第 3 7 5 回 講 演 録


日時: 平成22年4月16日(金) 13:00~14:30
演題: 日本におけるキリスト教の歴史 ~伝来から現代まで~
講師: 聖トマス大学 教授、東京大学 名誉教授 文学博士 五野井 隆史 氏

*キリスト教は社会的に受け入れられているが、大変難しい状況にある。

1614(江戸幕府の禁教令)にはキリシタンの数は37万人で全人口の2.46

(キリシタンはポルトガル語christāoに由来し、キリスト教徒の意味)

現在のキリスト教徒の数は108万人(カトリック45万人、プロテスタント63万人)で全人口の0.84%、他にブラジル等からの出稼ぎのキリスト教徒は40万人位(2001)

*日本に伝来してから450年間の歴史を紹介し、日本人の宗教観にも言及する。

1.イエズス会結成とその背景

*武人ロヨラ(14911556)の回心・・・1521年パンプローナ攻防戦で負傷、翌年巡礼に出、モンセラートのベネディクト修道院で武器を置き、『霊操(心霊修業)』を執筆、エルサレム巡礼後帰国し『霊操』普及に努めるが、異端の嫌疑でドミニコ会の追求を受けてパリに逃れ(1528)、パリ大学でザビエルと会う。

1534年8月に巡礼者イグナティウス・デ・ロヨラが、フランシスコ・ザビエルら同士6人と共に信心会「イエズス会」をパリで設立し、清貧・貞潔・聖地巡礼を誓願

*イエズス会結成時は大航海時代の第3期(153095)に当たり、ポルトガルとスペインが抗争期から勢力安定期に入り、イギリス・オランダが海外進出してきた時期

*大航海事業に伴う世界的変化

(1)地理的な拡大・経済活動の拡大(地中海 ⇒ 大西洋・太平洋・インド洋)

(2)経済的社会的変革・・・①貨幣経済発達と世界市場開拓・拡大、②物流による食生活の変化、③貨幣経済発達による急激な社会変化、教会破綻と免罪符発行 ⇒ 宗教改革

(3)思想・文化・宗教における新展開・・・①新しい信心運動と人文主義運動、②宗教改革と信心会による改革運動、ルネッサンスの終焉、③キリスト教の世界宣教

2.ザビエルの東洋・日本宣教

1539年にポルトガル国王ジョアン3世がイエズス会に宣教師のインド派遣を要請

1541年4月にザビエルが教皇使節としてリスボンを出帆し、翌年5月ゴアへ

1545年9月にザビエルはゴア植民政府・役人との軋轢、知的レベルの低い改宗インド人に対する失望により、マラッカに渡航しモルッカ諸島の宣教に着手

154712月にアンジローに会い、日本人に対し強い関心と期待・・・①日本人は知識を渇望、②信仰を得れば自分達で継続可能、③イスラム教徒もユダヤ人もいない

*日本渡航決断の背景・理由

(1)ザビエルが説いたキリスト教・・・新しい信心運動に基づく人間キリストを強調したヒューマニティ溢れる教えで、天竺渡来僧が説く仏教の一派として受け止められる。仏教用語50語以上を援用して教えを説く。普遍宗教の仏教とキリスト教には共通概念が多い。

(2)ザビエルが認識した日本人の宗教観・・・信教・信仰の自由があって他宗教に寛容(家族内に諸宗派の者が共存)、根強い祖先崇拝信仰、救済の問題に強い関心

(3)来日宣教師の条件・・・宗教者としての徳性を人並み以上に具え、哲学者で弁証法に通じ、自然科学に精通し、経験豊かで老人や若者は不適、肉体的労苦や酷寒に堪えうる者

3.キリスト教受容の背景・理由

1)時代の大変換期に遭遇・・・荘園制社会から封建社会に移る過渡期で社会全体が混乱、天皇・公家・大寺院が没落、戦国武将の覇権争いが熾烈化、農民の自衛のための一揆頻発

2)宗教界の混迷と救済の渇望

①奈良・京都の旧仏教に代って一向宗と法華宗が台頭

②既成宗団に属さない民間宗教者が全国を行脚し、来世(後生)における救いを強調

③伊勢神道の御師が地方を回り、巡礼者を伊勢に導く(伊勢参り)

④仏僧達が全国の社寺を歩き諸宗遍歴を重ね、キリスト教に改宗した者が多い

3)倫理思想ともいえる「天道思想」が広く浸透・・・戦国武将は儒教の「天」の思想に基づく天道に誓って政治に当たり、天道に逆らえば罰を受けると考えた。イエズス会の宣教師はこれに着目し、最初用いたデウスの訳語「大日」をやめ、「天道・天尊・天帝」を用いた。

4)西南九州の戦国領主(大名)は貿易の利・武器・硝石(現世利益)を求めてキリスト教(後生の救い)に接近・・・宣教師がポルトガル船入港・貿易に深く関与、長崎の開港と町建てはイエズス会の要望、同会は日本・ポルトガル両国商人および秀吉・家康の貿易斡旋者

5)畿内の国人領主(高山・結城・三箇氏等)は精神的充足を希求:領主は俗人司祭として領主・家臣団・領民の一体化精神共同体を形成、一方で社寺破毀と仏教徒追放・圧迫

4.キリシタンの信仰とキリシタンに対する教育

*キリスト教は仏教の1派として受け止められる。初期キリシタンの信仰は甚だシンプルで呪術的

*数珠・護符に代わる新しい信心具(ロザリオ、メダル、紙に書いた十字架)を、護身具、悪魔払い・悪魔除け・迷信・偶像崇拝の呪縛から逃れるために使用

*日本の宗教の呪縛から解放のため、聖人の祝日・葬儀・婚姻・洗礼式を盛大荘重に執行

*後生安楽に彼らを導く基本的な教え「ドチリナ・キリシタン」により信仰・・・「後生に扶かる道の掟」として、①(神を)信じること、②頼もしく思うこと(後生への希望)、③愛の善(隣人愛)の実践を説き、来世に救いを得るための方法を明示

*信仰を側面から支え信仰の糧となる役割を担った修養書「イミタティオ・クリスティ(キリストに倣いて)」(日本での書名は「コンテムツス・ムンヂ:Contemptus Mundi(世の軽視・無視)」)が広く読まれる。聖書は印刷されなかった。

*殉教教育のための聖人伝の翻訳により、殉教に対する心構えと殉教の精神を説く

5.修道者・宣教者の養成

1580年セミナリオ(神学校)を肥前有馬と安土に設立し6年間ラテン語・日本語・音楽を教育、能力のある者は豊後臼杵に設立されたノビシアド(修練院)で2年間教育

1581年コレジオ(学院)を豊後府内に設立し、司祭を養成

1590年画学舎を天草の志岐に設立(テンペラ画、洋画、銅版画の三コース)

6.反キリシタン思想の形成

*反キリシタンの潮流(ザビエルの宣教と同時に生じ1565年頃までには形成)・・・①キリシタンは日本人の祖先神である神々を誹謗、②仏法の教えを否定、③神社仏閣を破壊して社会秩序を乱す、④教えが説かれる地では戦争が起き社会不安を招く、また宣教師は人間を喰い、教会を造ればポルトガル人が来て土地を奪うであろうと。

1565年将軍足利義輝暗殺に続き宣教師は京都からの追放(大うすはらひ)

*京都における宣教の不振・・・京都住民(法華宗徒主導の町衆)の結束の強さ、町掟による規制と地縁的繋がりの強さ、京都の改宗者の多くは地方出身の武士や流入者、下層民、病者

7.織田信長とキリスト教

1569年3月に信長は和田維政の要請で宣教師ルイス・フロイスの京都帰還を許可

*4月に信長は朱印状を与え、信長の政治的権力強化に伴いキリスト教の宣教活動安定

1571年と1573年に上長フランシスコ・カブラルが上洛し信長に謁見

*信長の宣教師に対する寛容な姿勢・・・新しい世界とその政治的知見(三国史観から脱却)、神格化への道模索(ローマ皇帝の存在を問う)、宣教師の渡航精神と無欲さ・真摯な宣教の態度・厳格な規律・従順(服従)の精神とキリスト教の厳しい倫理性を高く評価

*仏教勢力牽制のためにキリスト教を保護したという考え方は妥当でない。信長が本願寺との融和を求め最後まで寛容、また比叡山焼き討ちは政治勢力との結託が原因。

1579年のキリシタン推定数13万人、教会数150

8.豊臣秀吉とキリスト教

1583年に秀吉はオルガンティーノの請願に応え大坂城下に教会用地を付与

1586年に大坂城を訪れたイエズス会準管区長ガスパール・コエリョ神父に宣教保護の朱印状を付与。この時明征服のためのポルトガルのナウ船2隻購入と航海士雇用の斡旋を依頼

1587年に秀吉の九州ご動座、島津征伐後に博多凱旋

平戸のポルトガル船の博多廻航を要望したが、船長は廻航不能を伝え、その数日後に伴天連追放令が出る。すなわち、①「6月18(陽暦7月23)付覚」: キリスト教は禁止されず、知行2百町2、3千貫より上の者は公儀(秀吉)の許可を得なければならない。②「天正15年6月19日 定」(伴天連追放令): 中心人物高山右近は秀吉の命を謝絶してキリスト教の信仰を守る。これは、当時の倫理思想の師君の関係「三世(過去・現世・来世)の契り」に背き、秀吉は封建社会の秩序を乱すとものと考えた。

1593年5月フィリッピン総督使節としてフランシスコ会の宣教師が来日して秀吉に謁見し、許可を得て上洛。翌年10月秀吉より土地を与えられ教会・修道院・病院を建設

1596年に土佐にサン・フェリーペ号漂着し、フェリーペ号事件発生・・・誘導尋問により、「スペインは宣教師を派遣したのちに軍隊が行って国を奪った」と

1597年2月に長崎の西坂でフランシスコ会士6名を含む26名が処刑(26殉教事件)

9.徳川家康・江戸幕府とキリスト教

*家康は秀吉の禁教政策(給人層は許可制、一般庶民は自由)を踏襲、宣教活動を黙認

*家康はマニラ貿易開始とスペイン船の浦賀入港を企て、見返りに江戸にフランシスコ会の教会建設を許可(1599年教会建立)

1612年に岡本大八贈収賄事件が起こり、家康は禁教令を発し直臣キリシタン14名を追放、翌年ソテロ神父は浅草の鳥越にあったフランシスコ会の施療院の敷地に教会を建設、このためキリシタンと共に逮捕され、のちに釈放される。キリシタン27名は処刑(1名は牢死)

1614年に全国に禁教令を発令・・・大坂城決戦が近づき、多数のキリシタン牢人が大坂方に結集していたため、また幕府内の抗争で大久保忠隣の改易を穏便に処理するため

1616年に秀忠は禁教令を強化・・・宣教師の国内潜伏を口実に貿易地を長崎・平戸2港に限定し、オランダとイギリスの国内取引を禁止

*殉教事件が多発: 京都の大殉教(1619)53名処刑、長崎の大殉教(1622)55名処刑、江戸の大殉教(1623)50名処刑、仙台広瀬川(1624)8名処刑

1626年に長崎住民に対する棄教命令

*鎖国政策の推進

1633年に長崎奉行2人制となり長崎赴任に際して老中奉書17ヶ条(鎖国令)を与える

163436年に出島を築造し、ポルトガル人を押し込み、宣教師活動を制限

163738年に天草・島原の乱・・・領主の圧政に対し農民が一揆を起こす。大多数の農民はキリシタンで、信仰の高まりが一揆の団結をさらに強くした。

1639年9月にポルトガル船<ガレウタ船>の来航禁止(鎖国)

*潜伏キリシタンの自衛・・・浦上、外海や平戸で信心会(コンフラリア)を母胎に自衛組織

10近代日本とキリスト教

1858年日米通商条約締結 ⇒ 開国による外国人居留地での教会建設と踏絵の廃止

*プロテスタント諸教派の宣教師が初めて来日宣教活動開始

186412月にカトリックのパリ外国宣教会が長崎大浦に天主堂建造し、翌年潜伏キリシタンが復活

1867年7月に信仰を告白した指導的キリシタン68名が逮捕され(浦上四番崩れ)3,000人以上の信者が西国20藩に護送

187111月に岩倉具視欧米使節団が横浜を出発、各国政府から信仰の自由を求められ、1873年岩倉がベルギーから政府に打電し、キリシタン邪教の高札を除去

*プロテスタント教会の動向

1872年2月に禁教令下で無教派主義と独立自治(自給教会)を目指したが、禁教令が解除されると、自派の教会設立を優先し、日本基督公会・長老派教会・改革派教会の合同の日本基督一致教会(1877)等ができ、旧幕臣・旧佐幕派諸藩の出身者等が入信

*ハリストス正教会は1859年に函館に入り、1861年にニコライが着任し、北海道・東北から関東に勢力

1889(明治22)2月11日大日本帝国憲法施行、信教の自由を条件付きで許可

18901030日に教育勅語発布、天皇を「現人神」として神格化を図る、キリスト教系の学校にも教育勅語配布、ご真影礼拝を義務付け

18911月の内村鑑三の不敬事件を機に日本の国体に反する宗教として批判生起

1899(明治32)7月に「改正条約」施行、外国人居留地廃止によるキリスト教拡大に対する規制強化(教育と宗教の分離、外国人経営学校の宗教教育・宗教儀式を禁止、キリスト教系の学校は徴兵猶予の特権と上級学校進学のための特権を確保)

*日清戦争(1894)と日露戦争(1904)で日本のキリスト教であるかを問われ、義戦論により積極的に戦争に協力、キリスト教の日本化進行

1912年政府主導による神(教派神道)・仏・基の三教会同が実現、国家祭祀を司る神社神道(国家神道)を宗教とせず道徳として三教が従属、天皇制への忠誠を明確化

191417(大正3~6年)にプロテスタントは大正デモクラシー運動に連動して求道者増

192933(昭和4~8)「神の国運動」を起こし農山漁村、工場地帯に伝道

*満州事変(1931)515事件(1932)が起き戦時体制確立・国民思想統合による思想統制のため「神の国運動」は停滞

*侵略政策の展開により教育の軍国主義化・国民思想の統合化の波は宗教界にも及び、キリスト教は敵性宗教との疑惑(キリスト教徒は非国民、外国人宣教師はスパイ視) ⇒ キリスト教徒に対する伊勢神宮・明治神宮参拝強制(1928年2月)、文部省の「教化動員に関する」訓令発令(同年9月)

*「神社は宗教に非ず」、「敬礼は愛国心と忠誠を現すものに他ならず」との文部省見解をカトリック教会は容認

1933(昭和8年)3月に日本は国際連盟脱退、日本基督連盟は脱退を追認.

1935年4月カトリック全国教区司教会議開催、カトリックの日本主義への転向を決議・軍部への飛行機献納決議、翌年5月に教皇庁は日本カトリック信者の神社参拝認可

*内務省警保局は基督教連盟の「日本化」運動を「時局迎合の偽装的傾向」と見る

1938年3月文部省宗教局、神・仏・基三教代表者会議開催、翌年宗教団体法成立

*韓国教会に介入・・・日本基督教会富田満牧師は平壌の長老教会に神社参拝を決議さす。

1941年6月によりプロテスタント34教派が合同し日本基督教団、カトリックは日本天主教教団として認可

194411月に文部省は神・仏・基三教を統合して「大日本戦時宗教報国会」を設置、軍部による宗教界支配が確立

11戦後のキリスト教教会

1)信仰の自由と教会の再編

1945年7月26日に日本政府はポツダム宣言を受諾、「言論・宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」(10)

*新憲法「日本国憲法」 (194611月3日公布、翌年5月3日施行)により、信教の自由・政治と宗教の分離を規定(第3章第20)

*日本天主教教団を解散し天主公教教区連盟を結成、1952年司教会設置し、宗教法人カトリック中央協議会を設置、教皇庁と日本の外交関係再開

*日本基督教団は主要教派(組合派・メソジスト派・長老派)が残留、聖公会・ルーテル系・バプテスト系・救世軍・福音派系のホーリネスは離脱・独立

*日本ハリストス正教会はモスクワ母教会主教来日の連合軍阻止により分裂し、主流派は米国と連繋

2)戦争責任に対する姿勢

*賀川豊彦の一億総懺悔論、教会内部では責任論を回避

1951年にキリスト者「平和の会」が東京に発足し、戦争責任を反省

1967年3月に日本基督教団総会議長鈴木正久が「第2次大戦下の日本基督教団の責任」について告白、カトリック教会の謝罪表明は1986

3195060年代の動き

*下層社会層への接近農村伝道・開拓伝道・職域伝道・訪問伝道

*修道士ゼノと北原怜子の活動「蟻の町」

*プロテスタントは特に都市部の中産階層、アメリカ文化に関心を持つ青年・知識人を、カトリックは都市部の知識人・高学歴層を対象

4)世界との連繋

*プロテスタント教会が第2次大戦後に世界教会協議会WCC( World Council Churches)を結成し、教会一致促進運動ecumenismを目指す・・・ロシア正教、ギリシャ正教参加、ローマ・カトリックは第二ヴァティカン会議(196265)後に参加

*日本におけるエキュメニカル運動・・・1948年に日本キリスト教協議会NCC(Japan Council of Churches)を設立、1965年に司教協議会がエキュメニカル委員会を設置、1969年にプロテスタント・カトリック共通の邦訳聖書(共同訳聖書)の翻訳出版を準備、1987年9月刊

5)「信教の自由」問題

*伊勢神宮問題につきキリスト教会と仏教・新宗教等の宗教界が連繋

1959年にNCCが伊勢神宮の国家保護化運動に反対声明

19705月に日本キリスト教連合会は靖国神社法案に反対

1973年と1980年にカトリックは靖国神社国家護持法案化に反対の表明

6)憲法を守るキリスト者の会と違憲訴訟

196577年津地鎮祭違憲訴訟、197388年死亡自衛官の護国神社合祀拒否訴訟、1997年愛媛玉串料訴訟、1985年献穀祭訴訟問題

1989年昭和天皇の死と「大喪」・・・天皇の葬儀と政教分離「神道儀式による葬儀・即位式における「神人共食」の儀式」は「政教分離」の原則を曖昧にする、カトリック司教協議会は「信教の自由と政教分離の原則を厳守する要望書」を政府に提出

(記録 池田)