第 4 0 1 回 講 演 録

日時: 2012年10月17日(木)13:00~15:15

演題: 椅子づくりで健康づくり ~人にやさしい究極の椅子を求めて~
講師: 早稲田大学 名誉教授、エルゴシーティング株式会社 CEO 野呂 影勇 氏

はじめに

藤木理事長とは大学の同期で、前回は大学教育(2006年5月17日『大学理工学教育の方向と人間科学部研究活動の事例紹介』)について話したが、今回は自分のやっていること、特に電気を出た人間が何故そのようなことをやっているのかについて話して欲しいとのことであった。

1.人間工学とは

第二次大戦後に出てきた、人とものの関係を研究・開発する学問体系である。人間工学を標榜する学会は世界中にあるが、日本には日本人間工学会があり、初代会長は電気生理学の本川弘一先生である。

自動車や航空機は人間工学の塊である。オスプレイは安全で、事故は人為的ミスによるものとしているが、矛盾しており、人為的ミスによって事故が起こるものは安全でない。沖縄知事等が言っている方が正しい。しかし、あの飛行機は機構的に画期的で面白い。この様な形で公表されたことは、残念である。

人間工学(エルゴノミクス)は、医学、心理学、物理学、工学の知識を各分野の学者が持ち寄って作られた。病院を例にあげると、「ひと」である看護師・医師と患者、「もの」である用具・医療機器、院内環境がうまく機能しなければ医療の効果があげられない。「ひと」と「もの」の全体のことを考えるのが人間工学である。例えば看護師・医師と患者は目標が同じでも、利害関係は異にしている。ベッドの高さでは、患者はトイレに行くにはベッドから追い易い低めが良いが、その高さでは看護師・医師は低すぎて絶えず腰を曲げて作業しなければならなくなるので、それを調整するのが人間工学である。至る所にこのような問題が存在する。

2.『アインシュタインの眼 究極の椅子(いす)を探す』の動画

昨年1126日にNHK総合テレビで放映された番組の一部が紹介された。

人間に密着しているものは、肌着、服、次に椅子であるので、人間と椅子の関係はひとにとり非常に重要である。演者が一部開発に関わった椅子は多くの調整機能があり、背筋を正しくする仙骨サポートなどが付いている。立っていると疲れるので座ると快適であるが、座っていることも意外に負担が大きい。サポート機能が沢山あるのは、快適と負担の間の釣り合いを調節するためである。

CGアニメーション作家の松林あつしさんの場合は、忙しいときには一日10時間も椅子に座ったままの作業をしている。20年ほど前から激しい腰痛に悩んでいる。背もたれの大きい椅子を使い、大画面のモニタが見易いように背中を反らせて作業している。大学で開発したジャイロスコープを用いた装置で骨盤の傾きを計測すると、骨盤がかなり後ろに傾いていることが分かった。後ろに傾いた背もたれと背中の形状が合わず、のけぞったような姿勢になり、骨盤が寝た状態であった。そのため、背骨が引っ張られて腰に負担が掛かっていた。最近の調査では労働者の25%が一日6時間以上パソコンを使って作業をしているので、このような例は少なくない。

工場で事務員をしている女性は、3ヶ月前から腰痛と足の痛みに悩まされている。小柄な女性にとってはやや高めの机を使用しているため、机に合わせて高く調整した椅子に浅く腰掛けている。座っているときに掛かっている力を調べるため、センサを内蔵した圧力シートを椅子にセットして座ってもらうと、体重をお尻の一部だけで支えていることが分かった。座面が高いため、いろいろな筋肉に負担が掛かっており、一見姿勢が良いように見えるが長続きしない。職場の机や椅子が大きくて、女性の半数ぐらいは体に合わないものを使用している。

3.子供の椅子選び

祖父母が孫に机や椅子を買って上げることは良くあるが、実際は幼稚園児または小学生のときにはそれらを使わずに、親が目の届く食卓や居間で勉強させることが大変多い。小学館のプロジェクトで三鷹市の家を訪問した場合は、食卓で勉強していた。その姿勢はひどいものであった。

どちらが良い姿勢かが分かるが、背骨はS字状でなければならない。そのため、背当てを取り付け、座面の軟らかいクッションを硬いものに換え、ぶらぶらしていた足を固定させるための台を設けた。立ち上がるのに補助が必要なお年寄りも、足元をしっかりさせるとかなり違ってくる。人とものの関係、環境との関係を調節して最適の状況にすることは、オスプレイのパイロットの場合も子供の場合も同じである。

4.自分史

自分にインプットされているものとして環境、教育、体験があり、アウトプットとしては人材育成と物作りとした。一般に学者や先生のアウトプットは業績で、論文や特許などであるが、70歳を過ぎて振り返って、人材育成と物作りに視点を向けた。

学問は1959年に学士の勉強を終えたが、その後も勉強を続けている。今年11月にはプロジェクト遂行のための特訓セミナーを年齢不問で受ける。企業との関係では、大学を卒業して横浜ゴムに勤め、1965年に退職して最近会社を設立したが、その間も企業との関係を保ってきた。長年に亘って、トヨタ、三菱自動車、ソニーや外国の会社などのサポートを得ることができた。研究・教育では、横浜ゴム退職後に慶応大学、その後8年間九州の産業医科大学、その後早稲田大学に移った。早稲田大学を終わったあとも教育は続けており、今年の12月にはミュンヘンの大学で1週間講義する予定である。来年も別のところの予定が入っている。早稲田大学での授業はなくなったが、文学部で研究プロジェクトの研究員をしている。

人材育成については後述するが、未だに続いている。2000年頃から物造りを始めており、開発したものを持ってきたので、あとで体験して欲しい。5~6年間ダイムラー社の仕事をし、ベンツ2010年のEクラスで車の情報を表示する装置を開発した。また、JALクラスJのシートの開発を行った。

5.人材育成

卒業生が就職しているところは沢山あるので、ここでは博士課程の卒業生と一人だけは医学部で長く教えていた卒業生をリストアップした。慶応大学での学位論文と産業医科大学での研究の展開では、早稲田大学創造理工学部の教授と神奈川工業大学の准教授がいる。産業医科大学での研究の展開では、東邦大学医学部の教授と聖マリアンヌ医科大学の教授がいる。早稲田大学での研究の展開では、日本大学生産工学部の専任講師と東京福祉大学の専任講師と東北大学医学研究科の准教授がいる。人間工学は私立大学が多く、東京大学にはなく、東北大学にポストができたのはビッグニュースである。東北大学の准教授と共同で開発した椅子を二種類持ってきたので、あとで見て欲しい。

大学の研究者は企業に勤めるのと違い、収入が保証されていない。講師の報酬は微々たるもので、日雇いと同じように講義した時間分しかくれない。さらに、その先どうなるか分からない。収入の道を投げ打ってやっているが、その結果うまく行った人と行かない人がいる。うまく行かない人は大変と思うが、名を残した人も沢山いる。したがって、人材の育成は学者にとっての喜びである。人材が次の世代、次の世代と育って行くことは、学者冥利に尽きる。

まとめとして、後継者には、日本だけでなく、もっと海外で活躍して欲しいと言いたい。早稲田大学や東北大学に入ったから良い、教授になったから良いと言っているようでは、本人の将来はあっても、日本の将来はない。言うことは分かってもらっても、なかなか行動に移してくれないので、気を揉んでいる。

6.物作り

-1.会社設立から店舗経営まで

発端は2000年の早稲田大学からの要請であった。文部科学省から、大学がベンチャービジネスの設立を支援して、大学の研究を社会、企業、大学の利益に貢献させることを米国がやっているので、日本でもやるようにとのことがあった。文部科学大臣が日本に千のベンチャー企業を作ると宣言し、当時の早稲田大学総長が百を引き受けると言った。商学部系の先生方に話が行き、何をやるかと言ったとときに、真っ先に私に声が掛かった。理工学部を中心にいろいろな世界に冠たる技術、日本有数の技術があるが、何でもベンチャー企業がやれる訳でない。例えば、車のエンジンの開発は自動車メーカが行っており、ベンチャー企業ではやれない。椅子は1億人が毎日使っており、大変な需要があるとの考えであった。資金援助も得て、2001年に会社を設立した。

最初の受注はダイムラー社からで、次にJALと、二つが直ぐに決まり、運が良かった。会社設立後11年を経過し、利益も出ており、まあまあで歳も取っているので適当にやれればよいと考えている。商学部のビジネススクールの人達が考えたのは、第一フェーズは設立後5~6年間の受注研究で、第二フェーズは次の5年間の自主開発で、今日展示しているものが自主開発によるものである。現在は第三フェーズの店舗経営で、ドクターズという名前の店舗を設立中である。工学、医学、人間工学の博士達が作る健康グッズを販売する会社である。自分がやろうと考えたのではなく、ある新聞社から持ち込まれた話に乗ってしまった。

75歳になった自分に、このようなことをやれと言われるのは嬉しいが、年寄りに頑張れと言うことは如何なものかと思う。現在65歳未満の日本の人口は8,5008,600万人であるが、90年先には2,000万人台になる。90年前は明治時代の半ばで、90年先は我々には無関係だが関係もしており、そんなに先のことではないのに、65歳未満の人口減少の世の中への対応を誰も考えない、考えたくないと言うことだと思う。しかし、今年より来年、再来年、10年先と着実に減少していく。これから5年先、10年先の70代、80代の人は、現役生活を強いられることにもなる。年齢を考えなければ、生きる道もあると思う。

-2.開発している物

① 握る道具

椅子だけでなく、握るということについて研究している。握るということは、人間の生存に関する極めて原始的な動作で、人間が発達する段階で会得し一生涯使う動作である。赤ん坊がニギニギし、年寄りは立つときに捕まる。捕まることで重心動揺を抑えることができる。。

ボールペンは試験会場で見ていると、受験生がいろいろな握り方をしている。長時間筆記に適した疲れ難いペンを考えようと思った。先駆者は千葉大学工学部の先生であるが、我々なりにやってみることにした。ペンの軸が丸だと全体に満遍なく当たるので良いが、回転するために保持するには余計な力が掛かる。三角形の鉛筆があり、三角形は方向制御がし易いので良いが、角が立って痛くなる。丸と三角形の両方の特長を持ったものを考えた。書く方に近い部分は三角形に感じないようにし、親指と人差し指で支える上の部分はスパイラル状にし、「スパイラル」という商品名で文房具会社のゼブラから発売した。プラスティックの部分を透明にした「クリア」タイプは、入学試験をクリアする入学祈願のグッズとして、12月と1月に売り上げが伸びる。学者にはない感覚である。このボールペンは世界中で売られ、現在400万本ぐらい売れている。

次に、新潟県燕市の会社が販売している包丁「藤次郎エルゴス」(パンフレット配布)である。開発はドイツとオーストリアで行った。ドイツはゾーリンゲンなどの刃物が優秀なので、ドイツの学会で発表し評価してもらわなければならない。大根を切るときの掌に掛かる圧力分布を測定するため、測定方法の開発から始めたので、開発に時間が掛かった。主に大根を切ったときの圧力分布を調べて解析した。既存のデザインのグリップ形状(またはハンドル形状)では、掌の中央部、人指し指、意外に小指にも力が掛かっている。切り終わるまでの約2秒間の時間変化も調べている。開発したグリップでは、圧力分布が平均化して低下している。グリップのエンド部で切り終わってから圧力が少し上がっているのは、包丁は切らないで持っている時間が長いので、小指の辺りが引っかかるようにしているためである。この包丁は東急ハンズでも売っているが、安全上から鍵を掛けており、握りが売りなのに握ってもらえない。

② 靴べら

単なる靴べらではなく、裏側に突起があり、靴を脱ぐときにも使える。長いものと鞄かポケットに入れられる小さいものがある。女性がブーツを脱ぐのに便利である。女性は靴べらをハンドバックに入れることはないので、男性用である。「楽ぬぎ」として商標登録申請中であるが、商品分類の雑貨の中に靴べらがあっても、靴を脱ぐというのがないために拒絶され、特許庁と折衝中である。

③ 椅子

昔からやっているので話すことが沢山あるが、最新のものを二つ持ってきたので、あとで座ってみて欲しい。この椅子は、昨年から始めた医学博士、工学博士と人間工学博士の三博士による「腰痛患者に優しい椅子の開発」プロジェクトで、ほぼ完成した。来年2月のドイツの学会での発表が採択されたとの情報が昨日入ってきた。

ある診療所では待っている患者が既に使用している。肘掛の先端に握り玉が付いており、お年寄りが立つときに役立つ。座面の後ろと背当ての下の部分は色が変わっているが、前者は仙骨を支え、後者は腰の下の部分を支える仕掛けになっている。腰痛患者に優しい椅子は、腰痛患者でなくても40歳以上の人には腰痛予防の観点からお薦めである。

今回の開発での新機軸は、最近コニカミノルタが開発した低被爆デジタルワイアレスX線撮影装置を使って人体と椅子の関係を調べたことである。今までは、医学と工学の連携が不十分であり、人間工学会の先輩の先生方は生理学的なことには強かったが、臨床的なことには少し弱かったため、X線を使って調べるようなことは行っていなかった。上の右の図は、人間を横から撮ったX線の透過写真で、背骨、骨盤、大腿骨の骨頭が見える。緑の線は椅子の形状を示しているが、X線では写らないため、鉛の線を貼って写真を撮った。医学、工学、人間科学の先生方がこのような写真を見て、開発した。論文は、日本では小出しにしているが、来年2月末にドイツで学会発表する。

低被爆のX線ではあるが、学会では倫理の問題がある。倫理とは、人体に悪影響を及ぼすようなことをしないこと、プライバシーを尊重することであるが、各大学および病院には倫理規定がある。それぞれの先生が所属する機関の倫理規定を全部通すのが大変で、特に日本では時間が掛かり、研究が遅れることになる。ドイツに論文を出したのは、学会で審査して早いからである。国際的に通ると、日本に持ってきても日本では倫理委員会を通さずに発表できる。国際的な仕事をすることにより、プライベートな関係もできて、このようなことができた。同級生でも長年海外いる人は大変苦労しているが、今の若い人達はその土台の上にいるため、気になるところである。

-3.医学と工学の協同

医学では下図のような腰の部分のX線写真を撮る。左の写真は立っているときの写真で、腰椎は湾曲している方が健康状態として良いといわれている。右の写真は座ったときの写真で、腰椎がフラットになり、腰痛を起こし易い状況になる。整形外科医の根本的な問題は、全てのものごとを写真で診断し、実際の作業時の状態に関心を持っていないことである。一方、工学的にはこのような写真は撮れないので、腰に三次元の角度を測定できるジャイロセンサを取り付けて、腰の曲がりを調べる。工学的には中を見ないで、外から見ているが、作業時の腰の動きが分かる。医学と工学の人が一緒に仕事をすると、言葉が違い、測定方法が違うが、お互いの良いところを擦り合わせる必要がある。

7.まとめ

大学時代は、教師と学生は上下関係にあり、研究も教育も垂直型である。学生からの提案は受けるが、ある程度の範囲内でのことで、トップダウンである。ここには利点もあれば、欠点もある。一方、退職後は水平型の研究をしている。前述のパンフレット(6-2①参照)にあるように、世界中のいろいろな人たちが輪になって関わっている。

前述の椅子の開発(6-2③参照)においても、水平型で行った。大学の博士三人が参加したが、博士は椅子を作ることはできず、椅子を作るのは職人である。職人との良い関係がなければ、良い椅子はできない。椅子を作るメーカは静岡、研究のサポートは岐阜、お医者さんは山口、自分は東京、と分かれているために集まるのが大変なので、テレビ会議方式で試作品や素材を見ながら行った。今回の開発では、この方式が役立った。

長い間いろいろな仕事をし、大学、研究、退職して現在に至っている。幸い健康は特に問題はないとのことなので、もう少し頑張ろうと思っている。

8.質疑応答
Q1.車のシートは人間工学的に十分考えられている車を買って乗っていたが、腰を痛めたときには小学校の椅子のように垂直になっている方が良いように思った。NHKのテレビに出てきたような調節機能を持ったもので解決できるのか、または既にそのようなものが考えられているか?
A1.自動車会社は前に作ったものを踏襲し、他社を睨みながら、小手先でやっている。一方では猛烈なコストダウンもしなければならない。できることだけやっているといった方が良いかも知れない。リクライニング機構があるため、背当てと座面の間が機構上できないところもある。どんな自動車も座り心地が良くない。まだまだ開発の余地がある。背当てからゲンコツ状のものが出てくるランバーサポート(ランバーは背骨)は、200万円ぐらいの車には付いている。バスや鉄道の椅子も酷いもので、防御した方が良い。違和感があれば警告と思い、本を腰に当てるとか、襟巻きを腰に当てるとかした方が良い。

Q2.刃物を扱っているベンチャー企業として、製造物責任はどう考えているか?
A2.製造物責任の保険料は、非常に安い。全てメーカに作らせており、メーカに保険を掛けていることを最初に確認している。一方、メーカは豊富な経験があるので、こちらからのデザインに対してメーカが製造の可否を判断し、さらに全て国または自治体の機関で試験をしてもらって証明をもらっている。保険は二重、三重に掛けても良いので、自社で保険を掛けることも検討しているが、製造所でなければ掛けられないと聞いている。非常に関心を持っているが、人間が扱うものを作っているので、先ずは壊れないものを作らなければならない。

展示物

① ボールペン

② 包丁

③ 靴べら(2種類)

④ 椅子(2種類)

(記録:池田