第 3 8 8 回 講 演 録

日時: 平成23年7月11日() 13:0015:20

演題: レポート「ドナウの南とエルベの東」

講師: ドイツ地誌研究家 鈴木 喜参 氏

は じ め に

 1972年、ミュンヘン・オリンピックの年に初めてドイツの土地を踏み、最初の訪問地フランクフルトの街並みや、ライン川の流れの美しさに感激した。その後、デュッセルドルフに駐在中、1989年にベルリンの壁が崩壊し翌年1990年に東西ドイツが統一されるという奇跡的な歴史の一場面に遭遇し、一緒にいたドイツ人達とともに感激を分かち合った。その直後のイースターの休暇中に旧東ドイツ各地を巡り、旧東ベルリン、ドレスデン、ライプチッヒ、バッハの生誕地アイゼナハなどでの見聞から、ドイツは西より東により多くの文化遺産が遺されていることを再認識した。それがドイツの地方文化を主テーマとしてドイツ地誌の研究に取り組む契機となった。その後銀行を退職し、2004年から2年間ミュンヘン、2006年から2年間ベルリンに滞在し、ミュンヘン大学、ベルリン自由大学、ベルリン・フンボルト大学で聴講し、自ら車を走らせてドイツ各地を回って資料を調査し、多くの写真を撮影した。本日の講演では、その間に蓄積したドイツについての知見を「現地レポート」の形で報告する。

Ⅰ 序 論

1.本「レポート」の目的

このレポートの目的は「ドナウの南}と「エルベの東」という対称的な大文化圏を形成する二つの重要な地域を取り上げ、それぞれが持つ文化遺産を地理と歴史の座標軸におき、ドイツの特徴的な地方文化を比較対照し、その背景にあるものを解明することにある。

2.予備知識

2.1 ドイツの歴史上の10の出来事

 ① 962年 神聖ローマ帝国発足(オットー大帝)

 ② 1517年 ルターの宗教改革

 ③ 1618年~1648年 三十年戦争

 ④ 1806年 神聖ローマ帝国消滅(ナポレオンによるドイツ支配)

 ⑤ 1814年 ウイーン会議

 ⑥ 1871年 ドイツ帝国成立(プロイセン主導の第二帝政)

 ⑦ 1918年 第一次大戦敗戦、翌年ワイマール共和国発足

 ⑧ 1933年 ナチス・ヒトラー政権掌握、第三帝国発足

 ⑨ 1949年 西ドイツ・東ドイツの発足

1989年 ベルリンの壁崩壊(再統一)

2.2 二大文化圏の地理と文化の特徴

「ドナウの南」はバイエルン大文化圏、「エルベの東」はベルリン・ブランデンブルグ大文化圏を指す。因みに森鴎外はかつてライプチッヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンなどに遊学しており、当時においてもこの地域の文化・学術的水準が高かったことを物語っている。ドナウ川はシュトゥットガルトの南のシュヴァルツヴァルト(黒い森)に水源を発し、バイエルン、ウイーンを経て東へ流れて黒海に注ぎ、エルベ川はチェコに端を発し、ブランデンブルグ州の西側に沿ってドイツ東部を北上し北海へ注いでいる。

    「ドナウの南」とは

・バイエルン州の政治的・文化的な中心地域を指す。(本レポートではバイエルン州全体を指すこともある)

・歴史的にはバイエルン侯爵領、19世紀にはバイエルン王国となって発展した。

・バイエルン州はドイツの16州中で面積は最大、人口は2位、経済力は第1位の重要な地域、旧西独の一州。

・特色のある地方文化と豊富な文化遺産を有する。

    「エルベの東」とは

・現在のブランデンブルグ州と、その真ん中に位置するベルリン市を指す。

12世紀頃からドイツ人の東方政策として、スラブ人を駆逐して植民が行われた。

15世紀頃からホーエンツォレルン家の領地、18世紀からプロイセン王国となり、その都ベルリンは19世紀から首都となって発展した。

2.3 ドイツはなぜ地方分権国家となったか?

ドイツ建国の母体となったオットー大帝による神聖ローマ帝国建国以来の歴史的経緯による。神聖ローマ帝国は「ローマ教皇(法王)と皇帝の二つの中心を持つ楕円」と表現されるが、皇帝は教皇庁から皇帝としての戴冠を受けるだけではなく、イタリアの治安平定も任され、度々イタリアへ遠征した(いわゆる「イタリア政策」)。その間ドイツでは各地に有力貴族が勃興し、国王(皇帝)が中央集権的に支配することが困難となり、14世紀以降は大貴族の代表である「選帝侯」7人(のちに9人)が国王を選出する制度・ヒエラルキー(階層)が定着した。

2.4 近世までのドイツ社会の特徴

ルターの宗教改革の後、宗派の違いによる複雑な要素が加えられ固有の地方文化が形成されることになった。近世のドイツ社会の特徴は厳しい身分社会で皇帝を頂点として、世俗(貴族)、聖界(僧侶)、帝国都市(皇帝直属都市)からなるヒエラルキ-社会であった。今に残る文化遺産には階層の上部にいた権力者たちの栄華を物語るものが多い。世俗を代表する貴族の中でもバイエルンのヴィッテルスバッハ家は神聖ローマ皇帝を輩出した名門貴族。

2.5 ドイツの景観はなぜ美しいのか?

ドイツの伝統文化はゲルマンの伝統、民族性や、いわゆる「ドイツ人気質」に根差している。ドイツの街並みが整然とし、清潔で美しいのはこれらの「ドイツ人気質」に由来するといってよい。「ドイツ人気質」についてドイツ人自身が次のような特徴を挙げている。

①規律(Disziplin)  ②清潔(Sauberkeit)  ③信義(Treu)  ④美徳への理想(Tugendideal)

⑤節約(Sparsamkeit)  ⑥徹底性(Gruendlichkeit)  ⑦時間厳守(Puenktlichkeit)

⑧従順(Gehorsam)  

これらのドイツ人気質を日本人のそれと比較すると、「⑥徹底性」を除き共通するものがある。日本人は状況に応じて弾力的に対応し、協調性を重んじる一方で、物事を曖昧なまま放置することが多いが、ドイツ人は何事も徹底的にやり遂げる半面、秩序を重んじる余りに弾力性に欠け、ナチズムのような極端な方向に徹底して振れてしまう欠点がある。

Ⅱ 本 論

第1章 自然と農業

あるドイツの地理学者が「日本は自然条件が複雑で地域性は自然の影響が強いが、歴史は比較的単調で日本文化は統一的である。一方、ドイツの自然条件は比較的単調であるが歴史は極めて複雑で、地域性は歴史によるところが大きい」と述べている。ドイツの地理の特徴は日本と異なり南に行くほど標高が高くなり、冬は南の方が寒くなることである。

.「ドナウの南」とは

1.1 特徴

ドナウの恵みを享けた肥沃な平野と雄大なアルプスの山岳地帯で、①立体的、男性的な自然景観、②アルプスの北側には肥沃な平野が広がり、ドイツ一の穀倉地帯、ホップの生産、ビール醸造も盛ん。③風光明媚で人気の高いリゾート地帯、氷河により形成された水深の深い湖。

1.2 景観への影響

①大自然が都市に近く、生活に密接している。②石造りや木造の建物が多く、レンガ造りは少ない。③農業や観光産業で繁栄していて、街並みも豊か。

1.3 農業の特徴

    ①中世からグルントヘルシャフトと言われる土地支配が行われた。②1戸当たり農地面積が狭い(約20ha)。

.「エルベの東」とは 

2.1 特徴

低地が広がり、山が少ない。河川が蛇行し、湖沼が多い。氷河の遺した漂石も見られる。①起伏の少ない女性的な優美な地形。②農業には不適当な痩せた土地があり、未利用の原野や松林が多い。③河が蛇行してあちこちに湖沼や湿地帯を形成している。

2.2 景観への影響

 ①レンガ造りの建築が多い(木材や石材が少なかったため)。とりわけレンガのゴシック建築は当地固有のもの。装飾破風が至るところに見られる。②荒石を使用した建築物が多い。③運河が多い。

2.3 農業の特徴

①歴史的に見てグーツヘルシャフトといわれる土地支配が一般的であった。貴族(地主)が自ら大農場を経営し、収穫物を売却して利益をえた。地主と農民の関係は役務関係だった。②貴族はユンカーといわれ保守勢力となった。③農民は土地に拘束された隷農となり、19世紀にはプロレタリアートとなった。

第2章 ドイツ人が住み始めた時期と世俗の支配者たち

1.ドイツ人が住み始めた時期

1.1 「ドナウの南」では

①紀元前はケルト人、紀元後はローマ人が住み、早くから開けた土地柄(ケルト語の地名や川の名前が多い・・・ドナウ、レーゲン、パルテンキルヒェンなど)。②西暦375年からの民族の大移動でローマ人は退却した。③6世紀頃にバイエルン人が定住し、ヴィッテルスバッハ家が12世紀から19世紀まで支配した。    

1.1.1 ヴィッテルスバッハ家について

①ミュンヘン近郊のドイツ切っての名門貴族、神聖ローマ皇帝も輩出した。② 1180年オットー一世がバイエルン侯爵に任じられて後、1818年まで740年近くこの地を支配した。③1871年プロイセンの率いるドイツ帝国の傘下に入った。④現代でも住民から慕われている。

1.1.2 バイエルン人とは

①ボヘミア地方(現在のチェコ)から移動してきて、ケルト人、ローマ人と混血したゲルマン人(有力な説)。②その民族的特徴は、陽気、活発、創造性、音楽的な才能、感情の起伏の激しさ、享楽性などで、ケルト人から受け継いだものと見られる。

1.2 エルベの東では 

①元々スラブ人が住んでいた地方でスラブ語の地名が多い。(ベルリン、ドレスデン)②ドイツの東方植民の時代(12世紀~)に入植が始まったので、「ドナウの南」より3世紀~6世紀も遅れて開拓された地域。③「帝国の辺境(マルク)」と呼ばれたので、現在もこの地方を「マルク」と呼ぶことがある。④15世紀から19世紀までホーエンツォレルン家が支配した。

1.2.1 ホーエンツレルン家について

①南西ドイツ(シュヴァーベン)出身の名門貴族、1411年ブランデンブルグ総督に任じられ、後に選帝侯となる。1701年にプロイセン王国に格上げ、1918年まで約500年間この地を支配した。③17~18世紀に優れた君主を輩出し、1871年ドイツ帝国(第二帝政)を発足。

1.2.2.現在も残るスラブ系少数民族「ソルブ人」について

①言語も風俗も独特であり、この地方に2万人住んでいる。②ナチス時代は虐待、排斥されたが、現在は積極的に保護されている。

,世俗の支配者たち

2.1 「ドナウの南」では ―ヴィッテルスバッハ家の主な人物像―

ルードヴィヒ4世(在位1294~1347)・・・同家から初めて神聖ローマ皇帝に即位。一族の精神的支柱。

マクシミリアン1世(在位1597~1651)・・・三十年戦争を皇帝(カトリック)側のリーダーとして戦い抜いた。その功により選帝侯に即位。同家の中興の祖。

マクシミリアン1世ヨーゼフ(在位1799~1825)・・・ナポレオンの時代を巧く乗り切った。王国に格上げされて初代国王に即位。宰相モンジュラが貢献し、バイエルン発展の基礎を築いた。

ルードヴィヒ1世(在位1825~1848)・・・ミュンヘンを芸術の都に改造した。多くの文化遺産を遺した。 

⑤ルードヴィヒ2世(在位1864~1886)・・・優美な城や宮殿を遺した。大作曲家ワーグナーを支援し名曲を後世に遺させた。為政者としては失敗。

2.2 「エルベの東」では ―ホーエンツレルン家―

フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯(在位1640~1688)・・・富国強兵に着手、国家発展の基礎を築いた。中興の祖。

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713~1740)・・・第2代プロイセン国王で質実剛健のプロイセン精神の祖。「軍人王」といわれた。しかし戦争は1度もしなかった。「富国強兵」に邁進。

ヴィルヘルム2世(在位1740~1786)・・・第3代プロイセン王国の国王。七年戦争などに勝利し、大王といわれた。啓蒙絶対君主で、数々の文化遺産を遺した。

ヴィルヘルム1世(在位1861~1888)・・・宰相ビスマルクの活躍で、ドイツ帝国を誕生させ、初代ドイツ皇帝に即位した。

ヴィルヘルム2世(在位1888~1918)・・・帝国主義の流れの中、軍部に押し切られ、第一次大戦に突入、オランダに亡命、帰国せず、同家最後の支配者となった。若し帰国していたらドイツは今も立憲君主国として続いていたかもしれない。

第3章 宗教と修道院廃止

ドイツの総人口82百万人中キリスト教人口は56百万人。東独の社会主義時代に多くの人が無宗教となったことと、キリスト教徒に課せられる教会税を嫌い、キリスト教徒として登録しない人がいるため、総人口の約3割が非キリスト教徒となっている。カトリックとプロテスタントは、それぞれほぼ同数の27百万となっている。バッハは敬虔なプロテスタントとしてプロテスタントの宗教音楽のみ作曲し、カトリックの都市は生涯訪れることはなかった。一方、モーツァルトはカトリック教徒であったが、宮廷音楽家としてカトリックだけではなくプロテスタントの宮廷都市も訪れている。

.「ドナウの南」では

1.1 ドナウの南はなぜカトリックの牙城となったか?

①地理的にローマが近かった。②領地内に教会や修道院の領地が多く、領主ヴィッテルスバッハ家にとってもカトリックを維持することが合理的であった。③1555年アウグスブルグの和議で「領主の宗教」が「領民の宗教」と決められ、ここをカトリック信仰の地とするために、反宗教改革を行って、プロテスタントを積極的に排除した。

1.2 文化遺産や風習に見るカトリック信仰の特徴

①豪華な内装の教会、②聖母崇拝、聖人崇拝、③路傍の十字架、キリスト像、④日曜日にミサへ、⑤村中総出で祭りを祝う、⑥巡礼が盛ん、⑦現ローマ法王ベネディクト16世を生んだ。

1.3 修道院廃止または教会財産没収

修道院廃止は、「エルベの東」ではルターの宗教改革直後に実施されたが、「ドナウの南」では、これより250年も遅く行われたため、未だ多くの建物が遺されている。修道院が公共の用途(学校、幼稚園など)に転用されているところが多い。

.「エルベの東」では

2.1 「エルベの東」の宗教の特色は?

 ①1517年のルターの宗教改革はこの地方に急速に広がった。②1613年ホーエンツォレルン家はカルヴァン派に改宗し、領主はカルヴァン派、領民はルター派という変則的な状況となった。③戦後東独政府は宗教を禁止したのでこの地のキリスト教徒が激減した。(信者約18%)

2.2 文化遺産や風習に見る信仰の特徴

①信者が減り教会が余剰になって、他の目的に転用されている。②教会が質素(ただし宗教改革以前に建てられた教会は昔の豪華さを留めているところがある)。③個人崇拝、巡礼などは風習として残っていない。

2.3 修道院廃止

ルターの宗教改革直後(1550年頃)実施された。廃止後450年以上も経過していて、建物が廃墟になっていたり、姿を消しているところが多い。

第4章 都市と工業化

 近世になり帝国(自由)都市は停滞、凋落して行き、宮廷都市が発展した。ドイツの工業化はイギリスより半世紀以上遅く、19世紀後半になって進展した。

①第1段階:石炭(蒸気機関)利用 ②第2段階:電気(モーター)利用 ③第3段階:石油(エンジン)利用

.「ドナウの南」では

1.1 都市の盛衰

①中世までは多数の帝国都市が繁栄(レーゲンスブルグ、アウグスブルグ、メミンゲンなど)、②レーゲンスブルグは特別な存在(17世紀以降、毎年帝国議会開催)、③近世になり帝国都市の相対的地位が低下、宮廷都市が発展、④ミュンヘンはヴィッテルスバッハ家の宮廷都市として発展、市民は領主に従順。

1.2 工業化

①バイエルンは農業中心で、電気の時代になって工業化が進展。②産業遺跡が少なく、自然が破壊されていない。③シーメンスは第二次大戦後本社をミュンヘンに移転し、20万人の雇用を創設。④モータリゼーションの時代になって、優秀な自動車メーカーが成長、現在も主力産業となる。

1.3 工業化の文化遺産

ライン・マイン・ドナウ運河は世紀の大事業

2.「エルベの東」では

2.1 都市の特徴

①東方植民時代(12/13世紀)に建設された都市が多い。②帝国都市はフランクフルト(オーデル)のみ。③ベルリンは商業都市(ハンザ都市)から宮廷都市となり急速に発展、ドイツ帝国の首都となる。④ベルリンは戦後「壁」により遮断され、数奇な運命をたどる。

2.2 工業化

①プロイセンはドイツの石炭産地を支配、ベルリンは石炭(蒸気機関)の段階(19世紀)になって発展(蒸気機関メーカー ボルジッヒなど)。②電気の時代(19世紀後半~)にはシーメンスやAEGがベルリンで大会社に。③周辺の農村から農民が労働者として流入、プロレタリアートを形成、ビスマルクが「アメとムチ」政策の一環として導入した年金制度は出生率の低下をもたらした。当時のドイツでは働き手を増やすため出生率が高くなる傾向があったが、年金による生活保障が出生を抑制する誘因となった。

2.3 工業化の文化遺産(産業遺跡)の例

①レンガ製造炉、セメント製造炉 ②広大な褐炭露天掘り炭鉱 ③大会社工場跡 ④大規模運河施設 ⑤劣悪な労働者住宅跡

第5章 現代史

ドイツ人は『オーストリア人は「ベートーベンはオーストリア人でヒトラーはドイツ人」という』と言ってオーストリア人を揶揄するが、実際はベートーベンはボン生まれの生粋のドイツ人であり、ヒトラーはオーストリアのブラウナウ生まれのオーストリア人である。

1.「ドナウの南」では

1.1 第三帝国、第二次大戦、そして戦後の状況は

①ヒトラーの生誕地(オーストリア ラウナウ)が近い。 ②ナチスはミュンヘンで旗揚げ、党本部をミュンヘンに置き「運動の首都」とする。ヒトラーはこの地に好んで滞在。 ③ニュルンベルグでナチスの党大会開催。④ベルリンより早く空爆され、主要都市市街が破壊される。 ⑤米軍が占領し、自治が尊重され、早期に復興。 ⑥1949年西独が成立しバイエルン州はその下に。⑦多数の避難民や引揚者が滞在し戦後復興、その後の発展に貢献。

1.2 景観や文化遺産への影響は

①第三帝国の遺産建築物(党本部、党大会会場、ヒトラー山荘など)。②破壊された多くの貴重な歴史的文化遺産も美しく復元(レジデンツ、州立歌劇場など)。③全体的に明るい(米軍占領の影響か)。

.「エルベの東」では

2.1 第三帝国、第二次大戦、そして戦後の状況は

1933年ナチスがベルリンで権力掌握し、中央集権のテロ国家へ。②ナチスのプロパガンダ発信地、多くのナチス建築建造。③ベルリンは大空襲の標的。④赤軍はスターリンの命によりベルリンを包囲、攻略。⑤1945年5月ベルリン陥落、ソ連軍の略奪、暴行。⑥主要工場機械は賠償の一部としてソ連へ移動。⑦ベルリンは4カ国が占領。⑧1949年東独成立、東ベルリン、ブランデンブルグを支配下に。⑨1961年ベルリンが「壁」で分裂都市に、「冷戦時代」に突入。⑩1989年10月ベルリンの壁崩壊、翌年東西ドイツ統一、ベルリンが首都に。

2.2 景観や文化遺産への影響は

①ベルリンには多くのナチス建築が遺される(オリンピック・スタジアム、連邦財務省など)。②ナチス強制収容所跡。③空爆破壊、弾痕の残る建造物、防空壕、瓦礫などの戦争の遺物。④ベルリンの壁、政治犯収容所、国家秘密警察跡、労働者住宅など共産主義の遺物。⑤マルクス、エンゲルス、レーニンのモニュメント、地名が多く残る。⑥西側への逃亡者の残した空き家。⑦全般的に暗い雰囲気が漂う。

Ⅲ 結 び   住 民 の 意 識 な ど

.「ドナウの南」では

1.1 プロイセンと反中央集権 ― ①独自の有力政党(キリスト教社会同盟CSU、党首フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス)、②常に中央へ自己主張 

1.2 強い郷土愛 ― ①住民はローカルであることに誇り、②方言を臆せず、③民族衣装を好んで着る。

1.3 敬虔なカトリック信仰 ― ①篤い信仰心が謙虚さをもたらす。②健全な家庭生活を重視。

1.4 保守性と先進性 ― ①保守性と同時に先進性を持ち、②経済的にも繁栄。

,「エルベの東」では

2.1 第2次大戦以前 ― ①プロイセン精神(質実剛健、規律重視=国家へ奉仕、規律、服従、節約、誠実、清潔)はフリードリッヒ・ヴィルヘルム1世(軍人王)の政策(軍国主義・官僚制度・貴族の徴用)が起源

2.2 第2次大戦後 ― ①コスモポリタニズム(国際化、無国籍化)、②残るオスタルギー(旧東独賛美)、③反共、反社会主義④無宗教性、⑤大戦の被害者の怨念、プロイセン・アレルギー、 ④政治家ウィリー・ブラント(SPD)、アンゲラ・メルケル(CDU)

Ⅳ 補 論

. ドイツ地方分権制度の仕組み

1.1 連邦の権限

連邦の立法権と行政権は外交、国防、連邦財政、鉄道、郵便等に制限されている。連邦参議院は間接選挙で選出された各州代表者で構成。連邦の法律は各州議会の多数決による合意で成立。連邦衆議員は4年毎の直接選挙で選出。司法機関、連邦省庁も国内各地に分散配置。

1.2 州の権限 

その他のすべての権限は州に属する。学校・大学制度、放送事業は州の「文化高権」。州財政は州間の「財政調整」により税収が豊かな州から貧しい州へ移転。

2.ドイツ経済の動向

 ドイツ経済は、東西ドイツ統合直後の1997年には失業者が実質的には5百万人を超え、一時危機的状況に陥った。しかし、最近は好転し、失業者は290万人に減り、失業率は6.9%まで下がった。最近の経済好調の主な原因は、①EU統合による市場拡大、②ユーロ安、③中国市場などへの積極的取り組み、による輸出の増加によるもの。

3.農業の状況

  農業就業者数は125万人で全就業者の2.2%(日本は3.9%)。食料自給率は生産額で80%(日本は70%)

4.ドイツ統一基金とファイナンス

 東西ドイツ統一の際、旧東独のインフラ整備、失業者救済などを目的として「ドイツ統一基金」が創設された。当初の基金820億ユーロ(10.7兆円)、その後第1次連帯協定で1,070億ユーロ(13.9兆円)、第2次で1,560億ユーロ(20.3兆円)の長期基金が設定された。その財源は新設の「ドイツ統一連帯付加税」で個人及び法人の所得税の5.5%を通常税額に加算し徴収。

5.ドイツの売上税(付加価値税)の推移  {( )軽減税率(食料、学用品など)}

 1993年14%(7%) → 1993年15%(7%) → 1998年16%(7%) →  2007年 19%(7%)

 2007年の3%引き上げは、2002年ユーロ発足の際のマーストリヒト条約による年度財政赤字をGDPの3%以内に、累積赤字を60%以内に抑えるという取り決めに対応するため、2007年にメルケル首相が財政健全化のための3%増税を選挙公約に掲げて実施したもの。

6.ドイツの電力事情(発送電分離、再生可能エネルギーの固定価格買取制度の視点から)

6.1 電力市場自由化の経緯

1996年EUが「電力市場自由化指針」公布、②1998年「エネルギー経済法」で発電・送電・販売を分離、市場の自由化

6.2 発送電分離の構造・機能

①全ドイツを4地域に分け4企業が相互に連携して運営、②大口需要は入札により供給者を決定、③送配電網はEssential Facilityとして管理監督、④送配電網利用料は適正な水準に設定されるよう監視され、最終需要者の電力料金に加算、⑤電力供給と販売市場はそれぞれ競争、⑥大口需要は供給者を入札で決定、⑦小口需要は地域内限定でインターネット取引、⑧電力供給者は契約需要者が必要とする量の供給義務、⑨電力供給品質は連邦ネット庁が管理監督

6.3 再生可能エネルギー買い取り制度

2000年に再生可能エネルギー法制定、②送配電事業者は再生可能エネルギー業者から20年間固定価格で買い取り義務、③再生可能エネルギー供給業者は自由参入可能、④送配電追加コストは最終需要家が負担

6.4 電力供給事業者

電力供給業者数は全ドイツで957社。市場の80%を大手5社が占める。エコ電力(50%以上を再生可能エネルギーが占めることが条件)供給者は殆どが小規模業者。

Q & A

Q1:スラブ系少数先住民族「ソルブ人」がこの地方の文化に影響を与えているか?

A1:「エルベの東」はスラブ文化の影響を受けてはいるが、ソルブ人の固有文化の影響はあったとしても潜在的なもの。

Q2:ドイツの脱原発の理由は?

A2:フクシマの事故をきっかけに「緑の党」をはじめとして反原発の地方住民勢力が強くなり、元々原発推進支持であったメルケル首相も政治的に譲らざるを得なかった。

Q3:ドイツの大統領の役割は何か?

A3:連邦国家としてのドイツの政治的統合の象徴・国家元首として、主に外国からの賓客の応対などの外交行為を行う。4年に1度の選挙で公選される。日本の天皇と違い政治的な発言が許される。

以上

(記録:井上邦信)