第 4 1 1 回 講 演 録


日時: 2013年10月22日(火) 13:00~15:08

演題: シルクロードに夢を辿って ~西安からローマまで「心で繋いだ古の道」~

講師: 「地球と話す会」会員 高澤 明敞 氏

はじめに

当倶楽部の会員である今井雅也氏とは都立戸山高校の同期である。国学院大学久我山高等学校で数学の教師をしていたが、定年前に退職しようとしていた時に、新聞で「地球と話す会」が2001年に企画した「一般人による西域南道探検隊」を知った。ハードな旅で少し迷ったが説明会に足を運び遠征参加を決断した。この旅は生涯で忘れられない旅になった。本講演ではこの旅を中心に、足掛け12年間に亘るシルクロードの旅について話す。サブタイトルに「心で繋いだ古の道」とあるように、自分の心に刻まれたことを話すのであって、グーグルで検索できるような話題は原則として控えたい。

1.「地球と話す会」について

「地球と話す会」は1992年に第一次西域南道探検隊の遠征実施後に結成された。駱駝の旅は駱駝の調達や調教などの準備期間が長く掛かるので、翌1993年には西安からローマまで15,000㎞を20年計画で自転車によって繋ごうという「ツール・ド・シルクロード」を立ち上げた。駱駝を使った第二次西域南道探検隊は第一次から10年を要し、2001年に遠征を実施した。その後は駱駝を使うのが大変なので、歩いて繋ぐ「あるく・ド・シルクロード」を2003年に立ち上げた。昨年20年を繋ぎ切った自転車隊のローマのゴールに合わせて、後続の「あるく・ド・シルクロード」と「ライフ・ド・シルクロード」もローマで合流した。

今年7月にゴール達成の祝賀会を行い、初期の目的が達成されたことから会は解散された。

2.「第二次西域南道探検隊」の旅(DVDビデオ映像)

DVDにはナレーションがないので、映像に沿って説明する。(映像の最初にテロップ『2001年秋 法顕や玄奘三蔵・マルコポーロが難行した古代絲綢之路、西域南道のチャリクリクからホータン間の950㎞を文明社会で生活する普通の人が駱駝と自らの足で挑む。アジアの中心部、タクラマカン沙漠で文明社会から遥かに途絶し、大地と動物と自らを調和させて現代文明と自分を振り返る。1992年に続き第二次西域南道探検隊を組織し、新しい社会秩序の変革期という大きなうねりの中で、自らの生き方を問う。』が流れた)

私が参加した第二次西域南道探検隊は、ニューヨークで同時多発テロが発生した2001年9月11日に成田を出発した。ニュースは北京で知った。時間が少しずれていたら成田を発てなかったかも知れない。

国際親善は中国との関係において大切である。新疆ウイグル自治区のチャリクリクには漢民族とウイグル族の小学校があるが、9月14日にウイグル族のチャリクリク第二小学校を訪問した。日本から持ち寄った子供たちの絵を贈り、ウイグル族の子供たちの絵を預かって日本に持ち帰った。

半日掛けて駱駝に乗る練習をし、9月16日にチャリクリクを出発した。ニヤまでの450㎞の駱駝の旅が始まった。沙漠は「月の沙漠」でイメージする美しい砂丘のある沙漠ではなく、岩が砕けた礫(ゴビ)沙漠であった。バスが沙漠に迷い込んで砂に車輪が捕られ、引っ張り出すのが大変であった。

テントや水・食料を運んでもらうために中国隊を雇いサポートを頼んだ。遠征隊員の大きな荷物は伴走のバスで運んで貰い、体調の悪い人はバスで移動できるようにした。駱駝・歩行日程の10日間の内1日は休養日に当て、綱引きなどをして中国隊と交流した。10月1日は中国の国慶節で、満月の下でキャンプファイアーを囲んで祝宴が催された。踊りあり、歌ありで祝宴は夜遅くまで続いた。

食用として4頭の羊を連れていったが、我々のために死んでくれることを体験するため、捌くところを見学した。羊は最後に大暴れするかと思ったが、意外にあっさり観念してしまう。

電気は発電機を使うが、夜9時から朝6時までは使わず真っ暗になる。この間に用を足すこともあるが、テントの位置が分からなくなり迷わぬように気を付けないと危ない。

中国のサポート隊は遠征隊に先行して、3040㎞ぐらい先にキャンプサイトを見つけ、テントを組み立ててくれている。朝の出発のときには一緒にテントを撤収した。遠征隊員は歩行または駱駝で移動する。10年前の第一次西域南道探検隊のときには1人に1頭の駱駝であったが、無駄が多かったという反省を踏まえて、第二次西域南道探検隊では2人に1頭の駱駝であった。四つの小隊に分かれて移動したが、二つの小隊が駱駝に乗り、残り二つの小隊は歩くというローテションで日々交代した。

朝は5℃、昼は40℃の温度差の激しい沙漠である。昼は猛暑だが日蔭は涼しい。「沙漠の英雄」と呼ばれ「三千年のサイクルを持つ」という胡楊の木が紅葉していた。紫色のタマリクスも目を和ませてくれる。

たまたま水の流れがあると、砂を洗い落したたり、洗濯したりした。休憩時間中に洗濯物は乾いてしまう。また、西瓜を水で冷やして食べた。大きなスイカが1個200円位で、非常に美味しかった。

道中1日1便のバスを待つ人あり、ウイグル族の墓もあった。

ゴールのニヤはホータンからバスで2日位手前にある。10月3日に到着した。駱駝に乗ってゴールする感激を味わいたかったが、先回りして駱駝隊がゴールするのを撮影した。(ここまでが映像のナレーション)

駱駝について

駱駝は臆病で淋しがり屋である。急に飛び上がったり、跳ねたりするので、乗り降りは迅速にしなければならない。駱駝の中には性格の良いのも、悪いのも、不貞腐れたのもいる。性格の良い駱駝は乗り易いが、専用という訳にはいかない。駱駝は農耕用や食肉用が主で乗用の駱駝はない。レンタルではなく、遠征の何年も前に1頭5万円位(当時の中国人の年収相当)で買い付けて調教して貰った。

急に飛び跳ねた駱駝に振り落とされて、福岡にチャーター機で送り返された人がいたが、そんな事故もあるかと見越して準備していた保険のお陰で1,500万円ぐらい掛かった費用はカバーできた。

果てしない地の果てに向かって大声を出しても、遮るものがない沙漠ではコダマは帰ってこない。とてつもない解放感を与えてくれた駱駝の背中は忘れられない。

沙漠の生活

国道から少し沙漠に入ると、バスやトラックの車輪が砂に埋まって動けなくなる。互いに引っ張り合うが、力不足で引き出せなくなったときにはオアシスの町に連絡してトラクターを呼んだ。来るまでに半日待った。

沙漠は絶えず砂が舞っている。一点の雲もない空が霞んで太陽の輪郭がぼんやり。砂曇と呼んだ。一番困るのは、カメラ対策である。カメラはビニールテープで目張りし、シャワーキャップを被せておくのが有効である。当時はデジタルカメラでないので、フィルム交換は雨具を被って行ったが、フィルムには随分傷が付いていた。竜巻のような夕立が来て、沙漠に虹が掛かるのを12年間で一度だけ見た。

沙漠の生活で行く前から一番心配していたのが、トイレである。腰が悪く、和式では辛い。トイレはゆっくり本を読んだりしたいので、出発前に釣用の椅子の真ん中をくり抜いて特製の座式トイレを作り、ショベルで掘った穴にセットにする。沙漠では、土に還るものは捨ててもいいが、土に還らないプラスティックや缶は持ち帰る。お腹の調子の悪いときに備えて、椅子と携帯ショベルはセットにして袋に入れて枕元に置いた。男女半々ぐらいだったので、キャンプサイトに着いたら男女に分けてトイレの場所を砂丘の陰に決めるが、夜暗くなると場所が分からなくなる。また、適当な場所がない所もある。沙漠での私のトイレは、まさに哲学の時間である。月や星を見て紹興酒を飲みながら、「意識が存在を決定するのか、存在が意識を決定するのか」などを考える(笑)時間であった。月の無い夜の沙漠の星空は素晴らしい。

昼食は饅頭(マントウ)、ジュース、リンゴ、ソーセージ、きゅうりで、毎日何年間も同じであった。

沙漠の生活で良かったことは、何もしないでボケっとした時間が作れたことである。家にいると時間があれば何かやることを見つけてしまうが、沙漠では全くやることがない。本格的な暑さが来る前の午後1時か2時にはキャンプサイトに着き、夕食を挟んで延々と時間が続く。緯度が高く(西域南道でも日本の東北地方ぐらい)、9月でも日の入りが遅く8時か9時まで明るい。私の大好きな時間であった。

沙漠の旅が教えてくれたこと

単に認識で捉えていただけのことを体感させてくれた。例えば、バスの車輪が砂に埋まったときは、トラクターが来るまで半日待った。日本にいれば電話で呼ぶとか、ヘリコプターを呼ぶことを考えるが、そんなことはできないので、オアシスの町まで行って呼んで来るしかない。「どうしようもないことは、どうしようもない」と体感した。気短であったが、その後は信号待ちや道路渋滞でもイライラしなくなった。

駱駝に乗らないときは歩くが、体調が悪ければ伴走しているバスに乗せて貰える。なるべくなら歩きたい。バスは先行して5㎞程毎に待っているが、そこでしか乗れない。見送ったら歩くしかない。2025㎞は問題ないものの、30㎞を超えると辛い。50分歩いて5分間休憩で、午前中は4ピッチ、昼食後の午後は2ピッチである。キャンプサイトは40㎞先のこともあり何処にあるかも分からない。足が重くなり電信柱の間隔が段々長く感じてくる。「辛くても方向を間違えずに一歩一歩足を運べば、いつかは着く」と自分に言い聞かせるようになった。教師のときには、生徒にそう言っていたが体感していなかった。

その他では、聞いていた通り水が貴重であることも、沙漠の生活の厳しさもしみじみ分かった。

「人は生まれ落ちるところによって運命が決まるものである」としみじみ実感しながら歩いていた。

3.地図上でのシルクロード

19世紀にドイツの地理学者のリヒトホーフェンがシルクロードと名付けたことが定説になっているが、リヒトホーフェンやそのあとに出てくるヘディンがシルクロードとして認識したのは今のタクラマカン沙漠、昔の東トルキスタン辺りと考えられる。したがって我々はタクラマカン沙漠の周辺を歩いた。中国には西域南道、天山北路、天山南路の三つの動脈があり、さらに葉脈のような道があり、今ではシルクロードは普通名詞としての「交易の道」と理解した方が良い。いろいろな名前のシルクロードが存在する。

第一次西域南道探検隊は敦煌からチャリクリクまで。第二次隊はチャリクリクからホータンまでであったが、準備に時間も掛かり、この先駱駝で移動できる所はないだろうとのことで、歩いて繋ぐ「あるく・ド・シルクロード」を立ち上げた。2003年の第一回目は第二次隊の終点のホータンからカシュガルまでであったが、参加できなかった。2005年には一旦戻って、西安から敦煌を通る河西回廊を歩いた。2006年は天山北路で魔鬼城のある素晴らしいところであったが、参加できなかった。2007年は天山南路で、孫悟空伝説で有名な火焔山があり、三蔵法師が歩いたといわれるコースである。最初に北に上りバインブルク草原に行ったが、素晴らしいところであった。ここへ行くときには川が増水し、トヨタのランドクルーザー4台が大活躍した。この後はパキスタンへ抜ける予定であったがパキスタン情勢が非常に悪く、中国=パキスタン国境のフンジャラプ峠(標高4,900m)で引き返した。2008年からは中央アジアの旅が始まることになる。

4.中央アジアのシルクロード

中央アジアの旅はキルギス、カザフスタン、ウズベキスタンの三国が中心である。キルギスのアルマトイに入り、旧ソ連の保養地であったイシククル湖を通って中央アジアの旅が始まった。これまでは、ウイグル自治区はウイグル語で北京語は通じない中国の中でも「外国」であったが、同じ中国なので国境はなかった。ところが旧ソ連の三国は独立したため、それぞれの間には国境が存在し検問がある。ソ連邦崩壊後それぞれの国が自己主張しているのだ。

「国家とは何か」を考えさせられ、「国家から我々が享受しているものは何か」を考えたりする。国家とは、国土があって国民があることが最低限の条件である。国家にとって国民は大事なもので、簡単には出したがらないし、簡単には入れたがらない。

トラベルにはトラブルは付きものであるといわれる。随分いろいろなことがあった。2008年にカザフスタンからウズベキスタンに入るとき、X線検査機が故障したので荷物を出して全部チェックすると言われ(多分ウソ)、非常に時間が掛かることになった。用意していた煙草をやったら少し速くなるが、また直ぐ遅くなる。結局2時間は優に掛かった。出てきた荷物の中で面白いものがあると「これ、くれ」と取り上げられたり、堂々と賄賂の要求もあったりもした。

2009年にはカザフスタンからロシアへの出国手続に時間が掛かり、最終バスを逃してしまった。国境には国と国の間に緩衝地帯があり、短いところは2㎞ぐらいであるが、ここは12㎞の峠道であった。現地ガイドはタクシーを呼ぶといったが、こんなところにタクシーが来る訳がない。寒いので夜明かしするのはまず無理。隊長は業を煮やして大きな重い荷物を持って歩き出した。ところが後ろから声が掛かり、車があるから乗れとのこと。1人5米ドルぐらいであったが、交渉していたタクシー代とほぼ同じなので、何か裏があるのではないかと思った。

2009年ウズベキスタンからカザフスタンに入るときに列車が遅れて、日付が変わったためビザの期限が切れてしまった。結局は金で片が付いたが、賄賂だったのではないか。

この年だと思うが、寝台列車の座席で酒を飲んでいたら、酒は食堂車で飲むのが規則だと言われ、罰金を取られた。これも賄賂と思われる。

2010年にロシアのヴォルゴグラードから乗った列車は1週間に1本しかない。宿から駅まで徒歩20分ぐらいなので歩いて行ったが、どのホームから列車が出るか現地ガイドも分からない。うろうろしている間に列車が来て、一人の女性隊員が大きな荷物を持っていたため乗り遅れてしまった。これは我々の時間読みの対応があまりにも甘かった。その女性隊員はタクシーで追い掛けて、2時間後に列車に追いついた。

2011年にハンガリーからクロアチアのザグレブに行く列車が、夜突然止まった。バスで乗り継ぐとのことであったが、言葉も通じず、文字も読めず、行き先も分からず。隊員はほかの乗客とともに2台のバスに分乗させられ、不安で心細かった。結果的には無事ザグレブに着いた。ザグレブの手前で不通の区間があったことによるものであるということだったが、真相は未だに分からない。

「不測の事態に備える」という妙な言葉があるが、「不測」の事態には備えられない。「想定外のことが起こることを想定しておく必要」があると思った。日本には「可愛い子には旅をさせよ」という諺があるが、今は死語になっている。今の旅はツアーで、上げ膳据え膳である。旅は非日常の中で何かを掴み取り、やっぱり日常はいいものだと思ったりするものである。12年間の旅は非日常の中で想定外のことが起こるのが当たり前であることを体験し、何が起こっても最低限命を守り、その先のことは考えて対処するよう覚悟することを覚えさせてくれた。トラベルはトラブルである。

後半の旅では、幾つかの大河を越えた。中央アジアからロシアに入るとウラル河があり、アジアとヨーロッパを分けている。河の両側を見ると、ヨーロッパ側は瀟洒な感じがし、アジア側は素朴な感じがする。何と橋を渡ったところに「EUROPE」の標識が立っている。ウクライナの首都キエフをど真ん中で二つに分けるのはドニエプル河である。余り有名ではないが、悠大な河である。「ロシアの母なるヴォルガ河」に辿りついたときは感慨深く、河の畔で「ヴォルガの舟歌」を歌って歩いた。ブダペストではドナウ河。ブダ地区とペスト地区を優雅に分けている。大きな河に立ってみると何となく胸騒ぎを感じる。

中央アジアの旅でショックだったのはアラル海である。アラル海は二つの川が流れ込んでいる大きな塩湖である。1940年代のスターリン時代からフルシチョフ時代にかけて実施された「自然改造計画」によって綿花栽培が盛んになり、過度な灌漑によって塩湖は段々干上がってしまった。このことは知っていたが、実際に目で見ると人間の文明の罪深さを感じさせられた。

中央アジアで印象深かったのはウズベキスタンのサマルカンドで、東西文明の十字路といわれるレギスタン広場やシャーヒ・ズインダ廟の「天国への階段」などがある。カザフスタンのアルマトイには、日本に帰国できなかった日本人の抑留者たちの広大な墓地がある。心に沁みる感じがした。ウズベキスタンのタシケントのナヴォイには、そうした日本人の抑留者が建てたオペラ・バレー劇場がある。日本人の抑留者の技術は高く、何年か前の大地震でもびくともしなかった。非常に感慨深く誇らしかった。

5.中央アジアからヨーロッパへ

シルクロードは中国を越えると南のイランの方に下がるのがメインルートである。自転車隊がこのルートを通っているので、同じルートを避けて草原のシルクロードといわれるルートを採った。13世紀にチンギス汗から孫のバトゥ汗まで西方侵略を企てる。モスクワを占領したのち、今のウクライナのキエフからリビフを通って西に攻めて行く。事前に予習してモンゴル軍が残した爪痕を辿りながら歩いた。

やがてモンゴル軍はハンガリーに入るが、モンゴル軍とハンガリー軍が戦った大草原をさまよった。また、ハンガリー国王がモンゴル軍の再来襲に備えて造り直したといわれるシグリゲット城は、ガイドブックにも載っていないが、ガイドの協力を得て城址を探し当てた。

旧ユーゴスラビアの一つであるクロアチアに入るが、クロアチアは落ち着いた魅力的なところであった。スロベニアでは「アルプスの瞳」といわれるブレッド湖が印象深かった。旧ユーゴスラビアのチトー大統領は独裁者だと思っていたが、今でも国民から慕われている。国民から贈られた別荘を訪れたが、彼は私的に使用したことは一度もなく、今はリーズナブルな値段で利用できるホテルになっている。

クロアチアのイストラ半島はイタリア半島の対岸にあり、そこでアドリア海に臨んだ。ノスタルジックな、何かを感じさせる海であった。イストラ半島からアドリア海を北上するとイタリアに入る。イタリアのトリエステはヴェネチアの少し手前にあるが、モンゴル軍西征の終焉の地である。ここで草原のシルクロードを辿る旅は終わることになったが、そこからヴェネチアまで行って2011年の旅は終わった。

6.そしてローマへ

この旅は最後にローマに到着することになるが、ルートが問題になった。ヴェネチアからイタリア半島を南下してトスカーナ地方を横切ってローマに入るのは簡単であるが、魅力的なアッピア街道を通って入りたいということになった。アッピア街道は古代ローマに繁栄をもたらした街道で、現在は大部分が埋まっており、ローマの南に一部が残されている。アッピア街道を通るためには、ローマを通りすぎてから戻ることになるので、前年のイストラ半島北上の分岐点を南下して、南端のドブロクニクからフェリーでイタリア半島南部のバーリに渡り、アッピア街道を20㎞ぐらい歩いてローマに入ることになった。

定かではないが、モンゴル軍がトリエステからイストラ半島を下って戻って行ったといわれている道を辿ってドブロクニクへ。ドブロクニクは、バーナード・ショーが「この世で天国を求める者はドブロクニクに行かれよ」という言葉を残している世界遺産である。フェリーで渡ってからイタリア半島中東部のアルベロベッロを訪れた。お伽話に出てくるようなトゥルッリといわれる「とんがり屋根」の家がある。

2012年8月7日にローマに到着した。今まで別々の日程で行動してきた三つのグループは、20年目のゴールの日程を合わせることになった。旧会員や出迎えの家族を含めて100名ぐらいが、バチカン市国のサン・ピトロ広場に集まった。20㎞ぐらい歩いたあとで、非常に暑く、目が回るほどで、漸く念願の集合写真が撮れた。余談であるが、帰国してからバチカン市国の国旗が逆さまになっていることに気付いた。一瞬真っ青になったがコンピュータグラフィックをやっている妹に頼んで、正常になるように直して貰った写真である。

猛烈な暑さのため、バチカンではなく離宮でローマ教皇ベネディクト16世に謁見し、東大寺の北河原別当からの親書「世界平和へのメッセージ」を会長から手渡した。これは一つのエピソードである。

7.身近に接したイスラム教

歩いたほとんどがイスラム圏で、新疆ウイグル自治区は全てイスラム圏。その後も中央アジアからロシアに入るまではイスラム圏であった。やがてロシア正教、キリスト教の世界へと移っていくが、少しずつ周りの雰囲気が垢抜けてくる。私はキリスト教を通じて西欧文明を刷り込まれたと思っている。

イスラム教徒の農民たちは、素朴な信者である。五つの戒律・・・アラーは唯一神にしてムハンマドは唯一の預言者であると唱えること、1日5回の礼拝をすること、断食をすること、施しをすること、できれば一生に一度メッカに巡礼に行くこと・・・を守り、日に5回の礼拝の準備に道端で手足・頭を洗って身を清める。そこにはテロとかジハードとかの雰囲気はない。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は旧約聖書を母体とするダンゴ三兄弟である。お互いに血を流し合い、血が血を嫌っているのは、政争の道具にしようとしている指導者がいるからではないかと考えざるをえない。農民レベルの素朴なイスラム教信者に接していると、イスラムの世界から反対側の世界を見られるようになったことは、12年間の旅で得られた貴重な財産だと思う。

イスラム教は決して奇妙な武力闘争的な宗教ではないと感じた。

8.中国を思う

中国のシルクロードが最もシルクロードらしく、もう一度行くなら中国のシルクロードを辿ってみたいという気がする。しかし仲良く面倒をみてくれた中国のガイドも、今の状況の中では、あの規模のグループは連れて歩けないと言っている。中国は巨大な国で、昔から漢民族と異民族の抗争の歴史がある。一つの政権が支配するには大き過ぎる国であると感じる。今でも世界の物流の拠点の一つは中国であり、現代のシルクロードの要衝だと思うが、大きな矛盾を抱えている。1918年にロシアで社会主義革命が起き、社会主義国家ができ、次々に潰れてきた。その中で中国は矛盾を抱えて生き残っている。こともあろうに共産党政権が資本主義経済を牛耳っている。マルクス主義ではあってはならない所得格差が増大し、公害や50以上もの少数民族の反発に悩んでいる。特権階級の腐敗は既得利権を握っている上層部では、簡単に修正し得ないのが現状である。

反日感情はガス抜きのために政府が仕込んでいるものと思う。共に旅した中国隊では、1か月近く行動を共にして嬉しいときには抱き合い、酒を飲み交わした。そこには反日感情とか反発は全く感じなかった。1世紀近い社会主義の歴史的実験の果てに、今後中国がどうなって行くのか見届けたい。

Q&A

何故シルクロードに拘るのかとよく聞かれるが、特別な理由はない。マルコポーロや玄奘三蔵が歩いた道と同じか分からないが、自分の足で追体験できるのが魅力であった。ヨーロッパの城に行っても、王侯貴族の生活は追体験できない。我々はシルクロード病患者であるといっている。

Q1.中央アジアからヨーロッパへはイランを通ってアラビア半島から船便にするのが、物資の輸送として普通のシルクロードだったのか?また、イタリアのトリエステは交易に使われていたか?

A1.機能的なシルクロードは大航海時代が始まるまでである。大航海時代にはアラビア半島で荷揚げしていたと思う。それまでにできた国と国を結ぶ道は全て交易に使われていたものと思う。

Q2.シルクロードで西から東にキリスト教が入ってから、イスラム教が浸透して行ったのか?

A2.キリスト教を背負うマリアテレージアのハプスブルグ家と戦ったオスマントルコが、イスラム教を掲げてキリスト教と戦って、イスラム教の勢力を広めて行ったと考えている。

Q3.質問ではないが、1983年から1987年に送電線プロジェクトでイランに滞在していた。ホメイニ師のイスラム原理主義革命のときには、石油利権や西欧化を排して昔のイスラム教の原点に返って、羊と暮らして神様にお祈りをすることをイラン国民が願っていたと考えていた。先生がイスラム教の素朴さを感じたことに共感を覚えた。懐かしい話を聞くことができて、ありがとうございました。

A3.イランは行っていない。自転車隊がイランに行き、イランは戒律の厳しいところと聞いていた。

Q4.イランの送電線工事で沙漠にいたときに、自分の故郷に帰ったような気持ちがして、先祖は遊牧民族ではなかったかと考えていたが、一緒に行った人の中にそのように感じた人がいたか?

A4.37人が歩きながら民族意識を感じたことはなかったと思う。仲間から聞いてはいないが、あれ程いろいろなものを見たので、心密かにそのようなことを思っていた人がいても不思議ではない。

Q5.掛かった費用はどの程度で、その内訳は?

A5.内訳は細かく覚えていないが、自分が負担したのは、最初の年が80万円ちょっとである。駱駝の購入・調教、中国隊の賃金、食糧が含まれている。駱駝の旅が終わってからは、1回5560万円であった。最初の駱駝の旅は、期間が長かったのと荷物が多かったために費用が掛かった。賄賂代は入れていないが、その程度は余裕を持って行った。隊費は別途5万円ぐらい集めて、その中から臨時の費用を払うことにしていた。12年間で結構使った。

(記録:池田)