第 4 1 5 回 講 演 録

日時: 2014年3月4日(火)13:00~15:00

演題: 富士山と縄文人の心性をさぐる

講師: 法政大学 キャリアデザイン学部 教授、学部長 金山 喜昭 氏


はじめに

自分のバックグラウンドは「考古学」であるが、現在は主として「博物館学」の分野で、博物館の経営論を手がけ、全国各地の自治体などが運営する博物館の経営や教育活動について指導・助言を行なっている。

本日の講演は、2002年に法政大学の「国際日本学研究所」で文部科学省「21世紀COE(Center Of Excellence)プログラム」の「学術フロンティア部門」の助成を得て開始した「日本発信の国際日本学の構築」という研究プロジェクトの一環として、「古典文化と日本文化」という研究チームの「富士山をめぐる日本人の心性」という研究テーマの中で、自分が手がけた「富士山と先史時代」をベースにして話を進める。この研究チームでは、先史時代の文化的資料の他、平安朝文芸、能、富士講などのさまざまな視点から富士山にスポットを当て、富士山とこれらの歴史的・文化的事象との関わりについて研究成果を得た。

 

Ⅰ.考古学とは

「考古学」とは旧石器時代、縄文時代などの物的資料を使って、当時の様子を復元し、あるいは文化を解明する学問である。考古学の手法は、刑事事件で現場に残された物的証拠を手掛かりに犯人を解明して行く犯罪捜査の手法に近い。考古学での「物的証拠」には「遺物」と「遺構」がある。考古学では「遺物」と「遺構」を合わせて「遺跡」と総称する(例:『三内丸山遺跡』、『西の台遺跡』など)。考古学の目的は「遺跡」を通して、当時の人間の景観、どのような住み方をし、どのような文化を形成していたかを見極めることにある。

「遺物」とは縄文土器のように当時の人々が作り、使い、そして何らかの形で遺跡に残した物である。土器は採取した粘土を精製、成形、焼成したものである。縄文土器には日常生活で煮炊などに使う「甕形土器」、液体を容れる徳利状の「注口土器」がある。いずれも縄文時代後期(約4千年前)のものであるが、現代使われている器(うつわ)類の形の原型は縄文時代に遡ることができる。日常生活以外に使われた土器としては、口唇部に複数の孔を開けて紐を通し、開口部に皮を張って太鼓として使用したと思われる「太鼓形土器」などがある。胴体部に人の模様を描いた特殊なものである。その他、非日常的な用途に使用したものとしては、「土偶」と「土版」などがある。土偶は完成型で出土することは稀で、破損したものが多いが、これら土偶は祭祀の用具として使用され、意図的に破壊されたためと推定される。土版は用途が不明だが、精緻な文様が描かれ、上部に二つの孔が開けられていることから、吊り下げて同じく祭祀のために使用したと推定される。祭祀のような非日常的用途に用いたと思われる遺物は一般に丁寧に仕上げられ、出来のよいものが多い。

「遺構」とは人がそこに住み、あるいは何らかの作業をした痕跡のあるものをいう。ここに示した縄文時代の住居址は円形で中央に「石囲い炉」と呼ばれる炉跡があり、ここで火を焚き、深鉢型の土器で煮炊きをしたり、暖を取ったものと思われる。

   


Ⅱ.富士山と先史時代

1.今日の富士山の山容は約1万年前につくられる

富士山の山容全体が現在のような左右対称の一体のコニーデ型となったのは約1万年前である。初期は20万年~10万年前に形成された「小御岳火山」と称する小型のコニーデ型の火山が原型となり、その後2万年~7万年前に「古富士火山」、その上に、1万年前に「新富士火山」が形成され現在の山容を呈するようになった。


富士山の地下構造断面の概略(静岡大学防災センターより)

縄文時代早期、9000年前の「窪遺跡」は下記の表1の最初の11,0008,000年前の活動期に当たる。富士山南西方向にある「千居(せんご)遺跡」、「大鹿窪遺跡」も同時期に造られたものである。この時期の縄文人は富士山が噴火しているのを目にした可能性もある。45003000年前の活動期は、縄文時代後期に当たるが、この時期に遺跡が比較的に増えていて、縄文時代人はおしなべて、活動する富士山と共存していたことが分かる。

富士山の周辺には遺跡は決して多くはない。南西側には遺跡がいくつか見られるが、北、東側には殆ど見付からない。その理由は上記の期間中、富士山が噴火を繰り返し、地殻変動もある中で、遺跡が火砕流で破壊され、埋没したためと推定される。一方、遺跡の残っている地域はその被害が少なかったものと考えられる。それに比べて八ヶ岳南麓に多くある遺跡の保存状態はかなり良い。

表1 富士山の活動史

期間

活動状況

11,0008,000年前

山頂火口および側火口から極めて多量な溶岩が流出する

8,0004,500年前

山頂火口から小規模なテフラが間欠的に噴出する

4,5003,000年前

山頂火口および側火口群から大規模な溶岩と小規模なテフラが噴出する

3,0002,000年前

主として山頂火山から大規模なブリニー式噴火のテフラが頻繁に噴出し、少量の火砕流と溶岩がこれに伴う

2,000~243年前

側火山群から小規模~大規模なストローンボリ式~準ブリニー式噴火のテフラと溶岩が噴出する

243年前

山頂近傍の側火口から大規模なブリニー式噴火のテフラが噴出する

( 出典:宮地直道 1988{新富士火山の活動史}地質学雑誌94(6)

2.富士山周辺の遺跡とストーンサークル

 
 

富士山周辺にある最も古い遺跡として大鹿窪遺跡と千居遺跡がある。大鹿窪遺跡では正面から富士山が遠望できる。千居遺跡では環状に石が配置され、いわゆる「ストーンサークル」が形成されている。2列に置かれた石が真直ぐ富士山の方向に向かっている。

冬至の時期に富士山の山頂に太陽が沈む現象を観ることができる遺跡は富士山周辺には見当たらないが、八王子市や野田市などにはそうした遺跡が存在する。

富士山周辺を離れても、北杜市の八ヶ岳南麓にある「金生(きんせい)遺跡」のように、そこから富士山を肉眼で視ることができる遺跡がある。「金生」は「金精」が訛ったものと考えられる。そこからは遺物として、後世の、五穀豊穣を祈る「金精信仰」につながったと推定される男根を象った「石棒」が多く出土する。他の非日常的な遺物としては耳飾りや用途不明の土偶状の土器も出ている。

縄文の「記念物」は「配石」(ストーンサークル)「木柱」「盛土」(マウンド)の三つに分類される。

① 「配石」は永遠のものとして石を遺し、いわゆる「神の依代(よりしろ)」として石を祀る風習として現代にも続いている。

② 「木柱」は朽ちるので残り難いが、現代でも諏訪神社の「御柱祭」として神の依代として祀られ続けている。

③ 「盛土」は遺跡として確認し難いが、いくつかの盛土遺構の存在が確認されている。

3.全国各地のストーンサークル

 
  

ストーンサークルを持つ遺跡は最初は日常生活を送る空間としての住居址、ムラ(集落)の中に同居させる形で存在したと考えられる。その後、縄文時代後期・晩期には進化し、祭りの場としてのストーンサークルを日常生活の場・集落から独立した場所に設置するようになった。秋田県の「大湯遺跡」や北海道の「森町・鷲ノ木遺跡」がその例で、遺跡からは非日常的な道具が多く出る。またその遺跡の周囲には神奈備型(コニーデ)の山があり、その山頂に立冬や冬至の日に陽が沈む。

大湯遺跡は昔は墓地と考えられていた。しかしその後の研究では、環状列石として配置された正面の立石の線の延長方向を辿ると南西の方向にある「黒又山」という低山に夏至の日に太陽が沈むのが観られることがわかり、縄文人が列石の配置に何らかの意味を持たせて遺構を造ったと推定される。同様の環状列石の例として、鷲ノ木遺跡がある。この遺跡は縄文時代後期のもので、直径が30~40mの大型の環状列石が配石され、南東方向にある駒ケ岳に立冬の日に陽が沈むのが観られる。この遺跡からは他では見られない個性的な土器が出土している。烏賊の形をしていて、その形から「4千年前の“いかめし“」と呼んでいる。

<海外のストーンサークル>

海外の環状列石の例として英国のソールズベリー近郊の有名な「ストーンヘンジ」を紹介する。この遺跡は青銅器時代に造られたものであるが、以前はここも宗教施設とみなされていた。しかし、夏至の日に列石の正面の直線方向に陽が昇ることから、近年は夏至を意識した祭祀目的の施設として造られたとするのが定説となっている。

 

4.神津島で採れる黒曜石はどのようにして運搬したのか?

縄文時代に神津島で採れた黒曜石を本土に海上輸送をする際の目標としての富士山の位置づけについて述べる。黒曜石は溶岩が急速に冷却されて出来た黒色のガラス質の岩石である。縄文人はこれを石材として好んで利用していた。代表的な産出地としては長野県蓼科や和田峠があり、良質な黒曜石が多く採れた。その他、主に箱根・伊豆半島、神津島でも産出した。関東、東海、信州地方の遺跡で発見される黒曜石の石器はこれら三つの産出地からのものである。全国的には約50カ所の産出地があり、北海道では十勝岳、西日本では隠岐の島で良質のものが採れた。縄文時代に神津島から黒曜石を運ぶための海上航路をどのような手段で決めたのであろうか。伊豆半島の先端の河津町の海沿いにある「段間(だんま)遺跡」で多量の黒曜石の原石が発見されたが、なぜそこにそのように大量の黒曜石があったのか長年の疑問であった。神津島から本土を望むと富士山が、遠くではあるが、はっきりと視認できることから、縄文人は富士山を目標物と定めて、その見通し線上にある段間遺跡を目指して海を渡って行ったとすれば、その疑問が解ける。ここでも縄文人にとっての富士山の存在感が見てとれる。

5.まとめ

① 富士山は昨年世界文化遺産として登録され、注目を集めるようになったが、現在の山容は約1万年前に形づくられた。

② 縄文人は富士山を眺め、富士山を意識化した生活をし、その痕跡としてストーンサークルや非日常的な道具を遺した。関東、中部地方に存在する、それ以前の旧石器時代の遺跡には富士山を意識した痕跡は見られない。旧石器時代には生活形態はバンド(小グループ)で移動しながら狩猟採集生活をしていたが、縄文時代になると生活形態が定住的になり、生活が安定化して精神文化が形成される素地が生まれた。仲間との交流の場としての祭りが行なわれるようになり、富士山を空間的に認識し、対象化して共同祭祀を行なうようになったと考えられる。

③ 神津島の黒曜石の海上輸送に見られるように、富士山が今日の灯台のような目標物となっていたと思われる。

 

                         Q&A

Q1:冬至の日に富士山の山頂に太陽が沈む現象をその遺跡の場所では「暦」として利用していたということになるのか?

A1:富士山南西部の遺跡では確認されたものはないが、富士山から離れた多摩地域の遺跡では冬至に立石の正面方向に見える富士山の山頂に陽が沈むことが確認されている。

Q2:ソールズベリーの「ストーンヘンジ」、マチピチュやマヤ・アステカのインカの遺跡では,「夏至」の位置を確認するために石造物が設けられたと聞いているが、日本では「冬至」の位置を確認するためにわざわざ集落外に石柱を立てたということに学術的な意味はあるか?

A2:特定の日に、山頂からの太陽の出没を観る遺跡は東日本各地で確認されているが、冬至に限らず、夏至の場合もある。

Q3:今回例示された遺跡では殆どが冬至あるいは夏至の「日没」を観るようになっているが、「日の出」を観るのが少ない理由は?

A3:「日没」と「日の出」の割合は今のところ不明である。いずれにしても、このような「配石」と「山」と「太陽」の位置関係が認められる施設は、季節の移り変わりを測る手段として使われ、その季節の祭りや行事をする日の到来を知るために作られたとする説が有力である。

Q4:集落外の石造の施設は年代判定が難しいのでは?

A4:出土する土器の「伴出関係」で判定する。土器、土版に描かれた文様にはそれぞれの時期の特徴がある。

Q5:先生の専門の「博物館」の面白い見方は?

A5:日本は博物館が全国で大小合わせて約6千館もある博物館大国“であるが、その存在は一般にあまり知られていない。上野の国立博物館は文化庁が所管しているが、戦前は「帝室博物館」として宮内庁が管理し、皇室の財産を国民に見せてやるという姿勢であった。その経緯もあって展示物は少なく、文化庁移管後もあまり開かれた存在ではなかった。しかし10年ほど前から独立行政法人になり独立採算を目指すことが求められるようになって、日本各地から文化財を集めて展示する企画展・特別展の回数を大幅に増やし、入館者増を図るようになった。またミュージアム・ショップも充実し、購買意欲を誘う商品も増えた。海外の博物館ではショップの商品は単なる「土産品」ではなく、博物館の展示物そのものを買って持ち帰り、自宅で楽しむという動機づけがなされているが、国立博物館もその方向を目指している。

Q6:博物館の展示物の購入・収集はどのように企画するか、外部からの要望・働きかけは?

A6:自治体の運営する博物館では予算が限られており、高額なコレクションの購入は困難。年間予算で1千万円以上のコレクション購入が可能なのは国立系の博物館に限られる。購入に当たってはそれぞれの専門分野の職員から購入の提案・推薦がされ、館内で調整の上決定する。購入品の価格は複数の第三者専門家(古美術商)と学識経験者が査定する。更に真贋鑑定を別の委員会で審議した上で最終決定する。外部からの要望に従って購入する制度は殆どない。外部からインターネットなどを通じて企画展の要望を出すことは可能であり、博物館側もそれに対応している。学芸員が“古文書を読む会“などのイベントを主催し、地域との文化交流を図っている。

Q7:英国では公的な文化施設は無料で種々の目的ための利用に供している。日本はどうか?今後の振興策は?

A7:日本も「博物館法」で公立博物館は対価を徴収してはならないことになっているが、“但し書き”で、止むを得ない場合の徴収を認めている。自治体が博物館の建設費・運営費を賄うために有料としているケースが多い。今後の振興策は、それぞれの地域住民が地域の文化レベルの向上のために、役人任せにしないで、自らNPOなどを通じて積極的に活動に参加することが望ましい。

                                              

(記録:井上邦信