していた。

姫路は織田勢力と毛利勢力が対峙する地点になっていた。小さな姫路はどちらかに付かないと、生き残れない状況になっており、御着城主小寺政職は織田方につくか毛利方につくか評定を開いた。大方の武将は毛利方につくことを主張した。しかし、官兵衛はこの時30歳で恐らく最も若かったと思われるが、情報の裏付けをもとに、これからは織田信長が伸びていくので織田方につくべきと主張し、小寺氏は織田方につくことになった。官兵衛は軍師として必要な情報を収集し、先行きを見極めていたと言える。信長につくことになったことで、官兵衛の嫡子長政を人質に差し出すことになった。

1577年秀吉軍が播州にくだった時、これを迎えて姫路城を提供した。その後秀吉に従って佐用城・上月城などを占領していく。この時重大な事件が発生する。長年、信長に従っていた荒木村重が突然有岡城で反旗を翻す。合わせて官兵衛の主君である小寺政職も反旗を翻した。これでは背徳、不信の汚名をもらうことになるので、官兵衛は何としても村重を説得しようと有岡城に出掛けたが、説得できず逆に囚われてしまった。実はこの時、政職から官兵衛が有岡城に行くのでその際官兵衛を殺してほしいと、有岡城宛てに密使が遣わされていた。村重は官兵衛が到着すると、彼を捉えて牢に放り込んでしまった。政職の依頼は殺して欲しいとのことであったが、村重はそこまでは出来ないと、獄舎に閉じ込めることにした。

黒田家では官兵衛が帰ってこないと大騒ぎになったが、父職隆の裁決で官兵衛を見殺しにしても、人質になっている松寿を助けるために、信長への忠誠を貫くことにした。御着にあった黒田の住居を焼き払い、姫路に戻った。黒田の家臣が、妻光(てる)に忠誠を誓った起請文が残されている。しかし、信長は烈火のごとく怒り、恐らく官兵衛は寝返りをうったと判断し、人質である松寿を殺すように命じたが、秀吉に仕えていた竹中半兵衛の機転で松寿は密かに生き延びることが出来た。

有岡城の厳しい環境の牢屋で1年ほど囚われていたことで、官兵衛は頭や膝に後遺症を抱えることになった。獄中にあった半兵衛を慰めたものに、窓から見える藤つるに紫色の花がふさふさと咲いているのが見えたことがある。この様なことで、後に官兵衛が天下晴れて大名に列したとき黒田家の家紋に藤巴を採用した。

この間信長軍は有明城攻略にかかっており、ついに1579年有明城が落ち、この混乱の中、家臣により官兵衛は救出された。官兵衛は信長とも和解し、秀吉が大好きな有馬温泉で体力の回復に努めた。

4.中国攻め

1580年官兵衛は秀吉に従い、鳥取城攻めに加わる。秀吉より播州揖東郡など1万石を賜り大名格となり、山崎城へ移った。この頃秀吉は姫路城を大いに拡張し修造した。1581年秀吉が中心となり軍を進め、中国地方を順次攻略した。1582年備中に進発し、高松城攻めを始める。

6月2日未明、明智光秀の大軍が京都の本能寺を襲い信長を討つという、所謂本能寺の変が発生する。光秀が何故謀反に及んだかについては諸説あるが、最近では光秀の背中をポンと押した人がいるという説が出始めている。信長が討たれたという知らせが、高松城を水攻めしていた秀吉のもとに届けられたのが3日である。誰がどの様に伝えたかについては、現在のところ二つの説がある。一つは明智光秀が信長を撃つことを小早川隆景に知らせるために密書を送ったが、使者が秀吉の陣所を隆景の陣所と間違って行き、秀吉方に捕えられて密書を奪い取られたと昔から言われていた説である。全く荒唐無稽ではないが、陣所を間違えるような使者はめったにいない。もう一つは信長の家臣長谷川宗仁(そうじん)という人が本能寺の顛末を聞き、使いを秀吉の元に使わせたという説である。黒田家文書によると「宗仁より飛脚来たり」と長谷川宗仁説を伝えているので、こちらの方が本当ではないかと思える。

官兵衛はこの書状をもって秀吉の元を訪ねる。官兵衛から渡された書状に目を通した秀吉は、茫然自失の状態であった。その時官兵衛は秀吉に「天下を取るべき好機ではないですか」、今流に言うと「今でしょ」と秀吉を励ましたと言われている。そのほかの見解もあるが、いずれにしても冷静沈着に情報分析し、落胆している秀吉を励ましたのは官兵衛であろう。

信長が死んだことを毛利方に知られれば、毛利方は嵩にかかって攻めてくるので、秀吉と官兵衛は、毛利方に知られる前に何とか毛利と講和しなければならないと考えた。この事が起こる少し前から、毛利輝元に重用されていた安国寺恵瓊(えけい)と交渉していた。早速秀吉は3日の夜に、信長が死んだことを隠したまま交渉に入った。領土問題がネックになって中々交渉が進まなかったが、時間がなく急ぐので大幅に譲歩して4日に決着をつけた。

交渉が終わったちょっと後、高松城主清水宗治が自刃した直後に、毛利方に信長が死んだことが届いた。これが運命の分かれ目になる。それを知った吉川元治は講和を破棄すべきだと主張するが、小早川隆景が折角誓書を取り交わしたのだから、その墨が乾かない内に講和を破棄するということはいけないと反対した為に、この講和はそのまま通用することになった。

5.中国大返しと山崎の戦い

秀吉陣は5日と6日と撤退準備をした。6日には元春と隆景の陣所でも撤退準備を始めた。この時興味深いエピソードがある。官兵衛が隆景の陣所を訪ねて、毛利家の旗を20本貸して欲しいと頼むと、隆景は不思議に思いながらも旗を貸している。後に官兵衛は兵庫に到着した辺りから、これを陣の先に建て始めて、秀吉の軍勢に毛利勢が加わったと見せるための策略としてこれを利用した。これを見た秀吉は「かような謀り事は誰にも考えつかないだろう。凡人の及ぶところにあらず。真の大公とは、このことを言うべきではないか」と官兵衛の旗の件について非常に賞賛をしている。

中国大返しが始まる。この時秀吉が率いていた軍勢は約2万5千で、明智光秀を討つという目標を掲げて、一日でも早く上方に戻す必要がある。ピンチではなくチャンスだと6日夕刻高松城を出発し、岡山をへて驚異的なスピードで夜半には12㎞先の沼に到着している。7日早朝、沼を出発し40㎞先にある姫路まで昼夜を問わず走り続け、8日の朝姫路城に到着している。城に蓄えられていた兵糧米8万5千石、金600枚、銀750貫文を全部兵士たちに分配し、兵の士気を鼓舞した。兵を自宅には帰させなかった。先に人を姫路に送り、多くの粥を用意させて、軍勢が城下を通るときにそれを与えた。この当たりの対応も官兵衛が指揮して行ったと史料が伝える所である。2万5千の兵に与えるお粥の量はちょっと想像がつかないが、賄いは大変だったろうと思われる。

姫路で一日休み、9日早朝出発し、休みは所々でとり、11日の朝には摂津の尼崎に着いている。軍の先頭に毛利家の旗があるので、毛利も秀吉についたと思い誰も抵抗しなくなった。当然明智側も斥候を出して、秀吉軍の動きを探っている筈で、斥候は秀吉軍に毛利軍がついていると報告している筈だ。さらに、秀吉に付くか光秀に付くか分からないのが周りに一杯いたが、旗を見てやっぱり秀吉に付こうと決めたのが多かったらしい。その当時の武将は負け戦には付かないので、明智側は苦戦に陥った。

光秀軍は1万位、秀吉軍は大体4万で、山崎の戦いは6月13日午後4時ごろから天王山の麓で始まった。光秀軍の主力は斎藤軍3千であったが孤立して撃たれてしまい、結局光秀軍は総崩れとなった。光秀は落ち延びていくが、農民兵にやられてしまった。光秀57歳の事である。

6.秀吉の天下取り

1583年秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。これにより信長の後継者は秀吉となり、秀吉は大坂城を築城する。官兵衛は1千石加増され、2万1千石となるが、これだけの戦いをしているにしては、所領は少ない。秀吉はいくらか官兵衛を警戒してしたと思われる。

この頃官兵衛はキリスト教に帰依し、洗礼名はシメオンという。なぜキリスト教に帰依したのか。この頃ザビエルが日本にやってくる。高山右近とか小西行長とか帰依しており、九州では大友宗麟を始めほとんどの大名がキリスト教に帰依していた。官兵衛は高山右近に誘われ入信したが、根っからのキリスト教信者ではないと思われる。日本にやって来たルイス・フロイスが日本史という本を書いている。その中に、受洗者の中に関白の顧問を務める貴人がいて、毛利との和平を成立させたと書いてある。この貴人とは官兵衛に違いない。一度キリスト教に入信しているが、秀吉が禁令を出すとすぐにやめている。高山右近は秀吉の説得に応じず、マニラに追放されている。

1585年秀吉の命により四国征伐に出掛けている。この頃より秀吉の参謀として活躍する。その後も九州征伐で活躍する。その論功行賞で豊前六郡18万石に封ぜられる。島津義久が秀吉の軍門に降った後、官兵衛は博多の町の復興に努めている。官兵衛は築城の名人であり、讃岐領主・生駒親正の委嘱により高松築城、毛利輝元の委嘱により広島築城を進めている。1588年大分に中津城が完成し、こちらに移っている。

7.如水誕生

この頃、秀吉が「自分が亡くなった後天下を取るのは誰だろう」と話していると、山名善高(ぜんこう)が「それは官兵衛ではないか」と言ったという話になっている。一説によると秀吉が官兵衛に「次期天下統一の名をあげるのは誰だ」と直接問いかけると、「それは毛利輝元であろう」と官兵衛は答える。すると秀吉は「そうじゃない。面前のやつじゃないか」と言ったという話もある。真実かどうかは別として、この様なこともあり、1589年官兵衛は家督を長政に譲る。

1590年、小田原城攻めに加わり、開城に対し官兵衛は大いに働きをする。次に秀吉は1592年朝鮮征伐に出掛ける。九州の名護屋城を発して、秀吉軍は京城を占領する。この戦争中での行為で官兵衛は石田三成の憤怒を買い、秀吉の勘気をこうむった。官兵衛は難を避けるため、剃髪して如水と名乗った。

1596年秀吉は再度朝鮮再征伐を行うが、1598年戦い中に秀吉は五大老に向かって「秀頼を頼みまする。頼みまする」と言いつつなくなる。享年63歳であった。長政、清正ら秀吉軍は釜山を発して帰国する。結局、秀吉のこの朝鮮征伐は無謀な戦いであった。

8.関ヶ原の戦いと如水の野望

家康は五大老の一人であったが、非常に大きな力を持っていたのは、前田利家である。翌年利家が62歳で亡くなると、頭角を表わすのが家康である。如水は家康より暇を賜り、九州中津に帰る。家康は結婚していた長政を離婚させ、保科正直の娘を家康の養女として長政と結婚させた。家康の力が大きくなってきた一つの証拠である。

如水は中津城下にあったが、1600年9月9日関ヶ原の合戦が始まる前に兵9千を率いて中津を発し、九州南征の途に就いた。9月13日大友氏と石垣原(いしがきばる)に戦って勝ち、九州征服の幕が切って下ろされた。

9月15日、関ヶ原の合戦が始まる。如水は次の天下は家康と考えていたので、長政に3500の兵を付けて関ヶ原の戦いに東軍として参戦させている。如水は三成の挙兵の僅か3日後にこれを知る。この様な事件を起こることを予想していた如水は、密かに瀬戸内海の数か所に早舟を用意して、上方の変事がいち早く伝わるように用意をしていた。

関ヶ原の合戦の始まりで、如水は天下取りのチャンスと考えたかどうか分からないが、九州一円を滅ぼしていく。絶対に家康が勝つと限らない、不測の事態が起こるかも知れないと考えていた如水は、蓄えていた金銀を放出して浪人から農民、町人に至るまで人数を集めて約9千名もの促成軍を作っていた。この兵をもって素早く九州を平定し中国へ向かったら、天下統一への道が開けるかもと思ったかも知れない。

しかし、関ヶ原の戦いはたった一日で終ってしまった。これは如水にとって考えられないことであったかもしれない。如水は関ヶ原の合戦終了後も10月まで九州平定を続けていたが、11月に家康より島津攻撃中止の命令をうけ、中津に戻っている。

戦後、「家康殿は、『徳川家は子孫代々まで黒田の家を粗略にしない』と三度も手をとって感謝していた」と長政は如水に報告している。その時如水が「どっちの手をとったか」と尋ねると「右手です」と長政は答えた。「左手は何をしたか」と如水が言ったとテレビでは放送された。空いた手はどうしたという事であるが、これは後世の創作である。そのような資料はない。しかし、如何にも如水らしいという事を表わしている。

もしも関ヶ原の合戦が長びいていたら歴史は変わったかも知れない。歴史にはもしもということはあり得ない。関ヶ原の合戦は天下人を狙う如水の所にはその機会をもたらさなかった。如水は確かに才はあり、軍師として優秀であったが、運に恵まれなかったという事である。生まれた所は、信長も秀吉も家康も中部地方であったことから見ると、姫路はちょっと離れた所であった。それに年齢的にちょっと年下であった事も天下取りが出来なかった要因であるかも知れない。

以上黒田官兵衛、如水の一生を大特急でお話いたしました。

Q&A

Q1. 「如水」という号は文献では一つは上善如水(老子)から、一つは君子交淡如水(礼記)と二つあるが、黒田如水は上善如水からで後者の方は如水会館とかに使われていて、黒田如水の方には入っていないと思うが如何でしょうか。

A1. どうでしょうか。「如水」というのは淡々と水のように生きたいと、如水は思ったのではないか。丁度この時から茶の湯を始めている。その当時の一流の文化人である細川幽斎と交わりもあったので、如水もできれば文化人として過ごしたかったのではないかと思います。

Q2. 今日の講演では如水は大変な軍師だと話されていますが、当時軍師という表現はなかったのではないでしょうか。もしそうであるならばどの様な地位であるのか。組織の中で城代家老なのか近習頭なのか、どのような立場でいたのか教えて頂きたい。

A2. 文献上軍師という言葉はいつごろできたか明確でない。立場で言えば、秀吉をあそこまで持ち上げて天下を取らしてあげたのが官兵衛であったとしても、まずは1万石、暫くしても2万石である事から見れば、そんなに高い地位ではなかったと言える。軍師は側近なのである。家老というような力のある立場ではない。あくまで下働きである。本当に18万石の力のある大名になり、福岡城を築城したのはずっと後である。戦国時代には軍師は必要なのである。今と違って情報が入って来ないので、情報を早く知る必要があった。しかし、家康のころになると軍師はいない。家老職だけになる。

Q3. 家系図を見ていると黒田家の前に六角氏とか京極氏とか戦国時代の家系があり、さらに下って尼子氏が繋がっているが、尼子氏が天皇家に繋がっているという見方は多分に怪しいと思う。たとえば明治の元勲の家系図を見ると大抵は源氏か平家に繋がっている。家系図は結構怪しいものがあるのではないか。

A3. ここに示したものは結婚で結ばれて来ている。京極氏も六角氏も室町時代でこのような家系であったろうと思う。確かに家系図には怪しいものがある。家康は征夷大将軍になるためには源氏の姓が必要であった。そこで新田氏の子孫得川有親・親氏が三河に流浪して定住したことにつくりあげ、得川を徳川にしたという。本当は加茂氏であったと思う。源氏か平家でないと将軍になれないので、武将の多くは先祖を源氏か平家に付けてしまっている。信長は平家になっている。秀吉は何とかして源氏を貰いたかったが、どうしてもくれないので、豊臣姓になった。

Q4.石田三成と官兵衛は対立しているように描かれていたが、実際はどうでしたか。

A4.三成は文理派で官兵衛や福島正則などは武断派である。三成はそれなりの力量はあったが、武断派でなかったので戦いはしていない。秀吉が育て上げた多くの武将は三成に反感を抱いている。官兵衛も三成とは上手く行ってなかったと思う。三成が戦いを経験していたら、秀頼は生き延びたかも知れない。

(記録:田邊 輝義