第 4 2 0 回 講 演 録


日時: 2014年9月8日(月)13:0015:00

演題: 「お陰様で」 ~斬り絵七宝焼で結ばれる心の縁~

講師: 斬り絵七宝焼作家 山本 道子 氏

「七宝焼」の「七宝」とは仏教の経典にある「七種の貴重な宝~金、銀、瑠璃(ルリ)、玻璃(ハリ)、硨磲(シャコ=真珠)、珊瑚(サンゴ)、瑪瑙(メノウ)」に由来します。七宝焼の煌びやかな美しさを経典にある「七宝」に擬えて付けられたとされています。七宝焼は金属製の下地の上に色とりどりの釉薬を載せ、800度以上の高温の炉で焼成して作られます。この技法は六千年前の古代エジプトに起源し、ツタンカーメンの「黄金のマスク」にも使われています。シルクロードから中国を経由して、平安時代に日本に伝わり、当時の寺院の装飾や馬具などにも使われています。私は七宝焼製作に当たっては、他の作品と競いそれに勝る作品を作って見せるというような姿勢ではなく、ひたすら無心になって、絵画などを観てその美しさを受け容れて、それを七宝ではどのように表現したらよいかと常に考えています。そして炉の火の中に作品を入れている間、どうか美しく仕上がって出てきてほしいと祈るような気持ちで待ちます。

私の七宝焼作家としての最も記念すべき作品は、1981年に当時のローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が来日された時、日本武道館で行なわれた対話大集会のために、日本テレビの依頼により製作した作品~法王の着座椅子の背面に取り付けられた七宝焼の法王の「紋章」~です。この紋章には“M”の文字が描かれていますが、これは作者のイニシャルではなく、マリア様の“M”です。本日会場にいらっしゃっているシスターのお話しでは、本日9月8日()は奇しくもマリア様の誕生日に当たるとのこと。今日ここでこの講演をさせていただけるのは、ヨハネ・パウロ法王だけではなくマリア様のお導きがあったのではないかと感謝しています。

この七宝焼紋章はもう一組レプリカを作成し額装して大切に保管していたのですが、病気がちになって作家活動を続けられなくなるのではないかとの不安から身辺整理を始めた時期に、この作品を最もふさわしい場所に納めなければならないとの思いが募りました。当初はヴァチカンへ奉納することを考えましたが、パウロⅡ世が亡くなったとき自分の遺体はポーランドに葬ってほしいと望まれたという話を聞き、さらに、ポーランドのヴァドヴィッチェのパウロⅡ世の生家が美術館(記念館)になっていることを知り、このレプリカをその美術館に献納することにしました。その際、美術館の館長のシスター・マグダレーナからいただいた感謝状がきっかけとなり、今年4月にヴァチカンで行なわれたパウロⅡ世の列聖式の時、サンピエトロ広場で上映されたパウロⅡ世を讃える映像作品で、私が思いがけず日本からただ一人選ばれて取材を受けて、登場するという栄誉に浴すことになりました。カソリックでは宗教者が「聖人」として認められるためには、少なくとも2回の「奇跡」(難病からの快癒など)を起こしたことが証明される必要があります。私はカソリックの信者ではありませんが、私が「神の手」といわれる福島先生の手によって脳腫瘍という重篤な難病から救われたことが、あるいはパウロⅡ世の「3番目」の奇跡と見なされたのかも知れません。

私にとってはパウロⅡ世の「お導き」は他にもありました。七宝焼の題材として鳥獣戯画を観るために、京都・栂ノ尾高山寺を訪れた際いただいた小冊子に「パウロⅡ世の思し召しで、高山寺とイタリア・アッシジの聖フランチェスコ教会が宗教の違いを超えて『兄弟教会』の契りを結んでいる」と書かれているのを偶然知りました。高山寺には鳥獣戯画の図柄を入れた茶筒を納め、同じ作品をアッシジにも納めてまいりました。

このようにパウロⅡ世をはじめ、私を支えて下さる多くの方々とのさまざまな出会いとご縁によって私と、私の七宝焼の作品たちは導かれているように思います。

次に、私の小文『お陰さまで』を朗読でご紹介し、本日の講演の「まとめ」に代えさせていただきます。

「お陰さまで」~斬り絵七宝焼で結ばれる心の縁

夢で母が呼んでいる

19年前のことです。

毎晩のように、不吉な夢を見始めたのです。その頃の私は離婚して朝から晩まで働き詰めでした。今思うと、後に発症した脳腫瘍の前兆だったのかも知れません。

その夢は、時間が遡り、私は5~6歳だったようです。庭のブランコに乗って遊んでいました。すると、「道子―つ 」と呼ぶ声が聞こえ、見ると、明るい陽差しの中、若く美しい着物姿の母が縁側に座っています。傍に駆け寄ると、おやつが用意してあります。日頃、母の膝などに乗せて貰った覚えもなかったのに、そのお膝の上でおやつを頬張るというとても嬉しい夢のひとときでした。

私は戦後間もない混乱のときに生まれていたのに、意外に、小さい頃は裕福に育てられていたのでしょうか。その夢の中では、母のお膝でおやつを食べるというとても幸せな時を過ごしていたはずなのに、突然、母の姿が消え、するすると天に昇って行ってしまったのです。辺りの景色は一変し、真っ暗になった空から母の声が聞えてきました。

「何でそんな苦労しているの?おいで、おいで、おいでー」と手を伸ばし、私を引き上げようと私の片手を掴みました。真っ暗闇の中、母の顔だけが白く浮かび上がりました。

「お母さーん」と叫びながら、母の顔を見上げると、みるみるうちに年老いて醜くなり、髪はお岩さんのように乱れています。私は力の限り、しっかりと母の手に掴まっていたのに、するっと手が抜けて、放されてしまいました。猛スピードで落ちて行く下を見ると、何と、ドロドロの油地獄が煮えたぎっています。

「あーー」声も出せず、息を呑んだ途端、目が覚めました。

毎晩同じような夢を見るので、眠ることが怖くなり、明け方迄,眼を凝らして起きていようと頑張る夜が続きました。

炎に包まれた仏様が

ところが、ある日、うとうとと眠ってしまった時です。

雲に乗った仏様が近づいて来るのです。私は「助かった!」と喜ぶのも束の間、その仏さまの後ろの方から身体中炎に包まれた仏様が一緒に近づいて来ます。私は恐ろしくなって、今度は「焼き殺される!」と叫びました。そこで眼が覚めました。

もしかしたらその炎に包まれた仏様はお不動様だったのかなと思い当たったその日から、それまで続いていた悪夢・幻覚が終わりました。そのことの不思議さを感じ、調べてみると,私の生まれ年の酉年の守り本尊が、まさに不動明王だったことが解り、やっぱり私を守って下さったのだと気付かされたのです。それから嬉しくって、東京近辺のあちこちのお不動様詣りをしました。

その頃の私は体も衰弱してしまい、実家で寝込んでいる父の所に見舞にすら行けないことがずっと苦になっていました。早く元気になって仕事に戻りたい、と思うのですが、体は思うように動かず、焦るばかりです。

父に宛てた斬り絵の絵てがみ

そこで思い付いたのが「絵てがみ」です。

以前、義理の父が、札幌のガンセンターに入院中、絵てがみを出していました。受け取る義父は勿論、精神科の先生や看護師さん達もその手紙を「生きる希望になる」と、大変喜んで下さいました。私が北海道にお見舞いに行く日には、義父は日頃面倒だと嫌がっていた髯もあたって、「東京の恋人みたい」などと冷やかされるほどに、亡くなるまでの愉しい思い出を作りました。

そうだ! 私の本当のお父さんに毎日絵てがみを書こうと決めました。

父は、母が生前に入院していた時、毎朝仏壇に向かい、片手で拝み、お経を上げてから、母のお見舞いに出かけていたそうです。父は他の人にはとても優しいのに、母にだけは暴君のようにふるまっていました。ところが、母の病気が不治の病と分かった時からは、母を仏様のように慕ったのです。

私はお経を絵てがみにしようと思いつき、浄土真宗の経典で一番短い120行の「正信偈(しょうしんげ)」を選びました。毎日2行ずつ書き続ければ、60日・2カ月で終わります。そして、その絵てがみを書くことで、私も元気を取り戻したいと願いをこめました。季節の斬り絵を貼り、漢字ばかりのお経の後に、その日の想いをひとこと書き添えました。

不思議なことに、父に絵てがみを書き始めたのは、丁度父の生まれ年の干支「亥」の斬り絵で、その年の1月からでした。2カ月後の3月には全部書き終わるはずだったのに、端午の節句で終わっているのは、4カ月もかかってしまったからです。 

その後も、私も早く回復して、仕事に戻りたいと願い続けました。 

それまで私は老人ホームでコーラスと書道の講師をしていました。

書道の活動の時間のことです入居者はご自分で書かれた文字が気に入らないと全て破いてしまうのです。私は「明日はどうなるか分からない、今日の命の作品を残して欲しい」と、いつも願っていました。

皆さんの書かれる文字には、それぞれ、形もスペースもその方しか表現できない、芸術品のような素晴らしさがあるのです。

そこで考えついたのは、片寄った文字の脇にその季節の絵を描き、入居者一人ずつの落款をゴム印で作り、押すことです。

すると、どうでしょう、皆が喜んで、せっかく書いた作品を破棄しなくなりました。 

私は持ち時間、1時間の中では、それぞれの題材に合った絵を描くには時間が足りず、どうしようかと、また思案にくれました。そこで、季節感のある絵を斬り絵にして、二カ所にバランスを考えて貼り、落款を押すことにしたところ、参加される方も増えて、ホームやデイサービスでも大受けとなりました。時には、失明されている方をお誘いして一緒に筆を取り、斬り絵を貼ることもあります。筆の跡の湿った文字に指をなぞらせ、斬り絵の上の立体を触って頂くと、その方が大変喜ばれて、最高に嬉しく感じました。なんと言ってもそれらの作品はみな芸術性に優れたものばかりで、ご家族の方からもとても喜ばれました。

毎月作る斬り絵の原図は2百枚を超えるほどありましたので、すぐ父宛に書く絵てがみに使えました。実家の兄嫁からは、「おじいちゃんは眼も開けないし、私には手紙に書いてあることは難しくて読んであげられない。それに切手代が勿体ない」と言われました。でも私にとっては、父と私との心の交流として、手紙を書くたった五分のゆとりを持ちたい一心でした。

父の棺に絵てがみを

その年の夏、両国の西本願寺別院で父の葬儀が執り行なわれました。最期のお別れに絵てがみを書いた葉書の束を父のお棺に入れました。すると、御住職が私の耳元で、「1枚だけ入れて後は残して置いて下さい」と言われるのです。そこで、一番最初に父に出した1枚だけを着物姿の父の胸にそっと添えました。

それから、役員の方が、「見せて下さい」と声かけられ、ご覧になると、「すごい!信仰の厚い人にもできないこと」と褒められました。そして「9月1日から行事があります、その時に、この葉書を額に入れて展示して下さい。中村政太郎さん(父)を慕う方がいるんですよ。みなさんにお見せしたい」

それから聞いた父についてのお話は、私達は全く知らなかったことばかりでした。

父は、毎年震災記念日の9月と大空襲のあった3月にこのお寺で炊き出しをするときに、百人分の野菜をこの10年間ずっと那須から送っていたとのことです。震災や空襲で、お寺に命からがら逃げ込んだ方、逃げ遅れて公園で亡くなられた方のために、寺の隣には震災記念堂が建立されています。

父が京都の西本願寺とは関わりを持っていたのは知っていましたが、地元の墨田でもそのような地味でも多くの人から感謝される貢献をしていた事を知り、改めて父の偉大さを感じたものです。

絵てがみは2枚のパネルに30枚ずつ並べ、額装し、お寺に届けました。

その年の暮、毎年恒例の奉恩講に親戚一同が集まった時のことです。お経、説教も終り、帰ろうとしていた時、御住職から、「山本道子さんはいらっしゃいますか?」と呼ばれました。前に進み出ると、父の葬儀の時の御住職とは代わられた方です。「この葉書を書かれたのはあなたですね、来年の新年号の新聞にこの絵てがみを載せてもよいですか?」と言われ、御住職が指す先に二枚の額が仏壇の前に飾られていたのに気づきました。勿論、光栄の限りとお受けしました。その額は、それからお寺の宝物のように飾って下さっていたとか。

もう一つ、父の妹からの話にもびっくりしました。「お父さんはな、日高別院に親鸞さんのお像を建ててあるんよ。それに、別のお寺にも釣鐘を奉納してあるんよ、しかも、そこにあんたら子供の名前が刻んであるんよ。今度、一度見においで。この頃、観光バスもくる位やから」と。今まで、全然知らなかったことばかりが、亡くなった後で解り、父の実家のある和歌山の御坊にでかけることにしました。

叔母の案内で、まずその釣鐘を見て、写真に残し、日高別院へ行きました。そこには、父が寄進した親鸞さんが越後に流されたときの旅姿の銅像が建てられていました。寄進人系図を見ると、私達の曾祖父母の代から孫の代に至るまでの名前が石に刻み込まれています。そこに私の名前を見つけたとき、何故かしら涙がこみ上げて来て止まりませんでした。

父は人が好きで誰をも信用し、商売で騙されても、次々と家を売って償い、貧乏になっても平気で、身を粉にして子供や孫のために働いていたその姿は今も頭から離れません。

父は墨田と那須に裁断業の工場を持ち、仕事をしていました。

那須の工場で突然の事故が起きました。

父は工場のどの機械にもセンサーを取り付け安全性の確保はしていました。それでも古い1台だけには付けられなかったため、従業員には使わせず、「この機械は俺一人が使う」と用心していました。

が、その日に限って、その機械をどうしても使わなければならなかったのか、何か考え事をしていて注意を怠ってしまったのでしょうか?

怖いギロチンのような太い刃が下りてくるのに、右手でフェルトを掴んだまま、足でペダルを強く踏んでしまいました。一瞬、ガチャンと刃の落ちる音と共に、父はフェルトと一緒に右手首も切り落としてしまったのです。

話を聞いただけでも鳥肌が立つような恐ろしい出来事です。でも父は、救急車を待つ間に、従業員に「車のタイヤを外して肩から止血してくれ!」と従業員に大声で命じたそうです。そこにかけつけた母は失神してしまったとか。

どんなに痛くとも辛くとも、口には出さず、負けず嫌いな父。人には優しく前向きに生きてきた父の姿を見ていた私には、今になって改めて、父の娘であった事が嬉しく誇りと思えるのです。

私は父を想うことでどんなに苦しいことにぶつかっても前に前に進めるのです。

「神の手」に委ねて脳腫瘍手術

私の脳腫瘍が最初に見つかった時、腫瘍が左首の付け根の頸動脈、静脈、視神経に巻きつき、出血もしていた状態でした。医師からは「これは十年前からだね、自覚症状があったでしょう」と言われました。最初の手術は2000年でしたが、脳全体に蔓延った腫瘍は1回では取りきれなかったため、その後七年置きに再手術を繰り返すという治療法が採られることになりました。

でも、私は別の治療方法を求めて病院を変えてみました。その病院では一年目は脳外科の主治医の先生が中心となって、脳外科、耳鼻科、眼科と総合的な診察、検査、投薬が行なわれる安心できる治療体勢がとられていました。ところが、その主治医の先生が転勤され、担当の先生が代わると、「もうこれ以上は今の日本の医療技術では手術が不可能で、悪性のガンより始末が悪い、手がつけられない、もう治療の手立て無し」と告知されました。

私は迫りくる生命の危険を覚え、脳神経外科手術の世界的な権威で「神の手」を持つと言われる米国在住の福島孝徳先生に来日を依頼し、有難いことに、来日後、いの一番に手術をして頂きました。

ところが、その数カ月後、左耳が全く聴こえなくなってしまいました。耳鼻科で診て頂くと、その医師は福島先生の手術結果を示す私の脳のMRI写真を絶賛した上で、難聴の原因は「中耳炎」だと診断され、何度か通院治療しましたが、難聴は治らず、結局鼓膜を切開しました。すると、そこから透明な水が出始めたのですが、その耳鼻科ではそれに気づかず、その液体が、「髄液」だったことが解ったのは、その後自宅から救急で運び込まれた病院の集中治療室の中でした。入院中のことは、ぽつぽつとしか覚えていませんが、頭を開き、お腹の筋肉を削り取って髄液の漏れている硬膜の穴の上に貼りつけるという硬膜修復手術だったそうです。ただ今回は、最初に外来の積りで駆けつけた病院で、その後意識不明になりそのまま入院になってしまいました。その間、医師から母の命の危険を告げられた私の娘は、米国の福島先生に直接連絡を取りたいと必死の思いで病院に強く訴えました。その結果、その時はヨーロッパを駆け回っておられた福島先生にやっと繋がり、再手術を承諾していただきました。お陰で来日された時は他の患者さんの手術予定に優先して私の手術に携って下さったと聞かされました。一ヶ月半の入院中、両親に代わる叔父夫妻、姉、娘が毎日、集中治療室を見舞ってくれたようです。

本当は、緊急入院の翌日にはFM世田谷ラジオに出演予定でした。また翌月には、東急百貨店本店での十五回目の個展が決まっていて、そのDMの準備の途中でした。ICUのベッドから起き上がることを禁止されているので寝たまま、デパート側に個展中止のお詫びのハガキを書きましたが、よれよれの文字で、父が右手を失くし、左手で書いたのとそっくりでした。

退院の見通しがつき、一般病棟に移された時、私物が戻され、手さげ袋の中身を点検していたら、ラジオ出演の資料で、老人ホームでのコーラス活動のメンバー全員の写真があり、それを見ていると、主冶医の先生が入って来られました。私がその写真の中のある人物を指差し、「この人が病院に連れて来てくれました」と言うと、「命の恩人ですよ」と言われた先生の言葉に、よほど危なかったのだと改めて分かりました。

ローマ法王の着座椅子に七宝焼紋章を

私の本業は七宝作家です。1981年、ローマ法王、ヨハネ・パウロⅡ世が来日され、日本武道館で、「ポープ イズ ホープ」(「法王は希望」)というテーマで若者との対話集会が執り行われました。その舞台で法王が座られる椅子の紋章を七宝焼で製作して欲しいと日本TVから依頼されました。製作に当り材料を2組分用意し、1組は納品し、あとの1組はレプリカとして額に収め個展の会場にお守りのように飾り、その輝きを誇りにしていました。

その大切なレプリカをいつかは一番ふさわしい処に納めたいと考えていたところ、ポーランドのヴァドビッツェにあるパウロⅡ世の生家が美術館になっていること知り、まさにそこが最適の場所と思い到りました。そこで脳外科の先生にお願いしたところ、遂に、飛行機に乗ってもよいとの許可を頂き、ポーランドに行き、その美術館に奉納することができました。

日本武道館での対話集会でお座りになった椅子は、日本のカトリックの総本山・東京カテドラル聖マリア大聖堂に納められています。パウロⅡ世のヴァチカンの葬儀に合わせて行なわれた日本での追悼ミサの際には、皇太子を初め、全国から列席された方々の前にその椅子が飾られていたそうです。

一年に二回も、大きな手術をして、その後、眼も耳も悪くなって、もう七宝焼活動は出来ないと覚悟し、身の回りの整理を考え始めました。

それから、中止にしてしまった前年の個展を実現し、その回で最後にしようと計画しました。今まで私を育てて下さったお客様へのお礼と、お詫びを兼ね、法王の紋章のポーランドへの奉納の旅の報告をしようと、ドリンク付のトークショーを企画しました。

すると、それが大変好評を頂き、デパート側からの強い要望で翌年も続けて欲しいと依頼されました。そこには、皆様の温かい心・恵み・導きがあることは決して忘れてはなりません。

京都・高山寺と伊・アッシジ聖フランチェスコ教会は兄弟

十八回目の個展でのテーマとして、私の大好きな京都・高山寺の国宝・鳥獣戯画絵巻を七宝の世界に繰り拡げました。私は18歳の頃から先祖のお墓参りも兼ねてその絵巻のある京都の高山寺に通っていましたので、高山寺の歴史・建築・鑑賞処・明恵上人の行跡など、何でも知っていると自惚れていました。

ところが、その年のトークショーで高山寺について正式な説明をしようと、持っていた高山寺拝観の栞を取り出して見たところ、何とそこには、神父様の姿の写真が載っています。一瞬眼を疑い、すぐに説明文に眼を走らせました。すると、「パウロⅡ世」の文字が飛び込んで来たのです。いままで拝観の栞を頂いても、眼も通さず、そのままバッグに仕舞っていました。夢中で読み進めると、全く自分が無知だったと知りました。法王様が来日された5年後、イタリアのアッシジ市の聖フランチェスコ教会で、世界平和祈祷会が開かれ、その第1回目の日本代表として、世界遺産でもある京都栂ノ尾高山寺の葉上住職が赴かれました。恐らく、高山寺を開山された明恵上人のお話しをされたのでしょう。

同時代に生を享けたフランチェスコ神父と明恵上人が同じ布教思想「清貧」を共有されていたことを讃え、寺院と教会が宗教の違いを超えて世界で初めて「兄弟教会」として結ばれていたのです。

その証に、聖フランチェスコ教会はアッシジの聖堂の壁画で有名なジョット作のフレスコ画「小鳥に説教」の写しを額に仕立て高山寺に贈られています。その絵に描かれたフランチェスコ神父は、身一つでヴァチカンに赴き真の宗教をと訴え、後に聖人に列せられた人物です。

日本とイタリアでほぼ同時代に本来の宗教のあり方が乱れていたのを改革しようと、奇しくも二人の聖人がそれぞれ行動に移したのでしょう。

明恵上人は外見も構わず、自分の耳を切り落とし、リスや小鳥と同じ無垢の心になり、裏山の松の木の股で座禅を組み修行している姿が掛け軸となっていて、これも国宝になっています。

私はこのような史実を知り,また何かのお導きを頂いたと感じ、高山寺のご住職に即に電話を入れ、個展に出品する茶道具、花器、アクセサリーの作品を見て頂くことになりました。そして、パウロⅡ世によって結ばれた兄弟教会の証明の写真を頂き、トークショーで発表しました。個展後、無事閉場できたお礼と報告に、絵巻物の中の蛙と兎の茶壷道中の図を茶筒に仕立てて高山寺に奉納して参りました。

高山寺には日本の茶の栽培の発祥の茶畑があり、それが後に宇治に移植されたとのことです。御住職が、差し上げた茶筒に「来年の新茶を詰めて明恵上人の御廟に献茶します」と言われたので、「父や母、パウロⅡ世のお導きのお陰です。ここまで生きて来られて良かった」と申し上げると、「明恵上人のお導きどす」と静かに言われました。私は只々有難く、涙を押さえることができず、涙がお礼の言葉の代わりとなりました。

こんな思いもかけなかった仕合せを頂いたことを機会に、翌年の個展後、イタリア行きを決め、高山寺に納めたのと同じ作品を額に仕立て、アッシジの聖フランチェスコ教会に奉納して来ました。今でもそこでは各国の異宗教者が集まり十月二十七日に平和集会が行なわれています。教会の入口には、各国の文字が大理石に刻み込まれています。勿論、漢字で「平和」の文字が有ります。

生かされた私のお役目は

年を重ね、以前より病が重なり複雑になっても、ここ迄生きてこられたのには、娘、親戚、周りの多くの方々の支えを頂いていることを忘れてはいけません。今の私は眼と耳が不自由です。三半規管も侵されています。それでも神様が生かして下さっている今、私のできる事は何だろう?それは私に与えられた「お役目」です。きっと世の中には私よりもっと重度の病をお持ちの方が沢山おられると思うのです。その方に成り替わって差し上げることは不可能なことですが、その方々に寄り添って、そのお気持ちを思いやることはできるはずです。「その方たちの心を汲み取りなさい」とお役目が頂けたのだと、その御縁を大切にしたいと願います。

私を診て下さる脳外科、耳鼻科、眼科、整骨院の先生方にも私の生活の全てを知って頂き共に喜んで下さるのが幸せです。初めは、斬り絵も七宝焼の作品作りなども、とても無理と診断されておりましたのに、今では当たり前のように個展のDMを差し上げると、大きな花束を抱えて来場して下さる方がいらっしゃると、大感激です。

日本の、世界の、いえ、宇宙の、どこかにいらっしゃる神様が私を生かして下さり、いただいた大事な命があるからこそ今を思いっきり生きられます。

「恥を知れ」「らしくあれ」という大妻コタカ先生の名言と、「他人の為に自分の技を使いなさい」というキリストの教えが私の心の支えです。また、「自分に厳しく、他人に優しく」という父の生き方もお手本です。心を無にして、仏様の斬り絵、銀箔を七宝に焼きつけ、炉に向かう時、作品に命が吹き込まれて行きます。ご購入いただいた作品を翌年の会に身につけて来て下さるお客様の、その胸を飾る輝きを拝見すると、私の夢はまだ続けられると、皆様の応援が有難いのです。

最後に、一人では何もできない私を、何かにつけて助言して下さり、支えて下さる、愛する人達が傍にいる、そして仕事がある、お役目がある事のおかげを深く、深く感謝する今日です。

おかげさま、皆様、本日は有難うございました。

                        Q&A

Q1: 高山寺とアッシジの聖フランチェスコ教会が兄弟関係になったというが、具体的にどのような交流をしているのか?他に同じような例があるか?

A1: 世界で他に例はないと思う。しかし残念ながら、両寺院が兄弟の契りを結んでから大分時日が経ち、住職も変わり、アッシジ側の司祭の名前も分からず、現在はほとんど交流が途絶えてしまっている。パウロⅡ世が祝福された精神をつないで行きたいと考え、アッシジに作品を奉納することにし、高山寺にアッシジ宛ての奉書を依頼したが、書いてもらえなかったので、ローマ法王庁から連絡を取って頂き、独自にアッシジに赴いた。

Q2: なぜ「切り絵」ではなく「斬り絵」なのか?

A2: 私の七宝焼との出会いは古河電工に勤めていた頃、上司の家に招かれたとき、奥さんの趣味の七宝焼の教室に誘われことに始まる。それから七宝作家となった。その後出会った「斬り絵」作家の岸元克己先生から「斬り絵」を七宝焼にすることを勧められ、「斬り絵七宝焼」を始めた。「斬る」という言葉を使うのは刀で斬ったような鋭い切り口の絵や文字を作るため。作品には「斬る」ことに掛けて作った小柄(刀)もある。七宝焼は通常「有線七宝」といって細い金属線が使われているが「斬り絵七宝」では厚さ7ミクロンの銀箔を使う。作業は難しいが作品は軽く、アクセサリーなどにも好適である。

                                                 (記録:井上邦信 )